俺が寄宿する叔母さん宅は独り暮らしで、旦那さんも子供もいないらしい。しかも働いてる(まぁ当たり前だ)。それはつまるところ、俺には条件付き独り暮らしが約束されているということに他ならない。それは一言で言うなら『そんな単純に表現できるかよ』と突っぱね青春反抗期まっただ中な高二男子の喉から手となけなしの小遣いと安っぽいプライドを根こそぎ搾取する魔性の環境だった。健全な青少年の育成という大人の願いは叶えられない、捻くれ物の神龍が俺に気まぐれに味方しているとしか思えない。
無茶苦茶ウキウキしていた。穀物を食い荒らす猿より新生活にがっつこうとしている。
田舎者だからって都会っ子の徒党の逆鱗に触れて苛められるんじゃね? とか恐怖を抱くことも全くない、いわば全裸で春のキャンプ場を走り回ってる感覚。
絶頂の絶好調だった。
荷物を重力で苛めたり反させてみたり屈服させてみたり(要約すると、かなり無駄なことをして)の四日間が過ぎ、いよいよ都会へ引っ越す日がやってきた。
二日前の、教室の壇上に登っての別れの挨拶は、流石に少し湿り気を帯びた。田舎の学校は、小学校、中学校、そして高等学校と教室内メンバーをそこまで変更せずに進学するのが普通だから、一年の付き合いだったとはいえ、顔馴染みの度合いは深い。
多少は教室をしんみりさせ、それなりに満足のいく別離の風景と空気は作れただろう。
俺との別れに公衆の面前で躊躇なく涙する女子がいたら急遽段ボール箱に詰めて郵送するつもりだったが、しかし特に誘拐犯などになることもなく今日、十五年近く過ごした土地と、電車の力を借りてサヨナラを果たした。流石に駅まで見送りに来るシンユーとかはいなかった。
両親も、一週間ぐらい前にソコトラ島だかソ連だか知らないけど行って日本を離れていたし。
ただ、この別離と未知への高揚感だけで、青春ポイントのマイナスを払拭して零に引き戻してくれたのではないだろうか。始まりに相応しい、心の水平線を見渡せる気分だ。
高校入学式の気分を、二回も味わえるのは珍しいだろうしな。
二時間半ぐらい、電車の座席に乗って揺られた。途中の一時間ぐらいは眠っていたみたいで、目覚めるとがら空きだった席の大半が客で、窓の外から覗ける景色の田んぼが人家や工場に領土を奪われていた。
耳にはめ込んでいたイヤホン(英語を使ってはいるが、この文は鼻から鼻血が出たみたいなものな気がする)から流れる音楽も、ランダム選曲が一通り終了して無音になっていた。
ポケットから取り出したipodを操作して、今度は気に入った一曲だけ垂れ流し続ける。もっとも、寝ぼけている所為か右の耳にしか聞こえちゃいなかったけど。
斜面の芝生に植えた花で文字を描き、社名と地球に対するエコ活動を呼びかけている会社や富士山、ついでに海を通り越すのを、寝ぼけ眼で見続ける内に目的地の駅名が車内放送に取り上げられた。
携帯電話を取り出して、『もうすぐ着きます』と登録も真新しい叔母さんのメールアドレスに送信する。電車が速度を緩めるより前に、返信が来た。『今、会いに行きます』
「………………………………………」マジなのか冗談なのか、メールって受け取り方がムズカシイネ。友好的であると善処を下して、電話を仕舞った。
大半の荷物は先に叔母さん宅へ送ったから、手荷物は底がしなびて持ち手が干からびた、水洗便所の綺麗な水みたいな臭いがする鞄一つだった。
いつの間にか隣に座っていた紫髪のオバサンに足を引っ込めてもらったので会釈しつつ、座席から通路へと出る。俺が車両の扉へ向かおうとする動きに釣られてか、通路に立っていた乗客の方々も一斉に駅へ下りる準備を始める。カッペ極まりない俺はその都会人の横をすり抜ける度に一瞥をくれてみるけど、都会マークとかシールとかで田舎との差別化を図っている様子もなく、金属アクセサリーチャラチャラのオシャレさんもいなかった。
都会的な匂いもまだ嗅ぎ分けられない。高揚感が少し萎えた。
電車が大都会のホームに滑り込む。俺の地元だった駅の六倍は、ホームに並ぶ人が溢れかえっている。若干の萎縮。聴いてる音楽をピアノ曲から男性ボーカルの金切り声に変更して、勇ましい足取りの為に足踏みで事前準備を行う。電車の自動扉が開いて、俺を先頭にして転がるようにホームへと中身どもの行列が流出し始めた。
エスカレーターじゃなくて階段を選択し、改札へと上がっていく。その途中、微かな思考。
叔母さん。これから同居人となる。どんな人だろう。実は面識なし。親類を評価する唯一の情報源と言える両親からは『大供だな。大人と子供の練り物』と聞かされていた。だから携帯電話に登録する名前は『カマボコ叔母さん』と決定したわけだが、それが何をどう全体像に結びついていくんだろう。精々、ヤクルトおばさんを連想してお終いだ。
切符を通すときに若干もたつきながらも、改札を通過する。そして、左中右の三方へ生まれる人間川の濁流に吞まれないように壁際へ逃げてから、きょろきょろ探索開始。
隣で彼氏との待ち合わせをしていると思しき茶髪女子高生よりも露骨に首を振って、待ち人を探す。二十七年前に撮影したという兄妹揃っての写真を父に持たされたが、これに頼って叔母さん探しをしていたら俺は浦島太郎になってしまう。なるなら桃太郎の方がいい。
「真くん?」
俺の名前が、探りを入れる調子ながらも呼ばれる。頭の中に、幼少期のエジソンばりに宇宙からの意思(火星中継センター経由)を送るリトルピープルがいると信じて心中で名乗っておくが、俺の名前は丹羽真だ。たんばではない、にわだ。そして『しん』じゃなく『まこと』。
右に首を傾け、声の主を確かめる。三十代って印象の、清楚っぽい女性が俺の目を真っ直ぐ覗き込んでいた。目と目だけで通じ合える間柄でもないんだから、もう少し自重して欲しい。
つい、目を逸らして顔を俯かせ、口が塞がってしまう。咄嗟に返事できない。
「真くん、だよね?」