御園さんの背中が辞典ほどの大きさに見える程度に距離を取って歩く。田舎の、人通りのないたんぼ道を通っているから、不穏な空気を感じた際に身を隠す遮蔽物もない。振り向かれたら、用水路にでも飛び込む覚悟と準備が必要だ。しかし幸い、御園さんは背中など気にかけることもなく帰宅路を進んでいる。本人的には急ぎ足のつもりらしいその足取りは、左右に揺れて定まらず、かといって熱に冒されているわけでもない。
やがて、舗装された道路に入り始める。ぽつぽつと一軒家も見受けられるようになり、他人の生活区に踏み込んだ気分になった。
御園さんは額や首筋の汗をハンカチで拭いている。夏服でも汗が浮かぶような気候で、相当に熱気を帯びているのだろう。それでも、猫背の前傾姿勢で減速はしない。途中、犬の散歩をしていた爺さんに会釈されたけど、御園さんの狭い視界には入っていなかったらしく、完全に無視していた。仕方なく、爺さんとすれ違った際に代役として二度頭を下げておいた。爺さんは、首を傾げて意味を窺うように犬を見ていた。
「しかし、意外と遠いな……」
自転車の使用を考慮すべき距離だ。けど御園さんが自転車に乗れないことは知っている。平衡感覚が正常ではないのだ。そのうえ、遠近感も満足に摑めていない。だから御園さんは階段を昇降する際に、手すりが必須となる。バレーボールでもボールに触れることさえ叶わず、バスケットボールではパスされたボールを顔面で受け止め、放ったシュートがリングどころかボードにも当たらないことだってある。……断っておくがストーカー情報ではない。今の行いは純然たるストーキングに思えるかも知れないが、それは似て非なるモノだ。
住宅街に入る。田舎の土地持ちが高値で売却した田園の跡地の上には、建て売り住宅の看板が目立つ。数年前から掲げているはずだけど、その看板が減った記憶はない。明らかに失敗だ。企業はまず、自分がこのような頭にドの付く田舎に在住したいかを想像してから建設に踏み切るべきだ。
人気のない建築物の群れを通り過ぎて、御園さんは交差点を越えた先にあるスーパーへ向かっていく。彼女が信号のない道路を越える際、右足に左足を引っかけて転倒しそうになり、そのまま飛び出して支えたくなったが、拳を握って堪えた。
御園さんはよたつきながら駐車場を通ってスーパーの店内に入っていく。外にある花と野菜の売り場は、時間帯の為か客の姿も疎らだった。店内まで深追いはせずに、少し離れた自販機の前で、何を買うか迷っているように装い、買い物を済ませるのを待つことにした。
「…………………………」
失踪事件にまき込まれたのは、ここから近場の小学校の生徒だった。今も、そして昔も。
八年前にも一度、失踪事件が起きた。三十代の男性が小学三年生の男女を誘拐し、一年近く監禁して、暴行と性的虐待を与えた。最後は犯人の死亡で解決したその事件を彷彿とさせるような今回の件で、第二の彼がこの街に、と噂になっている。つまり皆、失踪ではなく誘拐事件が再発したと捉えているのだ。
しかしこれは、偏見の一種じゃないかと憤慨したくなる。誘拐犯が、彼女である可能性は考慮してないのか、と尋ねてやりたい。別に営利誘拐であるなら女性だって行うだろうし、弄り抜いて殺害するのが趣味だとしても、不都合は一切ない。全く、女性に失礼だ。女性蔑視も甚だしい。
社会貢献度の高い問題について一人で黙考し、自販機の冷たいのボタンを押して出てきた生温かいお茶を飲みながら、御園さんの買い物を待ち続ける。
「…………………………」
とかく女性は買い物にかける時間が長いという、じゃあ男は買い物が短くないと示しがつかなくなって面倒じゃないか、と捻くれた意見を唱えたくなるような言葉があるけど、当てはまる事例を体験すれば、正鵠を射ている気がしてくるものだ。
