君のガチ恋距離にいてもいいよね? ~クラスの人気アイドルと気ままな息抜きはじめました~

第三話 昼の非常階段と親切心

 週が明けると平日が始まる。

 朝早くに登校して、HRが始まるまでは自由に過ごすものだ。

 授業の準備をする者、クラスメイトと談笑する者、机に突っ伏して少しでも寝ようとする者等々。

 そしてこの日の灯也はといえば、提出する課題の確認を済ませていたところだった。


「おはよっ」


 鈴の音のような声がかけられると同時に、ひょいっと覗き込んできたのは美少女アイドルのご尊顔。

 あまりの近さに灯也は驚きつつ、「おはよう」と挨拶を返した。

 雫は特に会話を続けるわけでもなく離れていき、他のクラスメイトたちにも元気よく挨拶をしていく。

 彼女の存在が室内の空気を明るくする中、灯也だけは異なる感想を抱いていた。


(なんか、違和感がすごいな……)


 先日、素の雫と長く会話をしたせいか、愛嬌満点なアイドルモードの雫を見ていると、妙な違和感を覚えてしまった。

 だからどうしたという話ではあるので、灯也は頭の中のモヤモヤを振り払うしかないわけだが。

 と、そこで修一が興奮ぎみに近づいてきた。


「なあなあ、灯也は今週のマガジャン買ったか?」

「買ってないけど、どうせ『六しこ』だろ?」


 週刊の少年漫画誌マガジャンで連載中の女子高生サッカー漫画『六人のなでしこ』――略称『六しこ』は、修一がお気に入りの漫画だ。アニメ化と実写映画化が決まった人気作である。

 けれど、今回のお目当ては少々違うようで、修一は今朝買ったらしいマガジャンを机に出してくる。

 その表紙には、水色のサッカーユニフォーム風Tシャツを着た姫野雫が映っていた。

 いわゆる、表紙グラビアというやつだ。


「へぇ」

「やばくね? 姫野雫とユニフォームの組み合わせとかマジ女神だろ! SNSでもだいぶバズってるし、近所のコンビニでもこれが最後の一冊だったぜ。やっぱグラビアは電子じゃなくて現物に限るよな!」

「いや、これはユニフォーム風のTシャツってだけだろ。てか本人が教室にいるのに、よくこういうのを広げるよな……」

「こういう布教も応援の一環だろ。盛り上がってるのはオレだけじゃないしな」


 ふと気づけば、クラスの何人かは所持して眺めていたし、雫のグループもグラビアの話題で盛り上がっているようだ。

 当の雫は相変わらずの笑顔で、嫌がっているようには見えなかった。


(まあ、本人が嫌がってないならいいのか)


