トカゲの王I ―SDC、覚醒―

プロローグ1『トカゲと鴨のゲシュタルト』 ⑤

 そいつは不自然なほどに柔らかな微笑ほほえみを浮かべて、電話越しになにごとか話し込んでいる。視線を気にしてか一瞬、くばせするようにこちらに視線をやるもののすぐに電話の方へ意識を戻し、おれの横をすり抜けていく。

 聖人。

 そう表現することがもっとも相応ふさわしく、そして、「不快だ」


 その少年の雰囲気に、別の人物を連想していた。そう、憎々しい『神様』を。


「なに、立ち止まって。今の美少年をねたんでるの?」


 成実に顔をのぞき込まれ、それを振り切るように首を振って、足を動かす。

 そうして路地に入った直後、

 ぼたたた、と。

 降り注いだものが目の上で音を立てた。

 手のひらで軽快に額を叩くようなしようげきと音色だった。


「うあ、ひぃぃぃぃ! うひゃぁぁあいぃあぁあ!」


 雨よりもずっと質量のあるものに不意打ちで降りかかられて、大げさに悲鳴を上げながら踊るように飛び跳ねる。背中は総毛立ち、寒気がたきのように流れた。生温かいものが髪を包み、顔をおおうように垂れると一層、その寒気が強まる。

 なるも一歩引きながら、目を丸くしていた。


「なに、ペンキ?」


 薄暗い路地での出来事ゆえに、降ってきた液体の色が成実には判別できない。それがなんなのか、おれもすぐに理解できなかった。その液体がなまぐさいこともあり、大量の鳥がいつせいふんをまき散らしたかと最初は考えた。しかし鳥の糞はもう少し固体だろう、と頭のどこかでささやく。

 携帯電話で会話していた少年も、俺の遠慮ない悲鳴に足を止めて振り返る。だがそちらを意識する余裕はない。自分に降りかかったものの正体を日の下に行くことで悟ったのだ。


「これまさか、血? いやまさかっつーか、血だ! 本物か? なまぐさっ!」


 髪をぬぐったことでべっとりと手のひらに付着した、新鮮な赤色を保つ液体に恐れおののく。しかしいくら腰を引いても自分の腕と距離を離すことはできない。できるはずがない。


「ひぃぃぃぃやぁぁぁ!」

「いやあんたテンパりすぎ」

「俺もそう思う!」


 大声を張り上げながらも、指摘されたことで幾分落ち着く。心臓はいまかねを打つようにうるさいが。外聞を取りつくろうようにせきばらいした後、手のひらにべっとりと付着した血液にまゆをひそめる。だれのものとも知れない血を浴びせられて、冷静でいることは難儀だ。ごまかすように、血の出所を探し求める。

 上を見上げても、あるのはビルの影にまれた薄暗いかべだけだった。二枚の壁の間には当然、なにもない。人が浮かんでいるはずもない。澄み切った空はおれの髪を染める赤色と対極にある。さらに上を向いていると自身の汗と混じった血液が垂れてけんと鼻をくすぐった。

 おぞましく感じたそれを寒気の中、あわててぬぐい取る。と、横から真っ白な手が伸びてきた。


「どうぞ」


 先程の白い少年が隣まで引き返し、頭に巻いていたスカーフを差し出していた。

 その行いにせいれんなものを感じて、困惑とけんが入り交じる。

 躊躇ためらっていると、少年は強引にスカーフを受け取らせる。その少年の頭髪が先程よりも微妙にずれていることに気づいて目を丸くする。奥に潜む色は、黒だった。

 視線に気づいてか、少年が相好を崩す。


「あぁこれ、カツラだからね」


 少年が前髪を引っ張り、カツラを取り外す。白髪の下はげたような黒色の髪が控えていて、外した方が逆に、全体の純白さを引き立てていた。真っ白な液体に墨汁を一滴垂らすことで、境界線が生まれるように。少年はすぐにカツラを着け直して、ビルの上空を見上げる。