「……なげえ」
七本目のお茶を飲み干し、缶をゴミ箱に投げ捨てる。段々と気持ち悪くなってきた。プールで溺れた時のように眉間が痛い。既に四十分近く自販機の前でお茶吸引係を担っている。時を同じくして商品を納入しに来たトラックのお兄さんが、仕事を終えて駐車場に戻ってきた時に、変わらない光景を見て、怪しい人を見る視線を投げかけてきた。誘拐犯と思われたかも知れない。好青年っぽく会釈をしてみた。殺人犯と思われたかも知れない。
そんな心温まる交流を経てから更に二十分、計一時間をティータイムに費やしようやく、御園さんは袋を左手に提げて戻ってきた。時間と品数がとても嚙み合っていないことが、胃の中で揺れるお茶の虚しさを増加させる。
自販機の周囲を回り、御園さんの視界に入らないようにやり過ごす。彼女の袋からはみ出た林檎は何度も万有引力の法則に従うように落ちる。それを拾い上げることを繰り返しながら交差点に引き返し、クラクションを鳴らされながらよたよたと渡る。もしこの場で御園さんが轢かれたら、即座に駆け寄るか脱兎の如く逃走すべきか迷いながら、速やかに交差点を渡った。
御園さんは交差点を右に進んで、新興住宅街の中心部へ向かう。そのアパート、マンションといった貸家が並ぶ地区に、一人暮らしの女子の住処はある。水色という微妙な彩色の壁のマンションに、御園さんは林檎を落下させながら吸い付いていく。そして、入り口に吸い込まれた。放置された林檎を拾い上げて、彼女がエレベーターに乗ったことをガラス越しに確認してから入り口の自動ドアを通り抜けた。
入り口よりすぐのホールから廊下を越えると、芝生の目映い庭が広がっている。一階は様々な店舗が集っていて、下見した時にはCD屋に本屋、それに漫画喫茶まで備わっていた。実に荘厳で立派な、学生が暮らすにもこの街自体にも不相応すぎる場違い空間だけど、今はそれについて論じている余裕はない。玄関ホールにオートロック設備がない、中途半端に田舎が混入した建築に感謝しながら脇にある非常階段を駆け上がり、エレベーターと同じく三階へ向かった。
水色の扉を開き、三階の外側、階下を一望できる通路に顔を出す。御園さんは既に、住居である三〇七号室の前へ到着し、扉の穴に鍵を差し入れていた。そこで手間取っているのか、しきりに手首を捻り、鍵を入れ直し、荷物を足の脇に置いて四苦八苦している。それを観察しながら、考える。
ここまで、スーパー以外に御園さんの寄り道はなかった。やはり、自宅が本命なのか。そうなると御園さんのお家にお邪魔したいところだけど、流石にマンションであるから、ドアにチェーンぐらいはある。チェーンを外側から解除する手筈は整っていないし、それ以前に鍵開けの技術も習得していない。泥棒ごっこはとても無理だ。
そして彼女が来訪者の姿を確認して、チェーンを解除することも、室内に招き入れることもないだろう。
……だったら、方法は一つ。
自分で開けられないなら、家主に開けてもらえばいい。
ようやく錠が解けたのか、穴から鍵が引き抜かれる。汗を一拭きし、ドアノブに手が掛かる。
頃合いだ、と口に出して鼓舞し、引き返せない場所へ足を踏み出す。
小走りで駆け寄り、さも当然のような振る舞いで、
「あ、荷物は持つよ」
ビニール袋を拾い上げ、半ば御園さんを押し退けるように入り口の扉をすり抜けた。
「……えっ?」と御園さんが虚を突かれている隙に、余裕綽々を演じて玄関に上がり込む。靴を適当に脱いで、足音を強く立てて居間へ向かう。
「ちょっと! なんなんですか!」