第三章 IGNITING
「なにあれ!」
「テロじゃないよね?」
「いいから逃げよう!」
誰かが押したのだろう、火災報知器のアラームが鳴り響いている。火の手は見えない。スプリンクラーも作動していない。しかし、なにか恐ろしい事態が起こっていることは間違いなかった。
「あれ、なんなんですか⁉ なにが起こったんですか!」
ソナタは明らかに取り乱していた。無理もない。いきなり謎の宇宙人が現れて、建物を破壊しつつあるのだ。どう考えても、今すぐここを逃げ出したほうがいい。
生徒たちはパニックを起こし、次々と出口に急ぐ。
「初さん!」
ソナタが僕の手を引っ張って、僕の身体もまた、出口に向かいつつあった。
しかし。
僕の心は、そこに残るべきだと言っていた。
今まで、どんな局面も悩んでばかりだった。たくさんの選択肢があって、正解を自然に選び取れたことなんてなかった。あのときこうしているべきだった、と反省してばかりだ。
けれど、今は違う。
確かに、これがもしテロリストの襲撃だったら、僕たちはここで命を落とすかもしれない。
しかし、僕の中のなにかが告げていた。
これは、そうではない、と。
その宇宙人は、なにかを探すようにあたりを見回している。
「……人間が多すぎるわね」
そう言った、と思った。マスクの影響で声はくぐもっている。それにこの喧騒だ。本当にそう言ったかどうかはわからない。しかし少なくとも人間ではありそうだ。
そいつがパチンと指を鳴らすと、空中になにかが投影された。
複雑に結ばれ、網目のように広がっていく点と線。なんらかのネットワーク、だろうか。
空中に手をひらめかせると、そのネットワークが複雑に変化する。
そして今度は、バックパックから小さな丸いものがゴトゴトと落下していく。
やがてその丸いものからはにょきりと小さな腕が生え、ふわりと浮き上がった。まるで手の生えた目玉のようだ。それがたくさん浮遊し、あたりに広がっていく。
よく観察すると、そのロボットはカメラを搭載しており、逃げ惑う人々を観察しているようだった。まるで、誰かを探しているように。
「すごい……なんだ……あれ……」
僕は、目を離すことができなかった。
あのジェットパック、そして小さなロボットたち。
見たことのない、想像もつかない技術で動いていることは間違いない。
もしそんなものを作れる人間がいるとしたら、それはこう呼ばれるべきだろう。
天才。
にわかには信じがたい。信じがたいが、本当に宇宙人を信じるよりマシだ。
では、なぜこの得体の知れない侵入者は、ここにいるのか?
テロリストでなく、宇宙人でもないとしたら。
もっともありうる可能性は、ひとつしかない。
「あの!」
僕は声を張り上げた。
「ちょっと、初さん⁉ ダメです、こういうのは舐めて前に出た人から死ぬんですよ⁉」
ソナタの制止を振り切って、僕は一歩を踏み出す。
確証なんて、なにもなかった。
それでも僕の直観が告げていた。
これが手に入れるべき、最後のピースなのだと。
「君! 君も参加者なんだよね!」
そいつは、マスク越しに僕を見た。目が合う。いや、実際には透明なはずのマスクには光を反射する加工がされていて、目が合った気がするだけだ。
「君が1位だ! そうだろ!」
続けてそう叫ぶ。
ある意味では当然の推論だった。
たったひとり、来ていない生徒。
圧倒的な技術を持つ謎の闖入者。
ひとたび恐怖と混乱を乗り越えれば、妥当な答えだ。
おそらくはマスクの向こうから僕を見つめながら、そいつはだんだんと近づいてくる。
注意がこちらに向いたことは間違いなかった。
足を踏み出すたび、ジャリ、というガラスの音がする。
ほとんどの学生は、今や避難していた。
火災警報も、いつの間にか止んでいた。
そいつは、なにも言わなかった。
ただじっと僕を見つめている。
僕は深く呼吸をして、それから語りかけた。
「今来たなら、知らないよね。チーム戦なんだ、3人の」
情報の格差。ありうるメリット。今まで考えてきたそんな戦略は、すべて機能しなかった。
魔法に等しい、圧倒的な能力。
そんな相手に、メリットもなにもない。
「僕は……万年2位なんだ。今まで1位になったことがない」
自分でも不思議に思うくらい、言葉はなめらかに形になる。
「だから勝ちたい。1位になりたいんだ。だから、君の力を貸してほしい。一緒にやろう」
