神様を決める教室

第四章 傷の共感 ⑩

 ポタポタと、涙が地面を濡らした。


『僕は……貴女が思っている以上に、貴女のことが大切なんだ……っ』


 涙で視界が滲む。

 失って気づいた。自分にとって生きる希望は師匠そのものだったのだと。それは他の何かで代替できるものなんかではなく、失えば立ち直れないほどの絶望が到来するのだと。

 拳を握り締めようとすると、硬いものに触れた。

 ナイフだ。師匠から貰った大切な武器だった。これを見る度に、師匠から『心だけは正しくありたいじゃない?』と言われたことを思い出した。

 決して……師匠を殺すためのものではなかった。


『師匠』


 ナイフの刀身を首筋にあてる。


『貴女がいない人生なんて、意味がない』


 ナイフを引き、吹き出た鮮血がアーチを描いた。

 これが、ミコトの人生。

 生前の記憶――。


『おや、来ましたか』


 そしてここからは――死後の記憶。

 案内人というらしいスーツを着た男は語った。ここは神様を決めるための学園で、自分はその生徒に選ばれたのだと。

 ……学園。

 脳裏で師匠との会話が蘇った。青春を謳歌するのはどうか。学校に行ってみたいんじゃないか。あの時は首を横に振ったが……これが生まれ変わりの人生だとしたら、ちょっと勇気を出してみてもいいかもしれない。

 そして、その中で正しい人を目指そう。

 学生生活も悪くない。なんてことを思っていたら――――。


『貴方は、粛正者パージです』


 刹那の夢が、儚く散る。

 結局、与えられた役割は人殺し。生前と何も変わらない。

 重たい現実が夢を押し潰した。


点数スコアを稼げば願いを叶えることができます』


 だが、そのルールだけは新たな希望だった。

 願いを叶えられるなら、師匠を蘇らせることができる。――その結論に至った瞬間、ミコトの頭から学校とか青春とか、そういう下らない夢物語は弾き出された。

 淡い願望だった。こんな血に塗れた人間が、人並みに青春を謳歌しようなど……。

 この瞬間からミコトは決めた。自分は師匠を蘇らせるための機械になるのだと。

 ただし、もし師匠が蘇るなら……ちゃんと師匠との約束は守り続けなければならない。だって、蘇った師匠には笑ってほしいから。必死に頑張った自分を褒めてほしいから。だから、師匠に言われた通り、心だけは正しくあり続けなければと思った。

 師匠との約束を守りながら、師匠を蘇らせることだけを考える。そう決意した。

 なのに。なのに、なのに、なのに――――――。


『せめて心だけは正しくありたいのです』


 今度は、師匠と同じ言葉を口にする少女が現れた。

 折角、師匠を蘇らせることだけを考えると決意したのに……思考が鈍った。彼女のことを考えるとどうしても心が揺らぐ。絶対的だと思っていた優先順位が狂ってしまう。

 彼女を見殺しにすることはできなかった。……少女の心の中に、師匠がいるような気がしたのだ。彼女が死ぬと、自分はまたしても師匠を失うような気がした。

 でも、それだけじゃない。

 己の人生を振り返って、理解した。

 葉月尊が、彼女に抱いている気持ち。その正体は――――。


          ◆


「ミコトさん?」


 ルシアに名を呼ばれ、深く潜っていた思考が浮上する。


「……泣いているのですか?」


 そう言われ、ミコトは自身の頬に触れた。

 透明な涙が手の甲を濡らす。いつの間にか、泣いていたらしい。


(……ああ、そういうことか)


 目元を手で拭いながら、胸中にある感情を直視する。

 眼前に佇む少女……聖女ルシア。この学園に来てから、一体どれほど彼女に心を掻き乱されただろう。その理由が今、ようやく分かった。


(僕は……お前が、羨ましかったんだな……)


