パンを一気に口へ詰め込み、頰を膨らましながら杏子ちゃんが睨む。その目線も、リスのような頰と組み合わされば、好感に変わる。
「いやなんというか、妹は和むねと思っただけ」
杏子ちゃんはパンで膨らんだ頰を朱色に染めて、目を逸らした、なんてことは勿論あり得ない。ただ冷めた視線だけを向けられた。
「べひゅに、あんたにょいみょうとひゃない」
「まあ、そうだけどさ。君は犬を見ると、殺したいって感じないでしょ?」
「ひゃあ? なにしょれ」
「ん、やっぱり君は良い子だねえ」
したり顔が気に障ったらしく、パンを無理矢理飲み込んでから、「キモイ」と辛辣な評価をぶつけてきた。浩太君はむせ込みながら、ぺこぺこと代理で頭を下げる。緊張感のない誘拐犯と、肩に力が入りすぎな被害者の取り合わせは間抜けの一言に尽きた。
「さて、お腹も少しは落ち着いたようだし、一つ真面目な話をしていいかな」
「余計お腹空いた」
反抗的な憎まれ口を杏子ちゃんが挟む。「あんず」と浩太君が注意し、やっと口を噤んで聞く姿勢になる。そんな二人の顔を見渡してから、話を切り出した。
「一つお願いがあるんだ」
そう前置きして、僕はそのお願いを口述した。
「君達を誘拐したのは、僕ってことにしてほしい。あのおねえさんは一切合切関係ない、存在自体公表しないでほしい。それさえ守ってくれればいい」
そうすれば、近いうちに君達を解放する。
そんな噓をついた。
正直、こんな口約束を守ると考える方がどうかしている。そこまで人を信頼している奴は、悪徳商法に騙されてくれと笑顔で肩を叩きたい。
だから僕はいつか、機を見計らってこの子達を殺すのだろう。
口のない死人とする為に。
それこそ、巷で噂の殺人鬼のように。
「あ、あの」
浩太君が、おずおずと挙手する。「はい、池田君」とちょっと気取って発言を促した。
「かいほうって、その、ぼくたちをここから出す、ってことですか?」
「そう、だね。出すというか、逃げ出すというか」
「そうですか……えと、どうも……」
なんか、妙に消極的だな。まるで、ここから出たくないみたいにも取れる。杏子ちゃんの顔を見ても、兄と顔を見合わせて憂鬱な表情になったりしている。まさか、望んで誘拐されたわけでもないだろうに。
誘拐は、ある意味殺人より性悪な犯罪だ。
殺人は本人が死んで終了だけど、誘拐は、解放されてから続いてしまう。
狂った人生を、続けなければいけない。
修正不可能なのに。
半分以上死路と重なっているのに。
生きなければいけない。
活かされ続けていく。
理解出来なくなった、人の普通ってやつに隷属しながら。
……あー、駄目だ。払拭しないと。
「ところでさー、君達ってどういう経緯で誘拐されたわけ?」
口から悪意と共に吐き出した言葉は、それと反比例して軽々とした調子だった。
「外で、遊んでてあのおねえさんが出てきて、そのままここに……」
浩太君の、歯切れの悪い返答。ちらりと妹を一瞥する。杏子ちゃんはそっぽを向いて、けれど浩太君の左手に、自分の手を重ね合わせていた。僕はそんな兄妹の対応に「ふぅん」と納得した素振りを見せながら、内心では異議ありと人差し指を突きつけていた。
この殺伐という字面が似合すぎる御時世に、吞気にお外で遊んでいた? かなりダウトな発言だ。報道でも夕方に姿を消したとなっていたから、この子達が家屋の外にいたことは確かだ。ただ、この子達の保護者、両親がそれを許すかな、状況的に。……うーん。
妙に引っかかり、けれど余り気にかけたくはないな、と考えていたら、
「なんでこんな所にいるの?」
