泣き笑いで顔をぐしゃぐしゃにしながら、今度はマユが僕の頭を撫でてくる。何だか、致命的に、どうしようもない間違いをしていると心の奥底で理解はしているんだけど、それを具体的に語り、対処する方法は思い浮かばなかった。そもそもこんな状況で頭を働かせることが、間違いであるように思えてならない。
「わたしね、ずーっと待ってた。みーくんがね、まーちゃんってわたしのこと呼んで、目の前にきざったらしく現れてくれるの」
「……それはそれは」
本当に待ってたのか。
「……そういえばあの部屋、ちょっと見ていい?」
奥の和室に目を向ける。
「いいよ!」
快諾し、マユがぱっと離れる。そして僕が立ち上がると、背中から首に手を回して、ぶら下がってきた。少し息苦しくなったけど、そのまま子泣き娘を背負って和室へ向かった。そこにあるモノが、予想外のモノであることを願いながら。
襖に手をかけて気負いなく開いた。誘拐された小学生の兄妹がいただけだった。
「……ふむぅ」
一度襖を閉じて、Uターン。ソファに尻を返還し、テレビの電源を入れた。若い男女が平日の昼間から遊園地で遊びほうけていた。観覧車に乗り、彼氏が彼女の靴の匂いを嗅いでいる。
マユが膝の上に寝っ転がってきたので、それに応対しながら呼吸を整えた。
「甘ったるいドラマは好きくないのです」
そんな戯言をどの口か存じ上げないがほざいて、マユはリモコンを僕の手から奪い、『8』を押した。番組はバラエティに変わったけど、その前に我が身を振り返ろうと提案したくなった。
「まーちゃん」
マユの額の髪を指で梳きながら、諦め混じりに問いかけた。
「君、あの子達を拉致っちゃった?」
「うん!」
当たり前のように、元気一杯の返事を頂戴した。なんか、褒めて褒めてと、今にも言い出しそうだ。言われたらどうしよう、頭ぐらいは撫でてしまいそうだ。
「ねーねー、みーくんはおうち帰らなくていいの? ていうか一緒に住もうよ」
『は』ってあのね。
「質問と要求を一緒くたにしないように」
「で、で? どーなの?」
人の話なんか聞いちゃいねえ。しかも、目が爛々に輝いている。学校での性格はハリボテだったのかな。童女の立ち振る舞いが自然すぎる。
「そうだな……。一緒に住む、即ち同棲ってことだよな……」
学生が同棲で清々な交際をしろと。しかし最初から汚れのついた人間に清川の如き付き合いを求めるのは酷だろう。それに僕は一応、叔父の家で扶養されている身故、保護者の認可が下りなければいけない。
「一緒に学校行って、一緒にご飯食べて、一緒にお風呂に入って一緒に寝る。良くない?」
「いや、いいけどさ。でも、生活費とか……」
「わたしが出すからだいじょーぶ!」
ヒモへの誘惑が襲ってきた。
……まあ、それもいいか。どうせ、長期的な話でもないし。
「今日、叔父さん達と話してみるよ。駄目だって言われたら、家出でもしよう」
小学生みたいな結論に落ち着いた。一方でマユの中では既に確定事項らしく、夢色な光を瞳が帯びている。
「あー、もっと早く気付いてればなー。修学旅行の班もなー」
口では残念がりながら、妙にうっとりしている。それに倣って僕も表面上は大変残念がってみた。全くの噓だけど。
「さて、桃色とセピア色のお話は一旦中断して、だ」
首を派手に回し、骨を軋ませる。あの和室の中身は、僕の予想通りだった。やはりこの街には殺人犯と誘拐犯がいて、その片一方はこの、御園マユだった。謎は全て解けて犯人はお前なんだけどそれでどうしろと仰るんだ。
事前に予想していようと、事実に直面したら予想以上の衝撃を事後に受けた。
「普通さあ、同棲生活開始時のイベントって、もうちょっと痴話な感じだろうにさあ……。ものっそいクリミナルな問題抱えていちゃつけってのか……」