僕に信仰はないが、懺悔というのはこういうものなのだろうか。
そびえる山、広がる海、あるいは輝く太陽。
まるでそんなものを目の前にしているような気分で、僕は佇む。
その感情は、祈りに似ていた。
沈黙。そして。
「ふふ、ふふふふふ」
そんな音が聞こえる。
マスクの下のそれが笑い声だと気づくには、時間がかかった。
「まさかこんなことになるとは思わなかったわね」
今度ははっきりと聞き取れる。
同時に、そいつはマスクを引っ張って外す。
その下からは、人間の表情が、姿を現した。
まず最初に思ったのは。
美しい、ということだった。
マスクを外した余波で揺れる髪は、ところどころ光に透けて金色に見える。肌は白く、理科室の実験器具のように滑らかである。そっけない服装は、かえってその均整の取れた肉体を際立たせているようだ。
なにより印象的だったのは、その目だ。
星のように輝く、その瞳。
光というより、それは炎だった。水素と水素がぶつかってヘリウムになるように、その目のなかでとてつもないエネルギーが渦巻いている。
どこまでも遠く、僕には想像もつかない銀河のような眼差し。
彼女は、僕を見つめたまま。
ごほん、とひとつ、咳払いをして。
「私の名前は、
そう言って微笑んだ。
外から入ってきた光が、割れたガラスに反射してきらめいている。
光を背負った彼女の笑顔は。
まるで神様みたいで。
同時に、その言葉の中にある違和感に、僕は気づいていた。
彼女の名前は、水溜稲葉。
それはいい。
でも、なぜ僕の名前を知っているんだ?
「いやぁ、派手にやったねぇ」
そんな穏やかな声が聞こえて、僕は弾かれたように振り向く。
ゆっくりと歩いてくるのは、湖上教授だった。
建物のガラスが粉砕されているというのに、湖上教授はまったく動じていなかった。海岸沿いを散歩でもしているかのような、優雅な足取りだ。
「久しぶりだね稲葉くん。来ないかと思った」
稲葉。湖上教授は、彼女のことをファーストネームでそう呼んだ。
「早雲、久しぶりね。元気だった?」
そして彼女もまた、湖上教授をファーストネームで呼び返す。あの湖上早雲を、だ。
しかし老教授は怒り出すでもなく、はっはっはと愉快そうに笑った。
「挨拶でも年寄りネズミに体調聞いちゃいけないよ。……稲葉くん、君は? 元気なの?」
「……ええ、おかげさまで」
「そうか……うん、それならいいけどね」
少しだけ正体のわからないためらいを滲ませながら、湖上教授は頷く。
稲葉、と名乗った彼女は、湖上教授と対等に話していた。強がるでもなく、奇をてらうでもなく、ごく自然に、まるで友達のように。そうしろと本人から頼まれたとしたって、僕にはそんな態度で接することはできないだろう。
というより、大学の建物のガラスを丸ごと吹き飛ばしてしまったのに、派手にやったねぇ、で済ませるとはいったいどういうことなんだ。
「しかし、どういう風の吹き回し? 本当に参加するのかい? ネズミの競争にフクロウが参加するようなものだと思うけど」
「ちょっとやりたいことがあって」
「ふむ……ま、そういうことなら、選抜を通過した君には間違いなく参加の権利があるよ。遅刻した生徒は、他にもいるしね?」
そう言って湖上教授が僕のほうを見る。どうやら遅刻は完全にバレているらしかった。教授というのは、意外に学生のことをよく見ているものなのだな。
「チームは?」
湖上教授がそう尋ねると。
ふわりとした感触を、身体に感じる。
ぎょっとして隣を見ると。
水溜稲葉の両手が、僕の肩に乗っていた。
そして覗き込むように寄せられた顔が、すぐ近くにあった。
「もう決まったわ」
遠くでサイレンが鳴りはじめた。けたたましく鳴るそれは、ごちゃごちゃしていて聞き分けることができない。ということはつまり、警察と消防と救急、複数の出動を意味する。それはそうだろう、大学の建物のガラスが全部割れたのだ。一大事だ。
しかし、もっと一大事なのは。
彼女が目の前に存在していることだった。
今でも、思うことがある。
このとき、僕が稲葉を誘っていなかったら。
あんなことにはならなかったのではないかと。
彼女は、確かにテロリストでも宇宙人でもなかったかもしれない。
しかし僕にとっては。
すべてを破壊するテロリストであり、彼方からやってきた宇宙人そのものだったのだ。