 そう思い直した灯也は、漫画雑誌に視線を戻す。


「確かにすごいスタイルだな。特集ページのウインクも様になってるし」

「だろ~? こんな女神と同じクラスとか、オレらの青春も捨てたもんじゃないよな~!」

「お前の青春は彼女がいる時点で捨てたもんじゃないだろ……」

「それはそれ、これはこれってな!」


 調子の良いことを言って、修一は一種の熱に浮かされたような盛り上がりを見せている。

 灯也からすれば、真似のできない熱量だ。


「もうわかったから。そろそろ席に戻れよ、HRが始まるぞ」


 言ったそばから予鈴が鳴り、クラスメイトたちは自分の席に戻っていく。


「それ、放課後まで貸してやるよ。オレはもうひと通り読んだしな」

「早いな。じゃあ遠慮なく」

「おう! 六しこの感想も聞かせてくれよな!」

「ああ、わかってる」


 そう答えつつ、灯也は借りた漫画雑誌を机の中にしまった。

 少なくとも、雫本人がいる空間で堂々と読む気にはならなかったからだ。


 二限目の授業にて。

 古文の教師が欠席とのことで、急遽自習になった。

 自由な校風の藤咲高校では、自習時間ともなればスマホをいじるのも黙認される。

 代わりの教師が教卓に居座っているので、さすがにどの生徒も室内を立ち歩くことはしないが、多少の談笑だって許されるくらいには緩い環境だ。

 そしてタイミングが良いと言うべきか、灯也の手元には暇つぶしの手段もある。

 修一から借りた漫画雑誌だ。

 ちらと窓際に座る雫の方を見遣ると、熱心な様子で何かに向かい合っていた。やはり、学年トップクラスの成績優良者は、自習時間もフルで活用するのだろうか。

 それに比べて自分は、これから漫画雑誌を読もうとしている。

 しかもグラビアに載る本人と同じ空間の中で、だ。

 灯也の中には形容しがたい罪悪感が生まれるとともに、好奇心が疼き始める。

 ここで我慢するのはさすがにしんどいので、灯也は机の中から漫画雑誌を取り出した――。


 昼休み。

 漫画の感想会と称して、灯也は修一とともに学食を訪れていた。

 食事がてらにひと通りの感想を語り終えてから、まだ少し時間はあったが教室に戻ることにする。


「いや~、灯也もユニフォーム美少女の魅力をわかってくれたようで何よりだぞ、オレは」

「俺も前から言ってるだろ、美少女は目の保養になるって」

「その感想が枯れたオッサン臭いんだよな~」

「言ってろ。修一みたいに騒がしいよりかはマシだ」


 言い合いながら、二人はどこか満ち足りた気分で廊下を歩く。

 やはり少年誌のグラビアは素晴らしいものだということを再確認し、なおかつその気持ちを共有し合ったのだ。今の二人が高揚するのも無理はない。

 そのとき灯也は遠くの方、中庭の入口辺りで友人たちと別れる雫の姿を見つけた。

 結局、雫はあの二限の自習時間中に一度も集中力を切らすことなく、机に向き合っていたように思える。

 あの熱心で真剣な横顔がどうにも引っかかって、灯也は気になっていた。

 ゆえに、それを確認してみようと決める。


「悪い、ちょっと俺外すわ。先に戻っててくれ」

「ういー」


 修一に別れを告げてから、灯也は駆け足になった。

 どうしてだか雫は中庭の方へと出ていったので、その後を追う。

 中庭にはまだ何人かの生徒がいたが、雫の姿は見当たらない。

 この先にはグラウンドか、校門の方へと続く通路と駐輪場ぐらいしかないはずだ。

 あと他には、校舎と繋がっている非常階段があるくらいで――


「あ」


 そこで遠くに雫の姿を見つける。

 彼女は何やら真剣な様子でスマホに目を通しながら、非常階段をゆっくりと上がっていた。


 灯也が後を追うと、二階と三階部分を繋ぐ非常階段に雫が腰かけていた。

 こちらに気づいた雫は、にっこりとした笑顔を向けてくる。


「あれ? 瀬崎くんだ。こんなところで会うなんて奇遇だね~、一人?」


 その明るい表情も声色も、みんなに愛されるアイドル・姫野雫そのものだった。

 灯也は追ってきた理由をどう説明するか悩みつつ、深呼吸をしてから答える。


「一人だよ。奇遇というか、姫野の姿を見つけて追いかけてきたんだ」


 灯也がそう答えた途端、雫の顔から一瞬にして活気が失せる。


「――なんだ、そういうことなら早く言ってよ。顔作っちゃったじゃん」


 愛想も何もあったものじゃない、素顔のサバサバ女子に様変わりである。


「ほんとにいつ見ても惚れ惚れするくらいの二面相だな……」

「それ褒めてる?」

「褒めてる褒めてる」

「ならいいけど。――で、何か用?」


