君のガチ恋距離にいてもいいよね? ~クラスの人気アイドルと気ままな息抜きはじめました~

第二話 再びの交流

 日々は穏やかに、それこそ何事もなく過ぎていく。

 それは灯也と雫の関係も同じだ。

 顔を合わせれば挨拶ぐらいはするし、特に変わったこともない。

 たとえば昼休み。

 修一とともに学食から戻る最中の渡り廊下で、向こうから歩いてくる雫たちの集団と出くわすことがあった。

 雫は数人の派手めな女子生徒に囲まれ、いつも通りの笑顔を振りまいている。

 その手には緑色のスムージーが入ったプラスチック容器が握られており、雫が持つだけでオシャレアイテムに見えるのが不思議だった。


(普段から健康にも気を遣ってるんだな。プロ意識が高いというか、ストイックというか)


 そんなことを思いながら、灯也は雫たちとすれ違う。

 と、その間際、こちらに気づいた雫が小さく手を振ってきた。

 それは周囲の者たちにも当然気づかれていたが、灯也も反射的に手を振り返す。


「え、雫ちゃん誰今の?」

「同じクラスの人だよ~」

「へぇ~、誰かわかんないや」


 談笑しながら雫たちは離れていき、灯也は姿が見えなくなったところで大きく息をつく。


「……同級生相手に、俺はなにを緊張してるんだか」


 関係が同じというのは、厳密には違った。

 灯也は自販機の前で雫と会話をして以来、彼女のことを微妙に気まずい相手だと意識するようになっていたのだ。


「つーかお前、完全にオレの存在を忘れてるだろ」

「悪い修一、それどころじゃなくて」

「この野郎っ」


 修一とじゃれ合っている間にも、雫のことが頭をよぎる。

 あの笑顔の裏にある、素顔の部分を知ってしまったからかもしれない。

 近いうちに何かがあるんじゃないか、と。

 灯也は嫌な予感を覚えずにはいられなかった。


   ◇


 そんなこんなで数日が経ち。

 週末に入ったことで、灯也は昼間からバイトをしていた。

 やはり休日のカラオケは混み具合が尋常じゃない。すぐに満室になり、フード対応や機器トラブルの対応などで駆け回る羽目になった。

 そうして客対応に追われること数時間。

 客足もようやく落ち着いてきた頃、雫が来店してきた。

 今日はゆったりとした丈の白いパーカーにグレーのジャケットを重ね、黒いプリーツスカートを合わせたシックなコーディネートだ。

 頭にはいつものキャップ帽を被り、眼鏡はしていないが、黒い布マスクを着用していた。


「ご来店ありがとうございます。こちらの用紙にご記入ください」


 雫は慣れた様子で『柏井』と記入してから、ちらと視線を向けてきて言う。


「これ、マネージャーの名前なんだ。身バレすると面倒な職業だし、たとえ店員相手でも私がこの店を利用してるって気づかれるのは避けたいから、できれば見逃してほしい」

「当店には、非会員の方に本人確認をする決まりはございませんので」

「そっか。ここ使いやすくて気に入ってるから、場所を変えなくて済むのは助かる」


 これで一段落かと思いきや、雫の目つきが鋭くなった。


「……でも本心では、どのツラ下げて来たんだ、って思ってるんじゃないの?」


 声のトーンは低く、強い警戒心を感じさせる。

 そのせいか、こちらが責められているような気分になる声色だった。


「思ってないけど、どうしてそんなことを?」

「だって、聞いたんでしょ? 私が叫んでいるところ」

「気づいてたのか」

「あのとき瀬崎くんは扉を閉め直していたから、あとになって考えてみたら聞かれたのかもと思って。――でも、やっぱり聞かれてたか」


 どうやら、またしてもカマをかけられたらしい。とはいえ、雫側からすればそうするのも無理はない気がした。

 ヒリつく空気の中、灯也は常套手段に頼ることを決める。


「ワンドリンク制なので、こちらのメニューからお選びください」