爆ぜるような音を立てて勢い良く開いた襖と、冷淡な声。振り向くと、フライパンの柄を片手で支え、まるで教室にいる時のような、落ち着き払った雰囲気のマユが直立していた。十五分前の幼児退行が幻覚として霞みそうなほど、彼女は年相応な十七歳に戻っていた。
不思議そうな表情ながらも部屋に入ろうとして、敷居で転けそうになったので、慌てて身体を支えた。「ありがと」と乾いた声で礼を述べられる。「どういたしまして」と無意味に紳士ぶってから、フライパンの中身を確かめた。
「焼きそばだよ」
自信作なのか、はたまた好物なのか、マユは気持ち笑顔でフライパンを差し出す。そこから生じる、香ばしいソースの匂いは、部屋の臭いと混ざって食欲減退を促した。
「何か敷物を……」
僕の日本語は通じなかったらしく、マユは畳に直にフライパンを置いた。焦げる音と、草を焼く臭いがした。もはや異臭祭りと呼ぶに相応しい状態になってきた。
「わたし達は台所で食べよ」
マユが僕の服の袖を引っ張る。僕はそれをやんわりと断った。
「ここで食べよう」
「なんで?」
「なんでって、この子達も食べる為に作ったんだろ?」
マユの唇が更に意見を返そうと開きかける。けれど、小さい深呼吸に切り替わった。そして不満を多量に散りばめた態度と声で、「分かった」と腰を下ろした。
マユから竹の箸を受け取る。視線で促すと、放り投げるように二人にも割り箸を渡した。二人は、箸を受け取る時に目を何度も瞬かせていた。けれどそれも数瞬。食欲に忠実な兄妹は、目線で是非を問いかけ、僕の了解を得てから箸をフライパンへ伸ばした。
「熱いから火傷しないように……」
二人とも、話など聞く暇もなく、フライパンに顔を突っ込みながら果敢にソバを啜っていた。毒入りであろうと躊躇わず喰らう姿勢である。僕が箸を入れる余裕もない。
「おいしい!」
「うん、おいしいね!」
杏子ちゃんまで素直に賛辞を述べながら、キャベツの芯まで嚙み砕いて貪欲に胃腸に詰め込んでいく。作り手冥利に尽きる、と大半の方は嬉しがるけど、マユは普通じゃない。あからさまに苛立ちながら、焼きそばが二人の口へ吸い込むように消えていく様を見ている。歯軋りをして、腕の皮膚に爪を立てる。マユが今にも怒鳴り散らしそうだと僕は危惧していたけど、そんな事態には陥らなかった。マユはそこまで大人しい子じゃなかった。
マユがゆったりとした動作で箸を掲げる。そして、その次の行動に、僕は視界をぐらつかせた。
振り上げた箸の先端を、杏子ちゃんの頭に、振り下ろそうと、
「バカ!」
掛け値なく罵倒しながら、箸を遮るために咄嗟に右手を伸ばした。まーちゃんのカラフルな箸が手加減なく、中指の付け根辺りに突き刺さり、皮を突き抜けた。
「っつぅ……エイリアンが手の中から……って感じかな」
「……みーくん?」
斜めに突き刺さった箸に対し、マユが首を傾げる。浩太君達も、食べる手を休めずに僕の手を見ていた。ずぶといな、この子達。食欲強すぎ。
手の平を箸が貫き、真っ赤に燃える僕の血潮が溢れ出した頃にようやく、マユが反応を見せた。
「包帯とか持ってくるから」
軽い調子で立ち上がった。罪悪感零であり、台詞が軽い軽い。
「包帯は別にいいや、絆創膏で……」
「駄目。ばい菌とか入ったら肌がぼこぼこになるから」
どんな状態だぼこぼこ。肉がぼこぼこになるのか肌がぼこぼこになるのかで、恐怖の度合いが違いすぎるのだが。
「後、みーくん専用のご飯を作るから待ってて」
食事に専用って付けると、何となく種族からして異なる響きがあるので、心は躍らない。それはいいとして、僕は部屋から出ようとするマユを引き留めた。
「ご飯はいいよ、二度手間になるし」
「手間なんかかけないよ」
それはそれで困る。