あなた様の魔術【トリック】はすでに解けております -裁定魔術師レポフスキー卿とその侍女の事件簿-

第一幕 死霊魔術師のダイイングメッセージ ⑨

 その瞬間、金属音とともに『ユースティティアの天秤』が平衡を取り戻した。

 金属音が次第に大きくなっていく。世界が急速に回転していく。眩暈か。回転する中で世界が色を失い。灰色に染まる。気が付けば、先程と変わらぬ塔の中にレポフスキーもリネットの姿もなく、ガイはただ一人、立ち尽くしていた。


「何だ、何が起こった?」


 慌てふためくガイの背後で動く気配がした。振り返ると、ハリーの死体がガイの意志に関係なく動き出していた。


「『死霊魔術(ネクロマンシー)』か」


 死体が動き出したことで逆に冷静さを取り戻した。マンフレッドの仕業だろう。ハリーの死体に自分を殺させるつもりのようだ。魔術師らしい、皮肉なやり方だ。そうはいかない。腕を伸ばし『力ある言葉』を唱える。


「『亡者よ、あるべき姿に戻れ』」

『死霊魔術(ネクロマンシー)』ならばこちらの方が上手だ。魔力の多寡は関係ない。呪文そのものが死体を元に戻すキーワードなのだ。マンフレッドとリネットがどこに行ったかは分からないが、いなくなったのなら好都合だ。師匠の名跡ももはやどうでもいい。夢にまで見るほど恋焦がれた名跡であったが、命には代えられなかった。地の果てまでも逃げ延びてやる。

 にもかかわらず、ハリーの死体は依然、ガイに迫ってきていた。


「何故だ、何故止まらない?」


 焦りながら何度も『力ある言葉』を唱える。効果はなかった。ハリーはうつろな表情のまま両腕を伸ばし、ゆっくりと近付いてくる。ガイは手探りで手近な物をたぐり寄せる。イスを、書物を、高価な瓶を、手当たり次第に投げつけるがハリーの足は止まらなかった。


「く、来るな!」


 下へ降りる扉へと逃げる。扉は開かない。鍵は掛かっていない。内側からしか掛からないはずなのに。扉は開かない。拳を叩き付け、体当たりでこじ開けようとしたが、木製の扉は鉄塊てっかいのようにびくともしなかった。

 背後から迫り来るハリーの気配に急いで扉を離れる。部屋の中を野ネズミのように走り回り、気がつけば、ガイは窓際へと追い詰められていた。

 背後から吹き付ける冷たい風に息が詰まった。腕をつかまれる。ハリーの瞬かない目がガイのおののく姿を映し出していた。そのまますさまじい力でつかまれる。噛みつかれるかと思ったが、ハリーの腕はガイの膝の裏へと回すと一気に持ち上げた。

 物語のお姫様のようにガイはハリーの腕の中に抱えられる。


「な、何をする気だ?」


 返事はなかった。表情も変わらなかったが、何をされるのかはすぐにわかった。

 ハリーは窓の縁に足を掛けると、腕を伸ばし、窓の外へ放り投げた。宙に投げ出される寸前、とっさにハリーの腕をつかんだ。ハリーは抵抗しなかった。ぐらりと前のめりに倒れていき、ガイもろとも塔の下へと落ちていった。

 風を切る音、重力に従い、冷たく固い地面に引き寄せられていく。目を閉じ、絶叫で喉を震わせながら、ガイの脳裏を恐怖とその言葉が占めていく。『力ある言葉』すら頭から吹き飛んでいた。落ちる。落ちてしまう。陰嚢いんのうが縮み上がる。恐怖心に全身を縛られながらも何とか受け身を取らねば、と頭を両手で抱えて身構える。さして高い塔ではない。下は柔らかい土の上に、雨も降っていた。頭さえ無事なら助かる可能性はある。一縷の望みをかけてガイは墜落し続ける。そこで違和感に気づいた。

 おかしい。とっくに地面に激突している頃だ。なのに、ハリーともどもいつまでも落ち続ける。落ちれば落ちるほど地面が遠ざかっていく気がした。いつまで墜落し続けるのだ。

 気力を振り絞ってハリーは薄目を開ける。

 ハリーは雲の上にいた。雲の切れ間からは広大な地面が広がっていた。塔はすでに肉眼では見えない。色でかろうじて森か荒野か区別がつくくらいだ。

 周囲は暗くなっていた。下降しているはずなのに周囲の風景は高く、より高く上昇していた。このままでは星の世界まで到達するだろう。魔術も使えず、身動きも取れない。

 いっそ失神すれば楽に死ねるだろう。何故かそれもかなわない。もはや地面すら消え失せていた。恐怖と狂気の境目の中、無限に落ち続けるガイの目には見えるのは、透き通るような青空と白い雲、そして仮面のようなハリーの笑顔だった。