 雫は手にしたスマホに視線を戻しつつ、淡々と用件を尋ねてくる。

 やはり何か取り込み中だったのかと思い、灯也は申し訳ない気持ちになった。


「用というか、ちょっと気になっただけだ。邪魔をしたなら悪かったよ」

「ううん、平気。漫画読んでるだけだし」

「漫画?」


 灯也の問いに答えるように、雫はスマホの画面を向けてくる。

 そこには『六人のなでしこ』の原作三巻の内容が映っていた。


「って、『六しこ』じゃないか。そういえば、姫野はマガジャンのグラビアをやっていたな」

「うん。私、これの映画に出るからね」

「えっ、マジか?」

「マジだよ。アイドルってある意味ではマルチタレントだから」


 昨今のエンタメ業界は境目が曖昧になっていると聞くし、アイドルは以前にも増してマルチタレント化しているのかもしれない。

 雫からすればそれは喜ばしいことなのか、少々上機嫌なのが伝わってきた。


「すごいな、誰役だ? って、こういうのを聞いてもいいのかわからないけど」

「メインじゃないよ、怪我で引退しちゃった伝説のサッカープレイヤー役。いわゆるキーキャラクターかな。……というかこれ、公式で発表済みの情報なんだけど?」

「知らなかったよ。キーキャラクターって時点で十分すごいと思うぞ」

「ふーん」


 言いながら、雫がスマホから目を離すことはない。

 その仕草を見ていて、灯也はあることを思い出した。


「もしかして、今日の自習時間に読んでいたのもそれか?」

「うん。学校に台本を持ってくるわけにもいかないから、代わりにね。勉強熱心でしょ」

「だったらやっぱり邪魔をしたな。本当に何をしているのか気になっただけだし、俺はもう戻るよ」

「待って」


 意外なことに呼び止められたので振り返ると、雫が真っ直ぐに見つめてきて言う。


「瀬崎くんはさ、何か部活とかやってる?」

「やってない。去年はバスケ部に入ってたけど」

「バスケかー。結構ガチめだった?」

「まあ、そうだな。インターハイ――いわゆる全国大会を狙っているくらいにはガチだったと思う」

「へー。やめた理由とか聞いてもいい?」

「……そんなことを聞いてどうするんだ?」


 躊躇する灯也に対し、雫はきょとんとした顔で続ける。


「ちょっと参考にしたくて、映画のために。私って部活とかやったことないから、なんとなくでしか想像できないんだよね」

「なるほど、そういうことか。だったらなんでも答えるよ」

「ありがと」

「で、部活をやめた理由だったか」

「うん」


 灯也は踊り場の壁に寄りかかりながら思案し、伝えるべき情報をかいつまんで口にする。


「俺が部活をやめたのは、部員や顧問と方向性が合わなかったから……かな」

「意外」

「そうか? 運動部あるあるというか、退部する理由としてはよくある方だろ」

「じゃなくて、瀬崎くんが他人と合わないって判断をするのが、意外って意味でさ」


 雫は淡々と言うものだから、その言葉が本心なのかどうかがわかりづらい。ただ、灯也としては『なんでも答える』と言った以上、なるべく包み隠さず説明するしかないわけで。


「姫野にとっての俺がどんな印象かはわからないけど、やるなら本気で全国を目指したかったしな、俺も」

「話し合ったりはしたの?」

「もちろん」

「でも折り合いは付かなかったんだ」

「ああ。顧問は根っからの旧来気質で、部員たちは平和主義。説得しようにも俺は新入生だったし、現状維持が一番だって考えている人たちに、変化を促すのは難しかったよ。目指しているところは、同じはずだったんだけどな」


 灯也は語っているうちに、自然と空を仰いでいた。

 届かないものに手を伸ばすような、漠然とした無力感を思い出しながら。

 すると、雫は小さく頷いてから言う。


「それはちょっとわかるかも。そういう人たちを動かすためには、結局のところ『結果』で示すしかないんだよね。むしろそこからがスタートラインっていうか」


 雫の淡々とした口調は相変わらずだが、こちらの意見をしっかりと受け止めた上での言葉なのは、痛いくらいに伝わってきた。

 ここで灯也が心苦しく感じたのは、『結果』の部分だ。

 周囲が平和主義だろうが旧来気質だろうが、灯也が入ったばかりの新入生だろうが、実力で結果を示すことができていたら、何かが変わったのかもしれない。

 でも、灯也はそれを実行に移すことができなかった。

 灯也はバスケットボールを小学生の頃から続けてきて、中学時代は都の選抜選手にも抜擢されるほどの実力者だった。けれど、それでも新しい環境をいきなり変えられるほどの才能は備わっていなかった――と、少なくとも灯也自身は考えていた。