「ホワイトウォーターで。――てか、普通に流すんだ?」

「お客様には、なるべく快適な環境でお楽しみいただきたいと思っておりますので」


 灯也なりの営業スマイルを浮かべてみたのだが、雫はジト目を向けてきて言う。


「っていうのは、建前で?」

「本音は気まずいから無難にやり過ごしたいだけだ。俺の処世術みたいなものだよ」

「ぷっ、あははっ。素直すぎ」


 マスク越しでも、雫が笑っているのがわかった。

 その無邪気な笑顔は、普段から学校などで見せる笑顔とは違うものに思える。

 ともかく、おかげで重い空気はどこかへ吹き飛んでいた。今は警戒心だってほとんど感じられない。


「もういいだろ、そろそろ他のお客さんも来るかもしれないし」

「でもピークタイムは過ぎてるよね?」

「それでもバイト中だから。お給料を貰っている以上は、真面目に働かないとな」

「うっ、その言葉は今の私に刺さる……」


 ちらと雫が横目に見たのは、ロビーに取り付けられた巨大モニター。

 ちょうどそこには、笑顔を振りまくアイドル・姫野雫のライブ映像が流れていた。

 アイドルだって仕事である以上、賃金をいただいている立場に変わりはない。ゆえに思うことがあったのか、雫はげんなりした顔つきでトボトボと離れていく。


「お客様ー、個室のプレートをお忘れですよー」


 灯也がその背に声をかけると、雫はため息交じりに戻ってくる。


「店員さんの心ない一言のせいで、快適に歌える気がしません」

「それと扉の建て付けが悪いので、開閉時はしっかり閉まっていることをご確認ください」

「うわ、うざー」


 雫はわざわざマスクに指をかけてめくると、不満そうにあっかんべーをして去っていく。


「案外子供っぽいところもあるんだな」

「聞こえてるから」

「う、失礼」


 なかなかの地獄耳らしい。姿が見えているうちは下手なことを言えないなと灯也は思った。

 雫が個室から出てきたのは、それから一時間ほどが経過してからだった。

 彼女が短時間の利用で済ませることは珍しくない。このときも灯也が受付を担当していたので、普通に会計を済ませていたのだが。


「あのさ、バイトっていつ終わるの?」


 来たときよりも些か落ち着いた様子で、雫が淡々と尋ねてくる。

 ゆえに灯也もなんとなしに、「あと一時間くらいかな」と答えた。


「じゃ、そこのカフェで待ってるから、終わったら来て」

「え、なんでだよ?」

「いいから。それじゃ、残りもがんばってね」


 ひらひらと手を振って、雫は店を後にする。

 灯也は呆然としながらその背を見送って、しばらく放心してしまった。


「えぇ、なんだ今のは……?」


 急に呼び出し的なことをされて、灯也は動揺を隠せないでいる。

 それからの勤務で集中力を欠いてしまったのは、言うまでもなかった。


 すっかり日が暮れた頃、灯也はバイトを終えて店を出る。

 言われた通りに近くの喫茶店に入ると、奥の方のカウンター席に雫の姿があった。

 雫はマスクを着用しており、遠目からだと人気アイドル・姫野雫と同一人物には見えない。


「よう。来たぞ」


 ひとまず声をかけると、スマホをいじっていた雫が顔だけ向けてきた。


「おつかれ。座れば?」


 さらっと言われた通り、隣は空いている。

 座るよう促してきたということは、ここに長居するつもりなのだろうか。


「いや、俺はなにも頼んでないし」

「私が奢るから、好きなものを頼んできていいよ」

「マジか」

「うん」


 女子に奢られるのは少々抵抗があったものの、相手は人気アイドル。時折カラオケでバイトをしているだけの一般的な男子高校生よりかはよっぽどお金持ちに違いない。

 というわけで、灯也は素直に奢られることにした。

 灯也はレジでブレンドコーヒーを受け取ってから席に戻ると、マスクを取った雫が退屈そうに頬杖をついていた。


「待たせたな」

