三〇〇メートル先のフェンスを越えれば港湾地帯から脱出できる。だが途中に遮蔽物がないので丸見えだ。照明も多く、迂闊に近づけば一発で見つかる。何か別の経路や手段を探す必要があった。
「お、おねえ、お姉ちゃ……その、励起手榴弾の数は……?」
「残りは三つよ。緒戦で使い過ぎた。さっきも一緒に数を数えたでしょ、ポケットの中のビスケットじゃないんだから数え直したって増えたりしない」
「じゃ、じゃあ……」
彼岸が息も絶え絶えなのは、まだ呼吸が整っていないからだろう。
それに恐怖や混乱も輪をかけているのかもしれない。
「『こっちから仕掛けられる』回数は、その、あと三回しかないって事なの……?」
「向こうは神格級を持ち出すほどの高レベルの召喚師をあれだけの数揃えている。これじゃどれだけあっても足りないよ。……戦う事は考えないでって言ったでしょ。避けて通る事を念頭に置かないと、あっという間に追い詰められるに決まってるんだから」
一人一人が精強な兵士が、埋め尽くすような軍勢で攻めてくる。対してこちらは弾の不足に嘆くような有り様。まるで古い戦争映画のような絶望的戦況だった。『倒して勝つ事』から『生き残る事』に目的をシフトしない限り、待っているのはヒロイックな犬死にだけだ。
ズン……!! という低い震動が再び響く。
思わず息まで止めて様子を窺う冥乃河姉妹だが、幸い、風景から頭一個以上突き出た巨竜のファフニールやヤマタノオロチなどは、彼女達に気づいていない。離れた所をゆっくりと移動している。それは同時に、他の味方が苛烈な攻撃を受けている事を意味していたが。
青い顔をした妹の彼岸が、口の中で何かを呟いているのを蓮華は耳にした。
「(……尋常ならざる戦を勝利に導く『白き女王』よ、脆き人の子の魂へ手を差し伸べたまえ……。に、苦手なピーマンも食べるしお姉ちゃんの言う事もちゃんと聞きます。だから……)」
『この業界』では珍しくもないおまじないだった。その垢抜けない様子を見て、改めて蓮華は思い出す。
───世界よりも大切な妹を生きて逃がすためなら、どんな事だってやる。
自分自身で誓ったその内容を、蓮華は強く唇を嚙み締めながら、強く強く。
「……召喚師なら願掛け以外にだって神様に語りかける方法があるでしょ。行くよ彼岸」
「ど、どこに……?」
「家に帰るに決まってんでしょ。あとピーマン克服は必須だから」
答えながら、蓮華は身を低くして巨大倉庫の残骸の陰に隠れつつ、移動を再開した。すでに頭の中に港湾地帯の見取り図は浮かんでいる。『安全な出口』にも心当たりはあるが、途中、かなりの距離があった。一・三キロ。ほぼ港湾地帯を縦断する形になる。闇雲に進めば即座に見つかるが、針の孔を通すように慎重に進めば命は保障される。そういう道だ。
瓦礫から瓦礫へ、短く跳ぶように移動する。
光を避け、影の中に溶け込むように位置取りを行う。
至近。二メートル以内の位置を怪しげな人影が───おそらくは敵方の召喚師達が───通り過ぎる時も、必死の思いで息を殺してやり過ごす。
ジリジリと喉がひりつくような緊張の中、時に妹の口を片手で塞ぎながらも、蓮華は少しずつ確実に『出口』へと近づいていく。
その時だった。
ガラリ……と、近くの瓦礫が崩れるような音が聞こえてきた。
まばらな街灯の光の中、あちらこちらに、何か大きな塊が点在していた。それは一抱えもある恐竜の卵のようにも、大の大人が転んだゼンマイ人形のように手足を空回りさせているようにも、枯れ木のようにも、口を半開きで見えない車のエンジンをかけようとする人影のようにも、地面に落ちたアイスのようにも、ぺたりと座り込んだままブツブツ言う女のようにも見える。
『敗北者』だ。
召喚師はこの世ならざる存在『被召物』を自由に呼び出して戦う。それは神にも等しい力を持つが、逆に言えば、目の前で撃破されれば神を殺されるのに等しい衝撃を心に刻まれる。それは神話の終わり、世界の終わりに見る絶望そのものだ。『抵抗する』という当たり前の選択すらできず、ただ呆然と迫りくる災禍の壁を眺めるしかなくなってしまう。
気絶しているのとは違う。
意識があるのに動けない。
旧来のイメージで語るなら、ミイラ取りがミイラに、よりも正しい意味でのゾンビに近いか。ひたすら無意味な行動をゆっくり続け、シンプルな身振り手振りを見れば誰のものでものろのろと従うだけ。使役者の末路としては、気味が悪いほど皮肉が利いている。
医学的には、激しい閃光と音響をばら撒くスタングレネードを間近で受けた直後にどんな人間でも必ず十数秒間は陥る『自分が今生きているか死んでいるかも分からず、あらゆる認識が弾け飛ぶ』衝撃が、丸一日以上続くと思えば良い。気合だの努力だの空虚な精神論を挟み込む余地はなく、そもそも人間の構造的に耐えられない。
それだけなら死なない。見逃してもらえる事もある。だが、港湾地帯で徹底的に侵入者の掃討を行う『彼ら』にその慈悲は期待できるか。
いつでも殺せるから、抵抗もできず言葉も返せず手を引いて歩けば金属の煮えたぎる溶鉱炉までついてくる状態だから、『勝利者』はまず動ける敵の殲滅を優先している。
移動中にたまたま見かければ、あるいは戦闘が全て終われば、その都度目についた者から殺害される。道端に落ちている生卵を踏み潰すように、あっけなく。
「(お、お姉ちゃっ、お姉ちゃん! あの人達、見つかる前に早く助けないと……!!)」
「(ダメよ彼岸! 私達も人を抱えて走り回れるほどの余裕はないの!!)」
敗北者達は誰の身振りでも手を引いてもついてくるため、棒の先にハンカチでも縛って軽く振れば蓮華達も誘導できる。だが、あれだけの数をのろのろと動かせばいやでも目立つ。殺してくれといわんばかりだ。
思わず飛び出そうとする妹の彼岸を、姉の蓮華が慌てて止めようとする。
しかしその前に動きがあった。
冥乃河彼岸の巫女装束の袴を弱々しく摑む、血まみれの手があった。
「……やめて、おけ……。お宅もこうなっちまうぞ……」
くたびれたスーツを着た中年男性だった。どちらの所属かは問うまでもない。今まで暗い影に隠れていたのと、倉庫の瓦礫の山に両足を喰われた状態だったので、二人は気づけなかった。
「アンタも、負けた、の……?」