隣のゴリラに恋してる
一・隣の席にはゴリラがいる ①
木曜の五時間目の授業は、一言で表すと拷問だ。
まず、昼飯を食った後なので、シンプルに眠くなる。既に何時間も勉強に頭と体力を使った後だし、これはもう仕方ない。
次に、俺は世界史が苦手だ。いつ何がどこで起きたかを覚えるのも大変なのに、キーパーソンが似たような名前ばっかなのはどうかしている。なんたらティヌスだのなんとかセウスだの多すぎだろ。エジプトのファラオなんて同名の何世が何をしたかみたいな天然引っかけ問題が酷いし。ただでさえ単純に記憶するのが苦手な俺にとって、世界史はマジでキツい。
そんな訳で頭に入ってこない世界史の授業な上に、肝心の教師が高齢の笹森先生ときた。声が小さい、質問タイムは特に設けず、ひたすら板書と解説をしていくスタイルの笹森先生は、字が大きいのでガンガン黒板を使っては消していく。しかも消す直前に「ここはね、試験に出ますね」と呟いてから一掃するという油断ならない人だ。
なので俺は子守歌みたいな笹森先生の解説に眠気を誘われながら、重い瞼を持ち上げて、どうにか黒板の内容をノートに書き写していた……が、意識が飛びかけていたせいもあって、ふと気付いたら二列くらい飛ばして書いていた。
しかも結構手前の文で、下手をするとすぐに消されてしまいかねないから、俺は慌てて消しゴムを…………消しゴム……
「…………ん………………あれ……?」
机の上に出しておいたはずの消しゴムが、ない。どこを探しても、やっぱりない。
どっかに忘れ……いやない、さっき使ったから、どこかに絶対あるはず……
そうこうしている間にも笹森先生はどんどん書き進めていき、迫るタイムリミットに俺は焦りながら机の周りを探し、
「…………ぁ」
俺が落ちた消しゴムを見つけたのとほぼ同時に、それを拾い上げてくれる人物がいた。
右隣の席に座る彼女はイスに座ったまま最小限の動作で消しゴムを拾うと、そのまま俺へと差し出してきて、『はい、これ』と口パクで言ってくる。
親切な彼女に対し、俺は同じく口パクで『サンキュ』と返して、大きくて黒い手に乗った消しゴムを受け取る。
そして毛むくじゃらの腕を引っ込めた彼女は何事もなかったように正面を向いて、細いシャーペンを握り、板書をノートに書き写していく。目に入ったノートには俺が全力を尽くしても到底及ばない綺麗な文字が並んでいた。
字だけでなく座る姿勢もシャンとして美しい隣の席の彼女は――ゴリラだ。
ゴリラに似ているとかそういうことじゃなく、あのゴリラだ。桃色のラインが入った半袖のセーラー服を着て、熱心にノートを取っているけど、ゴリラだ。黄色い髪飾りを付けてオシャレもしているけど、分類としてはニシローランドゴリラだ。
……と、俺の視線に気付いたのか、隣のゴリラさんがチラリとこっちを見て、
「………………」
今度は口パクじゃなくて、視線で『何ですか?』と訴えてきた。出会ったばかりの頃なら絶対に分からなかっただろうけど、この二ヶ月強の蓄積が僅かな違いを読み取らせてくれる。というか、我ながらよく分かるなと自画自賛したくなる。
だってゴリラが目配せしてきても、普通は意図なんて分からないって。『あ、餌が欲しいのかな』って思うのが関の山だろ。
とりあえずゴリラさんにはほんの僅かに首を横に振って『何でもないよ』と返し、俺は彼女に拾って貰った消しゴムでノートの間違えた部分を消す。マッハで書き写さんと。
彼女の存在には慣れた。あの顔がアップになると流石にうおっとなるけど、重厚すぎる存在感も今となっては些細な問題だ。
じゃあ何で意識してしまうかというと、それはやっぱりゴリラだから――なのか、それともこのゴリラさんだからなのか。これが実に深刻な悩みになりつつある。