 ゆえに、今は思うのだ。一番の問題は自分自身だったのだと。

 部活をやめてからの灯也は、基本的に現状維持をする、事なかれ主義の日々を送っている。

 元が熱心な部活人間だったので、今は他人から見れば冷めている、あるいは努力を諦めたように見えても仕方のない状態だ。現に灯也は、自分を含めて誰にも期待しなくなっていた。

 ……なので今日、こうして雫を見かけて気になったからと、会うために行動を起こしたことは、灯也自身も驚いていた。

 目の前の雫は意図を汲み取ってくれるとはいえ、灯也とは立場も在り方も異なる存在だ。

 ジャンルは違えど、世間的に見れば彼女は勝者であり、それだけの才覚が備わっていることになる。もしかすると自分にはない、そのカリスマ性に惹かれたのかもしれない。

 などと自己分析をした灯也は、改めて彼女が遠い存在だと実感した気がしていた。


「……悪い、なんか愚痴みたいになって」

「ううん、参考になったよ。それに、瀬崎くんのこともちょっと知れたし」

「俺のことを知って、何か意味があるのか?」

「あるよ。私は知りたかったから」


 淡々と言い切った雫を前にして、灯也は妙な充足感を味わっていた。

 その『知りたい』という欲求がどんな感情から来るものなのか、灯也には想像もつかない。

 でも雫からすれば、灯也は興味を持つべき対象と判断していることがわかったからだ。


「なんだそれ。姫野って変わった奴だな」


 つい照れ隠しで灯也が言うと、雫もはにかむように微笑んでみせる。


「その言葉、そっくりそのまま返すよ」


 ……と、そこで予鈴が鳴った。雫はすっと立ち上がり、灯也も壁から離れる。


「そういえば、姫野の演技って見たことないな」

「見る? 初出演の映画なら、予告映像にちょっと出てるけど」

「え、ああ」


 雫はスマホをいじりながら階段を下りてくると、灯也の隣に並んで画面を見せてきた。

 画面には『あまえんぼの恋』という映画タイトルの予告映像が流れていて――


『――よ~し、ここは親友である私が相談に乗ってあげよう!』


 女優・姫野雫が能天気な友人キャラとして出演していた。

 これはなんというか、感想に困るレベルである。


「……なんか、普段とノリがあまり変わらないな」

「でしょ。あくまで本業はアイドルだから、イメージを崩さない配役を――っていうのが、うちの事務所の方針でね。この分だと、当面メインキャストとかは演じられないと思う」


 雫は雫なりに、苦労しているというわけだ。

 この言い方だと、やはり女優業の方に力を入れたいのかもしれない。


「でもこの映画って去年のやつだろ。一年あれば方針とかも変わったりしないのか?」

「どうだろ。今回の映画だってオファーはメインで来たけど、事務所側が『熱血スポーツ描写は合わない』って判断をしたからサブポジションになったわけだし、変わらない気がするな」

