「僕はまーちゃんに命令しない。これはお願いだよ。まーちゃんの意志で、二人に食べさせてほしい。勿論、お願いだから断ることも出来る」
偽善に満ちた台詞に、言っている本人が辟易しそうになった。こう言われて、マユが断るはずもないのに。自身の心根の醜さは、寒気に値する。
「分かった、けど……。じゃあ、じゃあねみーくん。わたしのお願いも後で聞いてね」
名案を閃いたように、パッと笑顔に戻る。勿論お願いだから断ることも出来るのだけど、そこまで理詰めで感情を叩き斬ってどうするのだろうか。僕は頷いた。
「よっしゃー! じゃ、待っててね!」
潰れたパンを机に放り、冷蔵庫を勢いよく開ける。僕はその光景を少し眺めてから、パンを手に取ってキッチンを出た。
リビングのソファに放り出した鞄から、携帯電話を取り出す。アドレス帳から見慣れた電話番号へとかけ、通話ボタンを押した。待ち時間ほぼ零で、叔母さんが電話に出た。今日は夕食を友達と食べると伝える。叔母さんは好物のスルメを頰張りながら受け答えしているのか、やたらくちゃくちゃと咀嚼音をさせながら了解し、早く帰ってくるようにと告げて電話を切った。
携帯電話を鞄に戻して、床に尻を下ろす。
そしてそのまま目を閉じて、御園マユとの過去を、思い返してみた。
十秒で全てが映像化され、観賞を終えた。
最悪だけが生まれた。
用事を済ませてから、和室の襖を開けた。視線を意に介さず部屋の中央へ上がり、電灯を点けた。
「んー、初めまして、かな」
教育番組の司会風な笑顔で第一印象の向上を図ろうとして、無理だと諦めた。
照らされた六畳の部屋には、異臭が漂っていた。鼻を塞ぎたくなるほどの悪臭が粘膜を刺激する。二人が風呂に入っていない為と、服を洗濯していないこと。そして、隅に置かれた簡易トイレの中身が、臭いの主たる原因と判断した。この臭いが漏れないように、襖を閉じる。平静を装うのに、労力を相当割きそうだ。
兄の方は僕を怯えた目で見上げ、妹の方は吊り目を更に険しくして睨み付けてきた。共通点は、足と柱に錠を課せられ身動きが取れないことだ。その枷が付いた足首と柱には、外そうと引っ張ったりしたのか、微細な傷とささくれが見受けられた。
二人は息を飲み、口は漢数字の一を描いている。そんな子供達の前で腰を下ろし、正座して背筋を伸ばす。初対面の相手には、つい礼儀を正してしまう。兄の方が、少し面食らっていた。
「池田浩太君と、池田杏子ちゃんだね」
名前を呼ぶ際、顔を眺める。兄の浩太君は、恐怖を重力として感じているのか、何度もがくがくと首を振り、肯定の意を表してくれた。一方で妹の杏子ちゃんは、視線を壁へ逸らし、会話を拒絶するような態度だった。まあ、当然だよな。
「僕のことはお兄さんと呼んでくれ。勿論お兄ちゃんでもいいけど」
「……はあ」
口の中でくぐもりながらも、兄の方がようやく声を聞かせてくれた。
「あ、名前は秘密ということで」
自分の地味さにテコ入れを課すべく、謎を演出してみた。二人からの訝しさに満ちた熱い視線は何喰わぬ顔で無視して、パンを相手の目線に掲げた。
「お腹は空いてる?」
「え、あ、は、はいいえ」
どもりながら答えようとする。実に理解し辛い。見かねたように、杏子ちゃんが壁を向いたまま口を開いた。
「当たり前でしょ。朝から何にも食べてないんだから。早くそれ、よこしなさいよ」
随分と尖った声調だった。それからそのままの状態で、手を伸ばす。その小さな手に、パンを載せた。池の鯉に食べさせるかのように千切れ、見崩れしたパンを更に杏子ちゃんは分解する。中身を検分している様子だけど、別にクリームもチョコも毒物も入ってはいない。
「今日は、この後にも夕食があるけどね」