 リネットは塔の前にいた。

 雨は止み、東の空には青空が見えつつある。

 聞き慣れた羽ばたきが聞こえたので、リネットは立ち上がり自身の二の腕に主を留まらせる。


「貴様という奴は無能の上に主人までこき使うとは、よく生きていられるものだ」

「旦那様のお手を煩わせてしまい、大変申し訳ございません」


 リネットは頭を下げた。マンフレッドは不機嫌そうに顔を背けた。

 扉の向こうから人影が下りてくるのが見えた。女の亡骸である。マンフレッドの魔術で動かされた亡者は自身の足で階段を下り、塔の外へ出てきた。

 薄曇りの空の下、ふらつきながらもリネットの横を通り過ぎ、裏手にある大きな穴の前に来た。穴は一つだけではなく、長方形にいくつも掘られていた。

 傍らには土の山が盛り上がっており、土の臭いが香った。穴の周りには、マンフレッドの死霊魔術で操られた亡者たちが整然と並んでいた。いずれもハリーがかき集めた亡骸だ。厩舎には馬の死体もあった。

 穴の中には先客がいた。上半身と下半身の分かれた、男の死体である。女の亡骸は穴の縁に立つとそのまま倒れ込んだ。飛び込むように男の亡骸に被さった。

 すると亡者たちは待ちかねたように男と女の亡骸に土を掛けていった。

 二体の亡骸が埋まって見えなくなると、亡者たちは自分で土をかけ、自身を埋めていく。

 その横を首から血を流した馬が横切る。首や胴体の肉は削がれているが、足には異常はないため、動かすのは問題ないらしい。死んだ馬は最後に一番大きな穴の中に飛び込む。うつぶせの状態で穴の横っ腹を蹴り上げた。その途端。土が崩れ、馬の亡骸は土に埋もれて見えなくなった。全ての死体が土の中に埋まると、リネットは手を組んで祈りを捧げた。


「これで満足か?」


 マンフレッドは皮肉をこめて聞いた。


「大変鮮やかな手際かと。わたくし、大変感服いたしました」

「貴様ごときが魔術を語るな。愚か者」

「申し訳ございません」

「老婆の泣き言に小生まで付き合わされたのだ。覚悟はしておくがいい」


 塔に来る途中、麓の村で泣き喚く老婆に出会った。昨日、一人娘の結婚式の途中で、塔に住む魔術師が現れた、何の理由もなく娘夫婦は殺され、亡骸まで持ち去られた。

 老婆は涙ながらに訴えた。誰か魔術師から娘たちの亡骸を取り返してほしい。それがムリならせめて亡骸を辱められぬように弔ってほしい、と。


「承知しております」


 リネットは返事をしながら男女の埋まった土の上に二つの指輪を載せた。研究室のゴミ箱から見つけたものだ。どちらも真新しく、寸法は男女の薬指に合致していた。娘はともかく、夫の方は麓の村まで歩けそうにない。体が上下に分割している上に、落下の衝撃で肉体そのものが傷んでいる。下手に動かせば崩れ落ちる。夫婦ともどもここで弔ってやるのが親切だろう。


「翼の手入れは念入りに、屋敷には青ネズミの塩茹でと、虹色蛇のシチューを。デザートはブドウをご用意いたします」

「ブドウの皮は剥いてあるだろうな」

「万事抜かりなく」

「ならばいい」


 マンフレッドはそっぽを向いた。


「言っておくが所詮は感傷かんしょうだ。共に葬ろうとも冥界の旅路は別々よ」

「存じ上げております」


 相変わらずか、とマンフレッドはつまらなそうに一声啼くと行くぞ、と言った。

 かしこまりました、とリネットは主を帽子の上に乗せ、ふもとへの道を下る。

 不意に背後でまばゆい光が走った。轟音が鳴り響き、大気を震わせる。

 振り返ると、『死霊魔術師(ネクロマンサー)』の塔は炎に包まれていた。石造りの塔の中は炎に包まれ、灰色の煙を窓から吹き上げていた。窓の向こう側で一瞬、黒い腕が上がったように見えた。リネットはすぐに向き直り、黒革の鞄を手にふもとへの道を下る。


「そういえば」


 リネットが困り顔であごに指を当てる。


「あの方の本当の名前をお聞きするのをすっかり忘れておりました」

「だから貴様は阿呆あほうだというのだ」


 マンフレッドが頭の上から得意げに言った。


「死人の名前など『名無しの死体ジョン・ドゥ』に決まっているではないか」