「へぇ。ちなみにオファーって、どの役で来たんだ?」

「後輩のサユだよ。――『先輩のためにぃ、サユがスポドリ作っときました~♪』って感じの小悪魔キャラ」

「おぉ……」


 後輩キャラのサユなら灯也も知っている。あざとい小悪魔タイプで読者からも一定の人気があり、今の雫の即興演技を見た限りだと、演じられれば話題になるかもしれない。


「ま、文句を言っても仕方がないけどね。ほら、本鈴が鳴る前に行こ」

「ああ」


 階段を軽快に下りていく雫に続いて、灯也も駆け足になる。


「やっぱり姫野は、素の口調の方が落ち着くな」


 灯也はその背を見ながら、ふと思ったことを口にしていた。

 すると、雫が不満そうにジト目を向けてくる。


「それ、遠回しにディスってる?」

「ないない。気に障ったなら謝るよ」

「ディスってないならいい。私も嫌な気分はしないし」


 そうして無人の中庭を通り過ぎ、校舎内に戻る。

 ここからは別々で行こうとしたのだが、


「べつに後ろめたいことはないし、一緒に教室まで行けばいいよ。――ねっ、瀬崎くん?」


 再びアイドルスマイルを向けられて、灯也は苦笑しつつも頷く。

 急いで戻ったおかげで、二人とも本鈴が鳴る前に教室へ着くことができたのだった。


   ◇


「日直、片付けは頼んだぞー。先生はこれから職員会議があってな」


 この日は四限が化学の授業で、終了のチャイムが鳴るなり、担当の女性教師がそう言い残して化学室を後にする。


「灯也どんまいっ」


 修一が腹立つニヤケ面で肩を叩いてきた通り、今日の日直は灯也だった。


「ツイてねえ。どうせ暇なんだし、修一も手伝って――」

「悪い、オレは彼女とイチャラブ通話会議の予定があるからパスだ!」

「薄情者め……」


 げんなりする灯也に構わず、修一は我先にと化学室を出ていく。

 ただでさえ、昼休み前の化学実験でテンションがだだ下がりしていたというのに、その上で器材の片付けまで頼まれるとは。本当にツイてないとしか言いようがない状況である。

 続々とクラスメイトたちは去っていき、遠目に雫たち女子集団が出ていくのを見送った後、灯也は1人きりになったところで、ようやく重い腰を上げた。


「さて、やりますか」


 先ほどの実験で使用したビーカー入りのラックを、隣の準備室に移動するべく持ち上げる。

 まず一つを準備室に運び入れた辺りで、パタパタと近づいてくる足音が聞こえた。

 これは化学の担当教師が忘れ物でもしたのかと思ったが、


「やっほー、忙しそうだね」


 入り口からひょこっと顔を覗かせたのは、まさかの雫だった。

 意外な人物に驚きはしたものの、灯也は作業を進めつつ口を開く。


「ほんとにツイてないよな。そっちは忘れ物か?」

「ま、そんなとこ。――あったあった」


 雫が黒塗りの机の引き出し部分からノートを取り出して、わざわざ見せつけてくる。

 今は灯也と二人きりだからか、口調や態度は素のサバサバした状態だった。


「ノートだけ忘れたのか」

「まあね。でもついでだし、私も手伝ってあげよう」

「マジか」

「マジマジ」


 雫は言いながら、ビーカー入りのラックを重そうに持ち上げる。


「うっ、これ重っ。どう考えてもうちのクラスのぶんだけじゃないでしょ、この量」

「……もしかして、手伝うためにわざわざノートを置き忘れたのか?」

「考えすぎじゃない? ――わっとっと」


 灯也はふらついた雫に駆け寄り、ラックを一緒に支える。

 思いのほか距離が近くなったので、灯也は視線を逸らした。


「危ないな。気を付けろよ」

「ん、ごめん」


 二人でそのラックを運んだ後、灯也は教卓に山積みされたノートを指差して言う。


「姫野はそっちを運んでくれ。ラックは俺がやるから」

「ほーい」

「あとその、なんだ、ありがとな」


 灯也が照れぎみに礼を言うと、雫がすれ違いざまに脇腹を小突いてくる。


「ふふ、言うのが遅いって。あと照れすぎ」

「しょうがないだろ、まさか手伝いが来てくれるとは思わなかったんだから」

「瀬崎くんは人望ないなー」

「人気者の姫野と比べれば、そりゃあな」

「そういうレベルじゃないと思うけど」

「おっしゃる通りで……」

「あはは、認めんの早いな~」


