神様を決める教室
第四章 傷の共感 ⑧
彼女が一体どれほどの痛みを経験してきたのか、もはや想像すらできない。生前で英雄と呼ばれていた者たちが絶叫するほどの痛み……それをルシアは、まるで何事もなかったかのように我慢することができる。
ルシアは、痛みに慣れすぎている。
「このことは他の人には話さないでください。皆さん……聖女派の方々に余計な影響を与えたくありませんから。……聖女派という組織は私にとって都合がいいんです。集団を作り、助け合いの精神を保ち続ければ、それだけで多くの人から痛みを取り除くことができます」
聖女派を自称することに抵抗があるのか、ルシアは微かに言い淀んだ。
学園の生徒たちが、痛みを感じる切っ掛けを潰す。それがルシアの目的だったのだろう。
聖女派にいれば他の人たちと協力関係を築くことができる。皆で試験を有利に進めるということは、余計な傷を負うリスクを減らすということだ。
「……それでも、いつかは皆死ぬ。痛みは避けられないんじゃないか?」
「そうですね。だから私は、痛みを先送りにしているだけです」
己の心の弱さを吐露するように、ルシアは視線を下げて言った。
身体も心も平凡。その言葉に偽りはないようだ。
平気なフリはできる。でもちゃんと苦しんでいる。痛い、辛い、だから……意味がなかったとしても彼女は痛みを遠ざける。
心が強くないから、目の前の現実を受け入れられない。
「軽蔑しましたか? 私は結局、自分のことしか考えていません。私はただ、私が苦しみたくないから誰かに手を差し伸べているだけなんです」
改めてルシアは自嘲する。
「心だけは正しくありたいなんて……大嘘です。私は、心だけは正しくないのですから」
表向きは正しいことをしていても、それは本心からの行為ではない。
だから、心が正しくないと言っているのは分かる。
でも――――。
「……違う。そんなことはない」
ミコトが否定すると、ルシアは顔を上げて目を瞬かせた。
「ルシアのおかげでどれだけの人が救われたのか、僕は想像もつかない。気高さの試験も、賢さの試験も、ルシアがいたからあそこまで多くの生徒が合格したんだ」
決して、ただの慰めの言葉なんかではなかった。
ミコトだけではない。一組の皆が同じことを言うだろう。
最初は誰もが徒党を組むことに懐疑的だった。しかしいざルシアを中心に仲間という関係を築いてみると、皆が納得した。ああ、やはり自分は生き残りたかったのだと。そしてそのために仲間を作るのは悪くないのだと、皆が考えを改めた。
誰もが疑心暗鬼になりかけていた時、ルシアは一筋の光のように進むべき道を示した。
ルシアは、光だ。ミコトにとって、この学園にとって――。
「ルシアの境遇も、ルシアの目的も、関係ない。誰かを助けることは、正しい行為なんだ。そしてそれは……僕にはできなかったことだ」
拳を握りしめて、ミコトは言う。
そんなミコトを見て、ルシアは微かに唇を引き結んだ。
「私の呪い、【傷の共感】が感じ取るのは、外傷だけではありません」
ルシアは優しい目つきで、ミコトの胸の辺りを見た。
「私は、心の痛みも共感します」
「心の……?」
「あくまで感じるのは痛みだけですから、心を読むようなことはできませんが」
一言補足してから、ルシアは続ける。
「貴方と初めて会った時のことを、私は今でも鮮明に覚えています」
初めて会った時のこと――。
それは、教室で顔を合わせた時のこと――――ではない。
入学式が終わった後。一人で校舎を眺めている時に、ルシアと出会った。あの時、ルシアは何かを言いたそうだったが、途中で唇を引き結んでいた。
「ミコトさん。貴方からはずっと、とてつもない心の痛みを感じています。その暗くて深くて耐え難い絶望は、私が今まで感じてきた痛みとは一線を画します」
ルシアは真っ直ぐミコトを見つめた。
「貴方の痛みは、今も私の心に響いています」
ルシアは胸の辺りを押さえて言う。
心も苦しさを訴えるかのように――。
「貴方は一体、どんな人生を歩んできたのですか?」
胸を押さえるルシアの問いに、ミコトは思い出した。
己の、罪に塗れた半生を――。
◆
その組織のことを、ミコトは最後まで深く知ることはなかった。
知っていることはそれほど多くない。大昔に日本のとある政治家が、多額の私財を費やして特殊な人材育成組織を作ったこと。その組織は社会から隔離された山奥にあること。その組織では、表ではなく裏の社会で活躍する人間が育てられること。
幼少期、ミコトはその組織に買い取られた。
うろ覚えだが、母親が対価である金を受け取って上機嫌だったことは覚えている。
組織に入ったミコトは、まず様々なテストを受けた。その結果、頭脳労働ではなく肉体労働に適性があると判断され、それからはひたすら身体を鍛える日々だった。
非人道的な教育だったと思う。最初の一年は、同い年くらいの子供たちと一緒に狭い密室に閉じ込められ、食べ物と飲み物を奪い合うよう指示された。食べ物はいつも一人分しか用意されておらず、途中で餓死した子供は数え切れない。
二年目になると、午前中は武器の使い方を教わり、午後は一年目と同じことを今度は山の中で行った。二年目は武器が解禁されたため少し手こずったが、それでも生き残った。……生きるために、何の疑問も持たずに同世代の人間を殺し続けた。
三年目になる頃、同い年の子供たちが情報部員――俗に言うスパイになる中、ミコトはもっと純粋で、単純な仕事の専門家になるよう指示された。
即ち、殺し屋である。
この頃には多少口が利けるようになっていたので、ミコトは近くにいた大人に、どうして自分だけ殺し屋なのか質問した。……この数年で、組織にとって予想以上の成果を出し続けたからか、大人たちはミコトに対してのみ少しだけ優しかった。
『それは貴方の脳味噌が一番単純だったからよ』
この時、質問に答えてくれた女性が、後に師匠と呼ぶようになる人であることを、当時のミコトはまだ知らない。
『単純な行動を、単純な気持ちのまま実行するのって、意外と難しいのよ? ほとんどの人は不安や恐怖から必要以上に複雑な気持ちを抱いてしまう。そういう人にはスパイの進路が勧められるの。スパイは逆に、複雑な気持ちがないと上手くいかないからね』
要約すると、お前は貴重な人材なのだ……ということになるが、それが適当なお世辞なのかどうかは今となっては知る由もない。
初めての実戦投入は八歳の頃。臓器売買のために入国したブローカーの外国人を殺した。ミコトはコンテナに積まれて商品のフリをしながらブローカーに近づいた。
初任務が成功してからは、数か月の訓練と一度の実戦を交互に行うようになった。
スパイと違って殺し屋の実戦は、終わる時は一瞬で終わる。標的に近づいてサクッと殺して撤退するだけだ。直接手を下すのは自分だけだが、背後には組織がついているため、証拠隠滅の後始末は手伝ってもらうことが多かった。
『え~、私の新しいバディ……こんな子供なの?』
十歳になる頃、後に師匠と呼ぶようになる女性と再会する。前回はあちらが教導員でこちらが生徒だったが、今回はバディの顔合わせという名目で再会した。
組織の殺し屋は、困難な依頼には二人一組で臨むようにしていた。この二人一組を組織内ではバディと呼んでおり、ミコトは例の女性と組むことになった。だが最初、その女性は嫌がったし、その反応を見てミコトも嫌がった。
しかし、蓋を開けば――彼女の殺し屋としての腕は凄まじかった。