 無言ながら目を細めて、ビルの屋上にあるフェンスをぎようしていた。


「なんだ、なんなんだ。ビルの屋上? でなにかあったのか?」


 押しつけられたスカーフで頭をきながらぼやく。舌の根っこがふるえていた。


なまぐさい事件、ってことは殺人とか?」


 なるは深い意図のない調子でそう言ったのだろうが、こっちとしては肩が引きつるほどの発言だ。日の当たらない路地にそびえる、二つの壁。その先にあるものに、身体からだの底がおびえていた。

 血が降り注ぐなど、普通に生きていてまずあり得ない。

 自分と違う世界が、頭の上からそのへんりんのぞかせた。

 そんな想像を巡らせて、人知れずひざを震わせる。


「後は水洗いしないと落ちないみたいだね」


 少年がそう言ってスカーフを抜き取る。その鮮やかなぎわに、ふと違和感を覚える。握りしめていたはずなのに、いとも容易たやすく手から抜き取れたのは、なぜだろうか。


「洗って返そうか?」


 なぜか俺ではなく成実がたずねる。少年は手を小さく横に振った。


「結構。ああ、それと今の血については気にしない方がいいよ。せっかく『そっち』の世界にいるんだからさ」


 少年はスカーフを受け取り、訳の分からん忠告めいた台詞せりふを気取って述べてから行ってしまう。血染めのスカーフを隠すこともなく握りしめたまま、ゆうゆうと街を歩く。歩道の信号はすでに赤へ移行しつつあるが、それを無視するようにのんびり歩いていく姿は超常的な雰囲気をまとい、そのルール違反をとしてしまう。

 ……やっぱり、気に食わない。


「なんか締めの台詞せりふが普段のあんたっぽかったね」

おれをあんなのと一緒にするな。俺は本物だ」

「はいはい、本物の重症と。でも今の人、なんか見覚えあった。んー、どこで見たっけ」


 なるが少年の後頭部をえてつぶやく。俺も頭をひねってみるが、まったく記憶にない。


「学校にあんなのいたかな」

「いや学校に限定していないけど」


 中学生の見覚えはたいてい、学校内にとどまるものだ。後はテレビやネットといったメディアか。


「でもこう見ると、あんたが人を殺して返り血に染まっているみたいだね」


 成実があごに手を当てて、ものじせずに評する。発言が一々香ばしいやつだな。

 血のこびりついた髪を指でいて、そのねばつきにへきえきする。ついでに悪のりするように、目の色をに染め上げた。悪ふざけは恐怖をごまかす役目も負っていた。


「どうだ、殺人鬼っぽくなったか?」

「B級ホラーの主演っぽい。演出がくどくて逆に笑えるやつね」

「失礼なやつだな。俺の能力はそんなに安っぽくない」


 人目を避けるように、別のビルの間を走る路地に逃げ込んだ。けつこんび越えた。

 血の出所が気にならないといえば、うそになる。しかしこれだけの血を流す人間とかかわりたくない、という思いの方が強かった。危ないことからは、ちゃんと逃げる。なにも恥じることなどない。胃は縮み上がり、心臓はバクバクとわめいている。あー、いやだ嫌だ。

 それよりも家へ帰るつもりはなかったがこれでいつたん、シャワーを浴びて着替えに寄る必要が出てきたことにいらつ。足も自然、早足だった。追いかけてくる成実が待て待てうるさいが、ゆるめない。

 その路地を抜けた先の大型電器店の前で、飾られたテレビが番組を映し出している。

 画面に映るその顔に、思わず立ち止まった。

 足をからめ取られて、固定されてしまったように。

 一人の少女が大画面に浮かび上がっていた。講堂のような舞台を背景に、優雅な立ち振る舞いで演説している。舞台の下は群がるようにろうにやくなんによあふれて、少女を異様な熱狂と共に見上げている。たたえるように、尊ぶように。あるいは、すがるように。

 少女は十代後半、年相応の端整な容姿を存分に駆使するように、おだやかに微笑ほほえんでいる。

 しかし、真に目をくのは少女の顔ではなく、その背中。

 背中から生やした、『光のつばさ』だった。

 合成映像でも装飾品でもなく、純粋に、自力で生やしているつばさだ。