 素の雫はやはりというか、物理的にも精神的にも距離感が近い気がする。

 それが灯也としてはこそばゆくて、妙に居心地が良いのが不思議だった。


 片付け作業は二人でやったからか十分もしないうちに終わり、最後のラックを灯也が準備室に移し終えて戻ると、雫が椅子に座ってスマホをいじっていた。


「おつかれ。戻らないのか?」

「うん、もうちょっと」

「今さらだけど、クラスの奴らは飯も食わずに姫野のことを待っていそうだよな」

「先に食べてて、って戻るときに言ったから平気だよ」


 未だに雫はスマホをいじっているが、べつにクラスメイトの女子たちと連絡を取り合っているわけではないらしい。


「でも心配はしているだろうな。ノートを取りに戻ったにしては時間がかかっているって」

「それも後でフォローするから平気。『化学室に戻ったら、日直の片づけが一人で大変そうだったから手伝ってたの~♪』って言うつもりだし」

「なんかそれって、変な勘繰りをされそうじゃないか?」

「ないない。どうせ『さすがは雫ちゃん!』って好感度が爆上がりするだけだって」

「そういうもんか」


 聞けば聞くほど、雫が計画的にノートを忘れただけのように思えてならない。

 なんだか雫の術中にハマッたような気がして、灯也は少しだけ悔しくなった。


「ていうか、瀬崎くんって意外とその辺も気にするよね」

「その辺って?」

「クラスの人間関係みたいなの」


 雫は視線をスマホの画面に向けたまま、隣に座るよう机をぽんぽんと叩いてみせた。

 促されるまま、灯也は隣に腰かけてから口を開く。


「部活をやってたときのボジションが司令塔でさ。だからか癖で他人のことを気にしちゃうんだよ。変に空気を読むというか、人間観察とか普通にやるし」

「私の経験上だと、人間観察をする人ほど、人間に興味がなかったりするんだよね」

「あー、心当たりがあるかもな。無難に過ごしたいがゆえに、問題が起こらないよう周りを気にしている側面はある」

「でしょ。私もやるからわかるんだ」


 さらっと同調されたことで、灯也はきょとんとしてしまった。


「意外だった?」

「姫野は距離感とか近いし、実はあんまり物事を考えてないんじゃないかと思っていたよ」

「アイドルのときはほら、あえて距離感を近くしてるから」

「いや、素のときも近いだろ」

「へ?」


 そこでようやく、雫が顔を向けてくる。

 驚いたように目を丸くする雫を見て、灯也の方まで困惑してしまう。


「俺、何かおかしなことを言ったか?」

「いやいや、素は近くないでしょ」

「いやいやいや、十分すぎるほど近いって。今だってほら」


 雫は必死になっていたからか、詰め寄るように間近まで迫っていた。

 互いの距離は目と鼻の先で、ハッとした雫は勢いよく立ち上がってから伸びをする。


「ん~、今日はお昼が美味しく食べられそうだな~」

「ごまかすの下手かよ」

「うっさいな。自分でも混乱してるんだからちょっと整理させてよ」


 言われた通りに灯也が黙っていると、整理し終えたらしい雫がため息をついた。


「なるほど。どうやら私は瀬崎くんといると、気が抜けがちになるみたい」

「ほう」

「つまり瀬崎くんは、岩盤浴みたいな人ってことだね」

「なんだそれ、全然嬉しくないんだが……」

「もしくは懐に入るのが上手いのか。――とにかく、リラックス効果があるってことだよ。良い個性じゃん」

「そんなの初めて言われたぞ……。まあ、悪口じゃないなら素直に受け取っておくか」

「うん、悪口ではないから。それは間違いない」


 淡々と言いながら歩き出した雫に続いて、灯也も席を立つ。

 と、雫は何やら思い出したように振り返って言う。


「あーそれと、前に話した映画の件だけど」

「おう?」

「あれの撮影で、近いうちに学校休むから。どうしても土日の撮影は無理みたいでね。力を貸してくれた瀬崎くんにはひと足先に報告しとく」

「律儀にどうも。無理しない程度に頑張ってくれ」

「うん、さんきゅ」


 灯也的に非常階段では雑談をしたくらいで、力を貸したと言われるほどのことはしていないつもりだが、相手がそう受け取ったのなら否定する必要もないだろう。

 けれど同時に、『今日の手伝いはそのお礼も兼ねてだったのでは?』と思い至って、灯也は改めて彼女が律儀な人なのだと認識した。