そいつは不自然なほどに柔らかな微笑みを浮かべて、電話越しになにごとか話し込んでいる。視線を気にしてか一瞬、目配せするようにこちらに視線をやるもののすぐに電話の方へ意識を戻し、俺の横をすり抜けていく。
聖人。
そう表現することがもっとも相応しく、そして、「不快だ」
その少年の雰囲気に、別の人物を連想していた。そう、憎々しい『神様』を。
「なに、立ち止まって。今の美少年を妬んでるの?」
成実に顔を覗き込まれ、それを振り切るように首を振って、足を動かす。
そうして路地に入った直後、
ぼたたた、と。
降り注いだものが目の上で音を立てた。
手のひらで軽快に額を叩くような衝撃と音色だった。
「うあ、ひぃぃぃぃ! うひゃぁぁあいぃあぁあ!」
雨よりもずっと質量のあるものに不意打ちで降りかかられて、大げさに悲鳴を上げながら踊るように飛び跳ねる。背中は総毛立ち、寒気が滝のように流れた。生温かいものが髪を包み、顔を覆うように垂れると一層、その寒気が強まる。
成実も一歩引きながら、目を丸くしていた。
「なに、ペンキ?」
薄暗い路地での出来事故に、降ってきた液体の色が成実には判別できない。それがなんなのか、俺もすぐに理解できなかった。その液体が生臭いこともあり、大量の鳥が一斉に糞をまき散らしたかと最初は考えた。しかし鳥の糞はもう少し固体だろう、と頭のどこかでささやく。
携帯電話で会話していた少年も、俺の遠慮ない悲鳴に足を止めて振り返る。だがそちらを意識する余裕はない。自分に降りかかったものの正体を日の下に行くことで悟ったのだ。
「これまさか、血? いやまさかっつーか、血だ! 本物か? なまぐさっ!」
髪を拭ったことでべっとりと手のひらに付着した、新鮮な赤色を保つ液体に恐れおののく。しかしいくら腰を引いても自分の腕と距離を離すことはできない。できるはずがない。
「ひぃぃぃぃやぁぁぁ!」
「いやあんたテンパりすぎ」
「俺もそう思う!」
大声を張り上げながらも、指摘されたことで幾分落ち着く。心臓は未だ鐘を打つようにうるさいが。外聞を取り繕うように咳払いした後、手のひらにべっとりと付着した血液に眉をひそめる。誰のものとも知れない血を浴びせられて、冷静でいることは難儀だ。ごまかすように、血の出所を探し求める。
上を見上げても、あるのはビルの影に吞まれた薄暗い壁だけだった。二枚の壁の間には当然、なにもない。人が浮かんでいるはずもない。澄み切った空は俺の髪を染める赤色と対極にある。更に上を向いていると自身の汗と混じった血液が垂れて眉間と鼻をくすぐった。
おぞましく感じたそれを寒気の中、慌てて拭い取る。と、横から真っ白な手が伸びてきた。
「どうぞ」
先程の白い少年が隣まで引き返し、頭に巻いていたスカーフを差し出していた。
その行いに清廉なものを感じて、困惑と嫌悪が入り交じる。
躊躇っていると、少年は強引にスカーフを受け取らせる。その少年の頭髪が先程よりも微妙にずれていることに気づいて目を丸くする。奥に潜む色は、黒だった。
視線に気づいてか、少年が相好を崩す。
「あぁこれ、カツラだからね」
少年が前髪を引っ張り、カツラを取り外す。白髪の下は焦げたような黒色の髪が控えていて、外した方が逆に、全体の純白さを引き立てていた。真っ白な液体に墨汁を一滴垂らすことで、境界線が生まれるように。少年はすぐにカツラを着け直して、ビルの上空を見上げる。
無言ながら目を細めて、ビルの屋上にあるフェンスを凝視していた。
「なんだ、なんなんだ。ビルの屋上? でなにかあったのか?」
押しつけられたスカーフで頭を拭きながらぼやく。舌の根っこが震えていた。