杏子ちゃんの解剖の手が止まり、目が丸くなった。
「あの、どういうこと、ですか?」
浩太君が尋ねてきた。表情に期待は薄く、不安が上乗せされていた。
「君達を攫ってきたおねえさんが今、ご飯を作ってる。何を作るかは知らないけどね」
「作る? ご飯を? それに毒でも入れてるの? それともゴキブリでも食べさせる気?」
杏子ちゃんが険しい顔で突っかかってきた。やはり、先程の行いは異物の混入の有無を確認していたらしい。その用心深さには些かの好感を覚える。少し苛めたくなるぐらいに。
浩太君はそんな妹の態度が僕の機嫌を損ねないか心配らしく、必死に顔色を窺おうとしている。
「毒に、ゴキブリね……。じゃあ杏子ちゃん、」「名前で呼ばないで」
「池田さん、もしどちらかが入っている食事を出されたら、君は食べる?」
「食べるわけないじゃない」
「食べなければ殺すと言われたら?」
「そんなもの食べたら、どっちにしても死ぬじゃない」
違うよ、と首を振った。
「食べないと、君のお兄さんが殺されるんだ」
浩太君の肩が、大げさに取れるほど跳ね上がった。涙目にもなっている。杏子ちゃんはそんな兄に、軽蔑するような視線を横目で投射した。
「自分のことは自分で決めればいいけどね、その選択が周囲に与える影響はちゃんと考えないといけない。そしてその責任も取らないといけないんだ」
例えば、僕にとっての彼女のこと。
御園マユに対しての、責任。
杏子ちゃんは押し黙り、睨んでいた視線は俯いてしまった。その代わりに、浩太君が僕と杏子ちゃんの顔を交互に覗いてから、やがて口を開いた。
「あの、ぼくが食べます、から」
「ん?」
「ぼくが食べますから、その、あんずには、そういうこと、言ったり、しないでください」
激しい吃音混じりながらも、言葉に意志が通っていた。真っ直ぐに僕へ伸びるように。
なんというか、兄貴だった。
驚きながらも、杏子ちゃんは兄の腕に縋る。僅かに瞳を潤ませていた。
「あんずを、いじめないでください」
「…………………………」
少ないながらも蓄えられていた良心が自傷行為に走った。もうがりがりと搔きむしった。
子供恐るべし。
「あのさ、僕を人の尊厳と命をふざけた二択で弄ぶクズ野郎と思わないでほしいのだけど。あくまで、もし、例えばの問いかけだから。ね、マジにならないでくださいほんと」
平身低頭して謝罪した。
「あ、す、すいません」
浩太君もへこへこと頭を下げる。杏子ちゃんは当然下げなかった。
「そんなこと聞く方が悪いのよ」
杏子ちゃんが押し殺した声で呟く。聞くより実践する方が悪いと思うけど、とは言わなかった。この会話を続行する気はない。実りがないとは言わないけど、実る前に僕が良心の呵責で死ぬ。
それから二人は余程飢えていたらしく、杏子ちゃんの両手で検分(僕からすれば損壊)した粉々のパンを目分量で分割し、黙々と咀嚼し始めた。会話がなくとも、互いに顔を向け合う食事の風景は、学校以外ではお目にかかったことのない、尊いモノに思えた。
姿勢を崩し、胡座をかく。膝に肘を突き、二人を観賞してみた。
兄の池田浩太は小学四年生。垢色の肌に、線の細い体つき。前髪が眉間にまで掛かるほどの長さで、キタロウみたいになっている。二つ年上の兄ではあるが、随分と妹の顔色を気にしている。どうもそれは恐れではなく、過保護な気の遣い方の表れらしい。合格。
妹の池田杏子は小学二年生。この子も、肌の垢が目に付く。肩に掛かる程度の髪は癖毛なのか、派手に跳ねている。口調は大人びて、負けん気と意地の凝縮されたような性格と見受けた。
マユが攫った二人は、新聞やニュースで見た写真よりやつれて、けれど目の下の隈は薄い気がした。
「ひょっと、にゃに?」