あなた様の魔術【トリック】はすでに解けております -裁定魔術師レポフスキー卿とその侍女の事件簿-
第二幕『召喚師』の不在証明 ⑩
モーガンは己のミスを悟った。
犯行に使った服や道具は燃やしたばかりで、まだ煙を噴いていた。だからスライムは冷めるまで食べられなかった。そのせいで、リネットたちが調べた時にもまだ証拠が残ってしまっていたのだ。スライムが熱に弱いなど、半人前でも知っているのに。基礎的な知識を忘れていた。
「調べましたところ、布にはパズズの唾液も付着していました。おそらくそのせいで燃えにくくなっていたのでしょう。『第一召喚室』のパズズがこの召喚陣から呼び出されたのは間違いないかと」
「貴様!」
カイルが激高した様子で喚き散らしている。
「誤解だ」
それでも諦めるつもりはない。クラークが死んで自由になれた。今度こそまともな師匠の下で修業を重ね、『召喚師(サモナー)』になるのだ。魔術師としても人間としても、人生はこれから始まる。終わりたくない。終わってたまるものか。
「そこの娘が証明したのは、パズズの召喚場所だけだ。俺は捨ててなどいない。今初めて見た」
「捨てたのもあなた様ではないと」
「そうだ」
「ありがとうございます」
リネットはうやうやしく頭を下げると、再度焦げた布の切れ端を掲げる。布の真ん中に、わずかに茶色い染みが付いている。
「実はこの布には唾液だけではなく、香水も付着しておりました」
「……え?」
「なんでも貴族よりいただいた特別なものだと。そのような香水をつけて、パズズ程の魔物を召喚し、かつこの場にいらっしゃる『召喚師(サモナー)』はあなた様以外にはございません」
「バカな、そんな……」
燃え残っていたとはいえ、火にくべられたのだ。臭いなど消し飛んでいるはずだ。
「小生は鴉ゆえ鼻は効かぬが眼は人より優れている。その染みは先ほど貴殿が付けていた香水と同じ色をしている」
体に力が入らず、よろめく。モーガンは己がワナにはめられたのだと悟った。さっさと罪を認めるべきだったのだ。抵抗すればするほど深みにははまっていく。己はとうの昔に、底なし沼に沈んでいたのだ。
「裁定は下されました」
リネットの宣言と同時に金属音がした。振り返ると、黄金の天秤が左に傾いていた。
「ようやく観念したか。手間を掛けさせてくれる」
マンフレッドがぼやくように言った。
「見ての通りだ。『ユースティティアの天秤』は汝の罪に傾いた」
モーガンの世界が砂の城のように崩れていく。己の命運は今、決まったのだ。
「いつからだ?」
それでも合点がいかないことがある。疑念を晴らさねば死んでも死にきれない。
「いつからお前は……お前たちは俺を犯人だと疑っていた?」
これといったミスも犯していない。ゴミ捨て場を早々と調べたのもモーガンを疑っていたからだろう。そうでなければ今頃、証拠の数々は熱も冷めてスライムに跡形もなく溶かされていたはずだ。
「最初に犯行現場でお会いした時からです」
リネットは無表情のままで答えた。
「まさか」
ろくな会話すら交わしていない。心でも読んだというのか。
「あの時、モーガン様はわたくしの靴が汚れることをご懸念されました」
「……そうだったな」
「魔術師の方々は、わたくしのような『魔力なし(マギレス)』にお気遣いされる方はいらっしゃいません。しかも、ご自分の師匠が亡くなられた事件現場の調査です。わたくしの靴が汚れようとどうでもいいことのはずです」
モーガンは己のうかつさを呪った。疑われないようにと親切ごかしに気を回したために逆に疑念を抱かれるとは。
「そのような態度を取る方は二通り。ご自分の悲しみよりもわたくしの靴を気に掛ける誠に心優しいお方か、現場調査そのものをどうでもいいと思っておられるか。そのどちらかです」
「……俺がその誠に心優しいお方とは思わなかったのか」
「レポフスキー家にお仕えして以来、何百人いう魔術師の方々とお会いしました。ですが、そのような方はわたくしの知る限り、御二方だけです。ならば、確率の高い方をまず疑うのが当然でございましょう」
同情するような素振りもリネットには見透かされていたのだろう。切って捨てるような断言に、マンフレッドがくぐもった笑いを漏らしてからモーガンへと向き直る。
「疑念は晴れたかな。念のためだ。これだけは聞いておくか」
「な、何だ?」
「バーナビーという男に心当たりはあるか? 首のない人形を持っている」
「いや、知らない。初耳だ。心当たりもない」
質問の意味を考えるより早く、モーガンの口が意に反して喋っていた。
「やはり、か」
マンフレッドの言葉にわずかながら苛立ちと焦りを感じた。何の話だ、と続けて問おうとしたが、『裁定魔術師(アービトレーター)』の興味はすでに別に移っていた。刑の執行に。
「師匠殺しの罪は重いぞ」
黒鴉は淡々と告げた。
「ま、待ってくれ、俺はまだ」
「刑を執行する」
乾いた音とともに、傾いた天秤が元の水平に戻るのが見えた。
次の瞬間、世界が灰色に染まる。
周囲は静寂に包まれ、リネットもマンフレッドもいつの間にか消え失せ、モーガンだけになっていた。
何が起こったのかと周囲を見回していると、背後から黒い影に包まれる。
頭から粘液のようなものをぶちまけられた。不快感と苛立ちに振り返れば、パズズが立っていた。涎を垂れながし、物欲しそうにモーガンを見下ろしている。今しがた元の世界に戻されたはずだ。また呼び出したのか?
パズズが片手でモーガンをつかみ取る。巨大な目には純粋な渇望が見て取れた。
食欲だ。
「待て! 止め……」
必死になって命じるよりも早かった。
パズズの歯がノーマンの全身を噛み砕いた。
ぐしゃぐしゃぽりぽりもぐもぐくちゃくちゃ……ごくん。
意識が途切れる寸前、モーガンは己の肉体を咀嚼する音を聞いた。
激痛に意識が戻る。目を開けても真っ暗闇だ。生暖かい上に、ひどく狭苦しい。死体をさらに発酵させたような臭いで鼻が麻痺してしまっている。呼吸もままならず息苦しい。柔らかい地面がわずかに揺れている。
そこでモーガンははたと気づいた。