頭を抱えたくなった。そして投げ飛ばして交換したくなった。ええい新しい顔はまだか。
「にゃにゃ、どったの? 顔が死に損ないみたいな青色になってるよ」
妄想から復活したマユが僕の頰を突いてくる。「んにゃ?」だの「ぬぬ?」だの幼稚な仕草と言葉で僕の顔を覗き込み、納得したようにパン、とマユが柏手を打った。
「お腹空いたんだね!」
「そうだね……。問題も溢れ返るほどなんだ、ついでに腹の中身も埋めようか……」
うへ、うへへへ。などと自暴自棄になっている場合ではない。テレビの上の時計は短針が5を通り過ぎ、長針が8の真上に来ていた。叔父達なら、既に食事を終えている時間だ。
「みーくんはくいしんぼだからねぇ」
親戚のオバサン風に言われた。マユが膝上から飛び跳ね、テレビと僕の間に立ち、腰に手を当ててふんぞり返る。
「ではこのまーちゃんがご飯を作ってあげよう!」
テレビによる後光が一種神格化を促し、思わず密教の信者の如くひれ伏すところだった。
「じゃあお願いします」
「何食べたい? 何でも作れるよ」
「まーちゃんの嫌いなもの」
底意地の悪い脊髄が最速で反応した。止まりかけていた涙が、またマユの目尻に充満する。
「ジョーク、ジョークだよエスペラントジョーク。まーちゃんの好きなものがいいな。お前の好きなものは僕の好きなものってやつだよマヂマヂ」
駅前の勧誘より拙い褒め言葉だった。けれど、マユは目の潤みを潮のように引かせながら、「まかせて!」と請け負ってスリッパも履かずにリビングの奥へダッシュしていった。効果は抜群である。
ごん、という鈍い音に引かれて、僕も後に続いてみる。
奥は、当たり前だけどキッチンだった。一見すると整頓されているようで、されていない。物の置き方が滅茶苦茶だった。包丁が箸と同じ場所に纏めてあるのはどういうことだ。
マユは額を赤に染めながら、エプロンを棚から取り出していた。制服の上から赤色のエプロンを着ける。そしてはにかみながら僕の前に立つ。
「どぉ? 似合う?」
上目遣いの目線で感想を求めてきた。
手頃な称賛を即座に思いつかなかったので、マユを抱きしめた。それだけで、感想の肩代わりには十分だった。
「みーくん、大好き」
身体を離すと、頰を紅潮させ、僕が浮かべることは一生涯あり得ない、魅力の塊の笑顔を向けてくれた。
「式はいつにする?」
「マテ」
いきなり婚姻関係が成立していた。
「最初は女の子がいいなー」
子供まで出来ていた。天空の花嫁ですか君は。
何とか煙に巻くため、周囲を見渡して話題を探る。そしてキッチンには何もなかったけど、棚上げにしていた問題を思い起こし、尋ねてみる。
「あの子達の夕食は? 一緒に作るの?」
マユが僕の腕の中から離れて、冷蔵庫に括り付けてあった袋から、「これ」とロールパンを二つ取り出した。
「……駄目だ、もう少し食べさせてあげないと」
「えー、なんで?」
「何でも。料理は出来るんだろ、ちゃんと美味しいもの食べさせてあげなさい」
ぶすっと、マユは膨れっ面になる。パンもとばっちりで握り潰される。
「大丈夫だよ、だってわたしたちと一緒だよ? ううん、もっと少なかったよ。お水も好きなだけ飲ませてあげてるし」
「そうなんだけどさ……」
基準が底辺すぎるんだ。
「こっちの都合で連れてきたんだから、それぐらいはしてあげないと駄目。僕らの時も、お腹が空いて苦しかっただろ」
そして餌を貰うために、僕たちは『芸』を強制的に行わされた。そう、餌。あの時の僕らが行為の果てに得た報酬は食事ではなく、そう表記するのが正しかった。そんな、『芸』だった。
マユは不満げながらも、小さく首を縦に振った。
「みーくんが言うなら……」