ゴリラさんは良い人だ。落とした消しゴムを拾ってくれる優しさもだし、意外と話し易いし、成績はそこまで良くないけど勉強熱心なところも……挙げていくとキリがない。
兎にも角にも、ゴリラさんが気になる。話した後は心がふわふわするし、つい姿を目で追ってしまうし……これがどの手の感情なのか、正直俺は持て余していた。
だって相手がゴリラだもんよ。
――さて、何事もなかったみたいに話を進めたら意味不明にも程があるので、とりあえず状況を整理しよう。
俺の隣の席にいるのはゴリラだ。ゴリラっぽい、じゃなくて、しっかりゴリラ。
ただし正真正銘のゴリラかというと、それは違う。第一、異常なのは彼女だけじゃない。教室には他にもパンダがいれば犬もいるし、カンガルーもいる。しかも全て人間サイズだ。
ざっくり言うとクラスの半数――いや、学校の半数は何らかの動物で、その全てが人間同様に喋ったり勉強したり遊んだりする。
それもこれも、全部原因は俺の方にある訳だが……断じて言うけど、悪いのは俺じゃない。俺は完全に被害者側だ。
先祖が呪われたから――なんていうのが原因だなんて、悪い冗談にも程があるけど。
残念ながら、俺の目に映るわくわくアニマルランドが、『異性が動物に見える』という呪いが現実だと非情にも訴えかけてきていた。
先祖の影響で俺が呪われているという事実はさておき、話を戻そう。
眠気と焦りを誘う世界史の授業が終わり、本日最後になる六時間目の授業が始まるまでの、短い休み時間。心身ともに消耗して机に突っ伏した俺は、顔を横に向けて死んでいた。
特に見るでもなく自然と視界に入ってくるのは隣の席のゴリラさんで、世界史の教材を机横に引っ掛けた鞄に仕舞った彼女は、机の中から水色の巾着袋を取り出していた。
袋から出て来たのは弁当箱で、太い指で器用に箸を使い、いそいそと食べ始める。
さっきの昼休みはどこかに行っていたみたいだけど、昼飯も食わずに遊んでいたんだろーかとぼんやり思いつつ眺めていると、視線を感じたのかゴリラさんがこっちを見た。
「…………何です?」
箸を持つ手で口元を隠しつつ、見た目にそぐわない涼やかで落ち着いた声音で訊ねられ、俺は机と仲良くしたままの体勢で答える。
「や、どうして今になって食ってんのかなー、って」
「……大したことじゃないですよ。昼休みに部活のミーティングがあったのですが、お弁当に手をつけている暇があまりなかったんです。半分近く残っていたので、それで……」
「だからか。なるほどなー…………ん……?」
会話をしながらぼんやり眺め続けていると、不意に気付いたことがあった。
「ごっさん、前からその弁当箱だったっけ?」
直方体の弁当箱を使っているけど、前は二段重ねのちまっとした弁当箱だったような。
ちなみに『ごっさん』は俺だけが呼んでいる彼女のあだ名だが、一応ゴリラ由来じゃなくて、本名から取ったものだ。俺からするとついゴリラさんと呼んでしまいそうになるから、そこを誤魔化す意味でもこう呼ばせて貰っている。
ともあれ、俺の質問にごっさんは凛々しい顔を僅かに歪め、
「……変えました。前は二つ持ってきていたのを止めて、これ一つにしたんです」
「へっ? なんでまた二つもあったん?」
「……あまり言いたくないのですが……女子が大きなお弁当箱だと目立つから、お母さんに頼んで二つ作って貰っていたんです。でも、『やっぱり面倒臭い』と先月末にこれを買ってきて、早起きして作ってくれているお母さんには逆らえなくて……」
「なるほどなー……てか、前はもう一つの弁当、どのタイミングで食べてたんだ?」
「朝練の後と、部活の始まる前に。だから一時間目の授業は凄く眠くなってしまったり、部活中にお腹が痛くなったりと大変だったんです。なので結果としてはこれがベストみたいですね」