神様を決める教室
第四章 傷の共感 ⑤
彼女が来るまでの間に、ミコトはラウンジに置かれていたコーヒーフレッシュを、毒入りのものにすり替えていた。自分が手に取る予定の一つだけは本物のままだったが、今ここに置かれている残りは全て偽物である。
休み時間などでこっそりコーヒーフレッシュを盗み、自分の部屋で中身を無臭の毒に入れ替えていたのだ。幸いこの手の工作は経験があるので、蓋と容器を接着させるホットメルト接着剤も取り寄せカウンターで手に入った。
もう用が済んだので、残りのコーヒーフレッシュは回収しておく。制服の内側にあるポケットに小分けして入れた。
「どう、して…………」
最期に少女が呟いたのは、疑問だった。
ここで殺される理由が分からなかったのだろう。事実、ミコトが普通の生徒だったら取引を持ちかけていた。盗聴した情報を共有しろとか、いかにもありそうな交渉である。
だが、少女は知らない。
この学園には、粛正者という存在が潜んでいることを――。
「……わりと簡単に片付いたな」
毒が効かない場合も予想して直接殺す準備もしていたが、杞憂に終わった。もしかすると超常の力を持つ人間は、逆に毒殺みたいな原始的な攻撃には弱いのかもしれない。
少女の脈を確認する。……確実に死んでいる。
粛正完了。そう思った刹那――――。
「ア、アア、アアァアアァアァアァア……ッ」
「――ッ!?」
言葉にならない呻き声が聞こえ、ミコトはその場から飛び退いた。
少女の身体が、粘度の高い真っ黒な泥のように変貌する。
(なんだ、これは……ッ!?)
黒い泥はミコトを飲み込もうと、迫ってきた。
泥に触れた床と椅子が、ジュウ! と音を立てて溶けている。
『見る前に、触れる前に、それがヤバいかどうか区別できるようになりなさい』
頭の中で師匠の言葉が蘇る。
これは――ヤバい。
泥の飛沫が迫り来るので、咄嗟にテーブルを蹴り上げて盾代わりにする。しかし泥は一瞬でテーブルを完全に溶かしきり、勢いを緩めることなく近づいてきた。
『見てから、触れてからでは……手遅れかもしれないから』
師の叱責が聞こえたような気がした。
流石は英雄。まさか、死してなお戦うことができるとは。
相変わらず常識が通用しない世界だ。舌打ちして、ラウンジを駆け回りながら泥を避ける。
(どこに逃げる? 一番安全な場所は……ッ!?)
ほんの僅かな熟考。その末に答えを見出したミコトは、開いている窓から外に飛び出た。
そのまま校舎裏に走り――目的の部屋に、窓ガラスを割って入る。
「驚いたな」
部屋の中で受け身を取ったミコトに、女性が声をかける。
「こういう用途は、予想してなかったよ」
そう言って、保健医のキリエはカップを口元に近づけた。
ティータイムで寛いでいたのかもしれない。申し訳ないことをした。
「すみません。ここしか思いつかなかったので」
「……なるべく遠慮してくれたまえ。私は非力だからね」
キリエはヒラヒラと手を揺らして言った。
窓の外では、泥がミコトを見失って右往左往している。
ここは粛正者しか認識できない保健室らしい。キリエからそう伝えられたことを思い出して咄嗟にこの部屋まで逃げてきたが、正解だったようだ。
しばらくすると、泥が形を崩して地面に広がる。地面に広がった漆黒の泥は、霞みになって消えた。……人望の試験で、不合格だった生徒が消えた時と同じ光景だ。
「死後、発動する能力はこの世界と相性が悪い。ここでは死が確認され次第、自動的に輪廻転生に組み込まれるという自然の流れがあるからね」
では、もしその流れがなければ……あの泥はまだ動いていたかもしれないということだ。
九死に一生を得るとはこのことだろう。
「おめでとう。三度目の粛正、成功だね」
「……はい」
ミコトは左手首を見た。
「彼女の来世は、ミジンコとかそんな感じだろうね」
あの泥を女性と認識できる辺り、やはりこの保健医もただ者ではない。
「素朴な疑問なんですが、どうして霊子が低ければ来世は小さい生き物になるんですか?」
「そうだなぁ……霊子っていうのは、君の世界で言う徳みたいなものだからだ」
「徳?」
「君の世界には、徳を積むという言葉があるだろう? 生前、頑張って徳を積んだ人間は、死後の世界で神様に評価してもらえるんだ。……神様は慈悲深いからね。徳を積んだ生き物には来世で幸せになってほしいのさ。だから徳を稼げば、来世では能力の高い生き物に生まれ変わることができる。逆もまた然りだ」
徳がなければ、来世で幸せになる資格はないと判断されるということか。
「霊子とは、徳であり、魂の原料であり、
霊子は魂のようなものだと認識していたが、どうやらまだ理解が足りなかったようだ。
要するに、霊子とは――どれだけ神様に愛されているかだ。
ふと、そこで引っかかりを覚える。
霊子の正体が、神様から注がれる愛の量だとすれば……似たような指標を、ミコトはほんの少し前に聞いたことがあった。
「それなら、羽を貰った生徒は……」
「おっと、鋭いね」
キリエが面白そうに笑った。
「これ以上、私が口を滑らせる前に早く戻りたまえ。まだ試験の途中だろう」
保健室を出るよう促されたので、ミコトは「失礼します」と言って廊下に出た。
キリエは答えてはくれなかったが、あの反応から察する限り予想は正解なのだろう。
羽を貰った生徒の噂は既に学園中に広まっている。今は「神様に最も近い生徒の証」と言われているが、少し前までは同時に「神様に気に入られている証」とも言われていた。
羽を貰っている生徒は、他の生徒とは一線を画して神様に愛されている。
なら、その霊子の量は――――莫大に違いない。
(ルシアには、狙われる理由がある)
ミコトは無意識に、早足で教室に向かった。
エレミアーノもそうだが、ルシアは神様から羽を貰ったことを隠していない。粛正者が先程の事実に辿り着くと、あの二人を標的にするに決まっている。
急いで階段を上る。
その途中でルシアと遭遇した。
「ルシア……」
「ミコトさん、探していました」
探していた? と首を傾げると、ルシアが頷く。
「全ての回答が分かったんです。すぐに共有しますね」
そう言ってルシアは踵を返し、まるで先導するように教室へと向かった。
不安に駆られて教室に向かったが、冷静に考えれば別に焦るほどのことではなかった。
ルシアはきっと、自分から不正を犯すような人間ではない。
仮に他の粛正者がルシアに接触したとしても、それだけでルシアが窮地に立たされることはないだろう。
「ミコトさん」
廊下を歩くルシアが、振り返ってこちらを見た。
「先程は忠告していただきありがとうございます。私は頑固なところがありますから、また何かあれば是非言ってくださいね」
「……ああ」
できれば頑固じゃなくなってほしいが……という言葉は心に留めておいた。
三十分後、賢さの試験は終わる。
聖女ルシアの尽力によって、この試験は全体の八割の生徒が合格した。