 本当は、今度こそなりたかったんだ。

 師匠と一緒に目指していた、正しい人に――。

 困っている人がいたら必ず助ける、正義の味方に――。

 でも、それは叶わなかった。

 人を殺し続ければ、いつか師匠を蘇生できるという立場を用意され…………挫けた。正しい人になることではなく、師匠を生き返らせることを優先した。

 なのに、そう決意した矢先、いきなり師匠みたいなことを言う少女が現れたのだ。

 その少女は、こんなイカれた学園の中でも、常に多くの人を救おうとしていた。

 彼女こそが――自分がずっとなりたかった正しい人だった。


「……ルシア。やっぱりお前は、心の底から正しい人だよ」


 涙を拭ってミコトは言う。


「気高さの試験で、自分から落ちただろう? 痛みを避けたいだけならあそこまでしない」

「それは……」


 ルシアは自分のことを、今この瞬間の苦しみから解放されるためだけに人を助けている愚か者だと表現していたが、それなら橋から落下するのは本末転倒だろう。

 あの時、ルシアは……自分が苦しんででも、仲間を助けようとした。


「ルシアはただ、自分の行いに後ろめたさを感じていて、それを誰かに吐き出したかっただけだ。……心が平凡なのは本当のことみたいだけど、その心は決して間違っちゃいない」


 心が弱いから、罪悪感を一人で抱え込むことができず、こうして吐き出してしまった。

 でも、そこで罪悪感を覚える時点で、やはり彼女は生粋の善人なのだ。


(僕は…………


 正しい人になりたかった。けれど、もういいと悟る。

 何故ならここに、ルシア=イーリフィーリアという本物の正しい人がいる。

 度が過ぎた博愛主義。困った人を決して見過ごさない人格。師匠と同じ信念の持ち主。

 彼女がいるなら――自分は譲ってもいい。


「ルシア。僕の人生を、お前が知る必要はない」


 貴方は一体、どんな人生を歩んできたのですか? ――その問いに答える。


「でも、約束するよ。僕はお前の味方だ」


 ルシアは目を見開いた。

 まさか、味方になってくれるとは思ってもいなかったかのように。


「……私が神様になったら、この身に刻まれた呪いを解除したいと思います。そして今度こそ自由な人生を満喫するんです」


 ルシアは己の願いを吐露する。


「ちっぽけな願いですよね。本当に、どこまでいっても自分のことしか考えていない愚かな女です。……そんな私でも、貴方は支えてくれると言うのですか?」

「ああ」


 ミコトは即答した。


「お前が正しい心を持つ限り、僕はお前を護ってみせる」


          ◆


 ルシアとの会話が終わった後、ミコトはラウンジにではなく寮の自室に戻った。


「ミコト様、お帰りなさい!」


 元気よく挨拶するパティの脇を通り過ぎ、ミコトはテーブルの上を片付けた。

 大雑把にスペースを確保した後、上着を脱ぐ。


「パティ。装備の点検を手伝ってくれ」

「て、点検ですか?」

「やり方は教える。……これから何度もやってもらうことになるから、覚えてくれ」


 最初にテーブルに置いたのは、一振りのナイフだった。

 イクスを殺したこのナイフこそが、生前、師匠から贈られたものであり……そして師匠を殺した武器だ。この世界に来る時、衣服一式とこの武器だけは最初から持っていた。

 それから、取り寄せカウンターで注文していた小道具をテーブルに並べる。ワイヤーやスタンガンなど、まだ使っていない武器は山ほどあった。


「ミコト様、何かあったんですか?」

「……どうして?」

「その、とても機嫌がよさそうなので……」


 道具を整理するミコトの手が止まった。

 まだ僅かしか時を共に過ごしていないが、あっさり気持ちを見透かされたらしい。

 機嫌がよさそうに見えるのは、腹を括ったからだ。

 やるべきことを決めたからだ。


「パティ、僕はこれから好きに生きるよ」