御園さんが侵入者を引き留めようとしても、完全に無視した。整えられたリビングに入る。八分目まで踏み込み、振り返ってから拾い物の林檎を断りなく囓った。
「広いし、片づいている部屋だね。けどテレビの上に埃が積もってる。物が少ないから綺麗に見えるのかな?」
テーブルに荷物を置き、平常通りの態度で御園さんに尋ねた。振り向くと、御園さんが殺気立った、能面顔で距離を取っていた。黒い眼球は輝く虹彩を覆うように細められ、手近にあった花のない花瓶を武器として構えている。同級生の来訪を歓迎する態度でないのは明白だ。
「貴方、なに?」
「何かは分からないけど、誰かは分かる。君の同級生だよ」
茶化すように答えてから、囓りかけの林檎をテーブルに転がした。そして、横目でこの部屋の奥を確認する。鉄筋コンクリートの洋室の一角に備わった部屋は、臙脂色の襖が隙間なく閉じられていた。造りからして和室かな。
「あの……帰ってくれますか? 迷惑なので」
能面顔で落ち着き払っていることを演出しながらも、数秒ごとに横目で和室へ眼球が動いている。その正直さは、小学校の先生なら褒めてあげるところだ。
「君が望むなら、すぐ帰るよ。けど、相手の意向は聞いてあげないのかな」
「……なんのこと?」
「こんなこと」
和室の方へ身体を向けた。けれど背後で一歩、強く床を踏み込む音を聞いて、咄嗟に横に飛び跳ねた。ソファを摑んでベリーロールのように飛び越えながら、今し方まで立っていた場所に腕を突き出す御園さんを見た。その両手には花瓶と、高圧電流を発生させる、護身用の武器が握られていた。
「過激だな。けど残念だったね失敗したね。今のが最後の機会だった。本当なら入り口で、君はそれを使うべきだった」
距離を取れば、御園マユがどれ程の狂気の下にどんな凶器を手にしても恐怖に値しない。
御園さんは、無表情に近い怒りをぶつけてくる。ペン型のスタンガンを胸元に構え、一定の距離をすり足で取る。激昂して飛びかかってくる気配はない。
「あなたは、知ってるの?」
「勿論」
勿論、何も知らない。
御園さんが尋ねたいこと、正しいこと、社会的どーとく、りんり、御園さんの好きなモノ、人付き合いの仕方、林檎の栄養素。全てを知る由もない。一つだけ、噓だ。
「無駄だよ。たとえ今この状況で、御園さんが機関銃を取り出しても殺されない自信がある」
ハッタリ大好きです、はい。
御園さんが和室の前へ回り込む。その存在自体が噓をつけないような態度に、普段どうやって生活出来ているのか本気で尋ねたくなった。
「よっぽど大事なんだね。その部屋自体が大切、かも知れない。或いは、地位か名誉か財産が具現したモノを保管してある。それとも、致命と成りうるモノでもあったりして」
具体的な名詞は出さずに表面をなぞる。御園さんは目立った反応を見せない。
何処まで追いつめると発狂するか臨界点が見えないので、悪ふざけは終いにするとしよう。
今日は別に御園さんを苛めに来たわけじゃない。
そして彼女の罪を明らかにする為でもない。
「久しぶりだね」
一拍置いて唇を舐め、こういう時に微笑みを伴えば人間らしさの項目に優の評価が下されるのかと思いながら、
種明かしのようにその名を口にした。
「まーちゃん」
スタンガンと花瓶が、同時に床へ落下した。
御園さんの肩が、第三者が端から見ればいじめられっ子のように頼りなく震える。
御園さんの子鹿のような足が、一歩距離を詰める。
彼女の瞳孔が限界まで収縮と膨張を繰り返し、肩の震度は一層、増大する。
「覚えてる?」
意識することなく優しい声音で尋ねた。彼女の足が、更に近寄る。
「みぃ、くん?」
……八年振りの懐かしい名称だ。
「まーちゃん」
大げさに御園マユの肩が反応した。それを静めるように、御園マユの、骨の目立つ身体を抱きしめた。彼女の香りと、汗の匂いが鼻腔に届いた。
「みーくん……?」
まだ信じられないといったように、呆然とその名を呼ぶ。
「よしよし」
「みーくん」
「よしよし」
「み、くん……」
背中を、ぽんぽんとあやすように叩いた。
それだけで、決壊した。
「う……わああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
壊れたような絶叫を、身体全体を使ってマユがあげた。だくだくと溢れた冷たい涙が、首筋から肩にかけてを伝い、雨後のように周辺を濡らした。
「みーくん! みーくんみーくんみーくんみーくんみーくん!」
背中を抱かれたまま、マユは何度も何度も、名を叫んだ。
最後は泣き崩れて、足下に蹲った。
彼女は、単なる同級生ではない。
一緒に嬲られ。
一緒に壊され。
一緒に狂った。
そんな、望まない関係。
僕と御園マユは、八年前の誘拐事件の被害者だった。
砕けた花瓶の掃除をして、状況が落ち着いたのは三十分以上が過ぎてからだった。
「ごめん。少し悪戯してみたかったんだ」
ソファに腰かけ、マユの髪を指で梳きながら、僕は謝罪する。マユは未だに涙を流し、頰を膨らませながら、それでも僕の腕の中に収まっている。
「みーくんのばか。わたし、すっごくドキドキしたんだから」
「僕だってドキドキしたぜ」
というかビリビリになるところだった。そしてドカバキとなって骨をメコメキャッとされてズタボロになるところだった。
「取り敢えずこれは没収」
子供の手の届くところにこんな物は置いていけません。掃除のついでに僕がスタンガンを拾っても、マユは反応を示さなかった。そんな物は既に眼中になさそうだった。
「ばーかばーか。みーくんのばーか」
幼児退行気味なマユの台詞。落ち着いて控えめな同級生である御園マユの姿は、完全に霧散していた。
「それになんで今まで言ってくれなかったの」
「最近まで気付かなかったんだ。ほら、僕は君の名前を知らなかったし」
噓の理由を述べた。けれど、マユは不満顔を崩さない。
「うそつき。昔ずっと一緒に遊んでたのに、知らないわけないもん」
「おお、名推理。賢い」
頭を撫でてごまかす。別に隠す理由もないけど、言ったところで理解出来ないだろうし。
「マユは頭がちっちゃいなあ。まるでお、」
ぐい、と唇に指を押しつけられた。マユはぐるりと回転し、僕と向き合う形になる。
「マユじゃないの。まーちゃん」
唇が解放される。……うーむ。
「この歳でまーちゃんと呼ぶのはちょっと恥ずかしいっつーか……」
「だーめー! みーくんはわたしのことをまーちゃんって呼ぶの!」
じたばたと、マユが子供っぽく暴れる。いや、子供そのもの。
「それにみーくんも、猫の鳴き声っぽいし」
「猫でいいじゃないかー! 不都合あんのかー!」
ないと思ってんのか、なんてこれは並行世界の僕の台詞より抜粋ですよ。
「みーくんはみーくんでわたしはまーちゃんなの! 決まってるの不可分なの!」
涙を流しながら力説されると、もの凄く真摯かつ重大な願いに聞こえるから不思議だ。僕はその場の雰囲気に飲まれたのか、結局勢いで頷いて了承してしまう。
「やっぱそうだよな。みーちゃんだと青い機械人形のスケっぽいし、まーくんだとマスコットっぽいもんな」
「うんうん! みーくん賢い!」