「血生臭い事件、ってことは殺人とか?」
成実は深い意図のない調子でそう言ったのだろうが、こっちとしては肩が引きつるほどの発言だ。日の当たらない路地にそびえる、二つの壁。その先にあるものに、身体の底が怯えていた。
血が降り注ぐなど、普通に生きていてまずあり得ない。
自分と違う世界が、頭の上からその片鱗を覗かせた。
そんな想像を巡らせて、人知れず膝を震わせる。
「後は水洗いしないと落ちないみたいだね」
少年がそう言ってスカーフを抜き取る。その鮮やかな手際に、ふと違和感を覚える。握りしめていたはずなのに、いとも容易く手から抜き取れたのは、なぜだろうか。
「洗って返そうか?」
なぜか俺ではなく成実が尋ねる。少年は手を小さく横に振った。
「結構。ああ、それと今の血については気にしない方がいいよ。せっかく『そっち』の世界にいるんだからさ」
少年はスカーフを受け取り、訳の分からん忠告めいた台詞を気取って述べてから行ってしまう。血染めのスカーフを隠すこともなく握りしめたまま、悠々と街を歩く。歩道の信号は既に赤へ移行しつつあるが、それを無視するようにのんびり歩いていく姿は超常的な雰囲気を纏い、そのルール違反を是としてしまう。
……やっぱり、気に食わない。
「なんか締めの台詞が普段のあんたっぽかったね」
「俺をあんなのと一緒にするな。俺は本物だ」
「はいはい、本物の重症と。でも今の人、なんか見覚えあった。んー、どこで見たっけ」
成実が少年の後頭部を見据えて呟く。俺も頭を捻ってみるが、まったく記憶にない。
「学校にあんなのいたかな」
「いや学校に限定していないけど」
中学生の見覚えは大抵、学校内に留まるものだ。後はテレビやネットといったメディアか。
「でもこう見ると、あんたが人を殺して返り血に染まっているみたいだね」
成実が顎に手を当てて、物怖じせずに評する。発言が一々香ばしいやつだな。
血のこびりついた髪を指で梳いて、その粘つきに辟易する。ついでに悪のりするように、目の色を真っ赤に染め上げた。悪ふざけは恐怖をごまかす役目も負っていた。
「どうだ、殺人鬼っぽくなったか?」
「B級ホラーの主演っぽい。演出がくどくて逆に笑えるやつね」
「失礼なやつだな。俺の能力はそんなに安っぽくない」
人目を避けるように、別のビルの間を走る路地に逃げ込んだ。血痕は跳び越えた。
血の出所が気にならないといえば、噓になる。しかしこれだけの血を流す人間と関わりたくない、という思いの方が強かった。危ないことからは、ちゃんと逃げる。なにも恥じることなどない。胃は縮み上がり、心臓はバクバクと喚いている。あー、嫌だ嫌だ。
それよりも家へ帰るつもりはなかったがこれで一旦、シャワーを浴びて着替えに寄る必要が出てきたことに苛立つ。足も自然、早足だった。追いかけてくる成実が待て待てうるさいが、緩めない。
その路地を抜けた先の大型電器店の前で、飾られたテレビが番組を映し出している。
画面に映るその顔に、思わず立ち止まった。
足を絡め取られて、固定されてしまったように。
一人の少女が大画面に浮かび上がっていた。講堂のような舞台を背景に、優雅な立ち振る舞いで演説している。舞台の下は群がるように老若男女で溢れて、少女を異様な熱狂と共に見上げている。たたえるように、尊ぶように。或いは、縋るように。
少女は十代後半、年相応の端整な容姿を存分に駆使するように、穏やかに微笑んでいる。
しかし、真に目を惹くのは少女の顔ではなく、その背中。
背中から生やした、『光の翼』だった。
合成映像でも装飾品でもなく、純粋に、自力で生やしている翼だ。