第五章 SERVING ②
時計に目線を移すと、もうそれなりの時刻だった。外も暗くなりはじめている。テーブルに手をついて立ち上がろうとして、身体がずいぶん重いことに気づく。頭脳労働でも身体は重くなるのだと、新鮮な驚きがあった。
「冷蔵庫、なにがあります? わたし、作りますよ」
ソナタがそう言いながら立ち上がるが、僕はその申し出を辞退する。
「いや、無理しなくていいよ。僕が作る」
「いいえ! ここまで甘えてしまいましたが、わたし、お料理の腕はちょっとしたものでして! おうちに住まわせてもらってるのに、なにもしないわけにも!」
「前も言っただろ、どっちみち自分で作ってたんだから」
ソナタがそう声をかけてくれるが、実のところ、ここまで食事はすべて僕が作ってきた。ひとりぶん作るのもふたりぶん作るのも手間はほぼ同じだからだ。もともと父さんも母さんもいない家にひとりで暮らしていたのだから、そのルーティーンをそのまま守ればいいだけの話だ。
それに、なにより。
料理をして、それを一緒に食べる人がいてくれるということに。
僕はどこかで、安らぎを感じているのだった。
しかし、ソナタの家は大丈夫なのだろうか、とも思う。
一緒に暮らしていると、ソナタの身なりの良さや立ち振舞いの上品さは否応なく伝わってくる。そういうことを自然に身に付けているような女の子が、まあ〈次世代高校生プログラム〉に参加するのに便利だからというエクスキューズがあるにせよ、こんなところで居候生活をしていていいのだろうか?
気にならないわけではないが、それがいいかどうかは、僕が決めることではない。
あまり自分からプライベートは詮索しないようにしよう、と改めて思う。
僕たちはチームであって、ファミリーではないのだから。
「初さん?」
「ごめん、ちょっと考え事してた」
「疲れてますね?」
「お互いね」
僕は立ち上がって肩をすくめる。庄一みたいなしぐさだなと思った。
「あっ……」
しかし、立ち上がったところで視界が揺れた。
立ち眩みだと判断して、その場にしゃがみ込む。
「だ、大丈夫ですか!」
「大丈夫、たいしたことない」
「やっぱりわたし、ごはん作りますから!」
「いいって」
「こういうときは素直に休むのも、リーダーの仕事なんじゃないですか?」
しゃがみこんだ僕の背中に手を当てながら、ソナタは言う。
望むと望まざるとにかかわらず、その手の温かさは、僕の中で固まったなにかをすっかり溶かしてしまうのだった。
「じゃ、悪いけどお願いしようかな……なんでもいいからね……」
「はい!」
いそいそと嬉しそうにキッチンに向かうソナタに、僕は素直に甘えることにする。代わりにリビング中に散乱した紙を片付けることにした。このままでは食事をする場所もない。
「もう、初さんは横になっていてください!」
「でも……」
「大丈夫ですよ、ほら!」
キッチンのソナタが、手のひらを上に向けて、僕の足元を指す。
僕の意図を察したのか、稲葉の小ロボットが幾つか集まってきて、紙束をまとめてくれていた。それを見て、僕は素直に横になることにする。
「これ自律してるんだよな。本当に頭がいい……」
ソファに横たわると、少し脳に血液が行く感じがした。日頃僕の心臓は、完全に重力に逆らって血液を送り出しているのだなと実感する。直立二足歩行というのは実に欠陥の多いシステムだ。人間は脆弱だ、という稲葉の主張も、あながち間違ってはいないのかもしれない。
猛スピードで紙を片付けていくロボットたちを見ながら、僕は考える。
水溜稲葉。万能の天才。
僕たちが作るロボットに対して、僕たちは役割を持たなくてはならない。
彼女にできないことなんて、果たしてあるのだろうか。
稲葉にできないこと――。
僕はキッチンに立つソナタを、ぼうっと見つめた。
食材を切るたび、包丁の金属と、まな板の樹脂がぶつかる軽快な音がする。なにを切っているのかは、ここからは見えない。しかしそのリズムから察するに、一定の硬さのものをみじん切りにしていることがわかる。
その音を聞きながら、僕は母さんが料理を作ってくれたことを思い出していた。そのときもこうして、その両手が作り出す音楽にも似たリズムに、耳をそばだてていたのだった。
僕はスマートフォンをポケットから取り出すと、音を消したまま、ひとつの動画を再生する。
そこには、母さんが料理をする姿が映っていた。
父さんはなにごとも記録を撮りたがるタイプだった。写真魔、とでもいうのだろうか。写真だけでなく動画を撮るのも好きで、常に僕と母さんにカメラを向けているような人だった。あまりにもずっと撮っているものだから、うんざりすることもないではなかったけれど、今となっては感謝している。
液晶のRGBが映し出す母さんの笑顔を見ながら、僕は考える。
僕は僕のことが嫌いだ。
僕の期待に、いつも僕は応えてくれない。
完璧でありたいと願うのに、いつもどこかでミスをしている。判断を誤っている。
何度挑戦しても、それを繰り返す。永久に負け続ける。
それが許せなかった。
期待に応えてくれない結果に、僕は魂を砕かれ続けた。
お前には自分が思うほどの価値はないのだと、そう突きつけられ続ける気がして。
だから母さんが作った料理を食べるたび、生きていていいのだと感じることができた。
人間は食事をしないと死ぬという、厳然たる科学的事実。ゆえに、少なくとも僕の空腹を由々しきことだと考えて、それを埋め合わせるために手間をかけてくれる人が、この世界にいる。僕はそのことを、料理を通じて五感のすべてで感じることができた。
でも、そのすべてが、今はもうない。
1位になれたよと、そう報告できるようになったら。
母さんは、帰ってきてくれるだろうか。
この家は、僕ひとりには広すぎる。
僕はスマートフォンの画面を下にして、腹の上に置く。
子どものころの自分に毛布をかけるような気持ちで、僕は瞼を眼球に降ろした。
■
「初さん」
「ん……」
「初さん!」
「え、あ!」
目を開けると、僕のエプロンを身につけたソナタが、すぐ近くにいた。
「ごめん、完全に寝てた」
「むしろ合ってます、そのためにわたしが作ったのに、初さんが休めていなかったら非合理的ですよ」
「稲葉みたいな言い方するね」
「へへ、うつったかもですね」
そう柔らかく笑うソナタに促され、僕はソファに身体を起こす。
同時に、食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐる。焼いた肉――メイラード反応と空気中で霧状になった油の匂いだ。
「はい、どうぞ」
そして目の前に出てきた料理に、自分の目が見開かれるのがわかる。
「ハンバーグだ……」
「ハンバーグです!」
得意げにそう言って、ソナタは皿をテーブルの上に置いた。
家のキッチンはカウンター式になっていて、その横に4人掛けのダイニングテーブルが設置されている。皿がそちらではなくリビングに置かれたことに首を傾げるが、その理由はすぐに明らかになった。