「え、それだけ?」

「ああ。三百五十円だったぞ」

「奢り甲斐ないなー」

「そんな文句を言われるとは思わなかったよ」


 言いながら座り、灯也は温かいコーヒーに口を付ける。


「ふぅ」

「ま、いいけど」


 雫は財布の中にちょうど払える小銭がなかったらしく、五百円玉を手渡してきた。

 なので灯也は百五十円を返す。


「よく細かいって言われない?」

「言われる。あと律儀だとも」

「あー、自覚はしてるんだ」


 再び灯也はコーヒーに口を付ける。

 出来立てなのでそれなりに熱く、灯也はちびちびと飲んでいく。

 雫の方はアイスカフェオレを頼んでいたようだが、グラスにはわずかばかりの氷しか残っていなかった。

 だからか雫からの視線を感じながらも、灯也はひとまずカップの中身を空にするつもりで飲み進めていく。


「ねぇ、もしかして緊張してる?」

「……ああ」

「へー、意外」

「俺をなんだと思ってるんだよ。そりゃあ、同級生の女子にいきなり呼び出されたら緊張もするって」


 ここは素直に答えたつもりだが、なぜだか雫はきょとんとしていた。

 不思議に思った灯也は「何か変なことを言ったか?」と尋ねると、雫は首を左右に振る。


「そういえば、そうだったね」

「何が?」

「瀬崎くんは、私のファンじゃないってこと」

「…………」


 アイドル本人に対して、ファンじゃないと明言するのはさすがに抵抗があったので、灯也は再びコーヒーに口を付けてやり過ごそうとする。

 けれど、いつまで経っても雫が続きの言葉を発しないので、灯也は観念して口を開いた。


「まあ、その通りだな」

「というか、そもそも私に興味ないでしょ?」

「……いや、有名人だしすごいとは思ってるぞ? ネットじゃ女神とか呼ばれているんだろ」

「変に気とか遣わなくていいから。見てれば大体わかるし」

「なら、おっしゃる通りです」


 なかなか言いづらいことを伝えたので、どうなることかと思ったが、


「うん、私もまだまだってことだよね」


 雫は落胆した風でもなく、あっさりと言った。

 てっきり不機嫌にでもなられるかと思ったが、そうでもないらしい。


「謙虚なんだな」

「まあね」

「全人類が自分のファンじゃないと気が済まない人とかだったら、どうしようかと思ったぞ」

「そういうことは面と向かって言えるんだ」

「なんとなく、空気感でな。さっき気を遣うなって言われたし、姫野は思ったよりも話しやすい相手なのかと考えを改めたんだ」


 灯也がありのままに思ったことを言うと、雫はどことなく嬉しそうに微笑んだ。


「その割に、前からちょいちょい失礼なことは言われていた気がするけど」

「そこは俺の悪癖だな。チャームポイントとも言うが」

「今のはちょっと痛いかも」

「そっちは結構グサッとくることを言うよな……。あと、チャームポイントっていうのはさすがに冗談だ」

「瀬崎くんの冗談わかりづら~」


 軽口を叩くようなやりとりを交わしたおかげで、幾分か話しやすくなってきた。

 それゆえに、灯也は思い切って口を開く。


「で、そろそろ呼び出された理由を聞いてもいいか?」


 灯也の中での大方の予想は昨夜の件についてで、あとは微かな可能性として、色恋関連の話という線もあるにはあったわけだが、


「ん? ……あー、収録までまだ時間があってさ、瀬崎くんもバイト終わるみたいだし、ちょっと話し相手になってもらおうと思って」

「な、なるほど……」


 ドキドキしたぶん損をした気分である。

 いや、よく考えればアイドルに色恋沙汰はご法度だったと気づかされる。それにそもそも、灯也と雫はちゃんと関わるようになってから、まだあまり時間も経っていないわけで。


「なんか落ち込んでる?」

「いや、べつに」


 落胆の気持ちが顔に出ていたのだろうか。とはいえ、恥ずかしいので期待していたことは口に出せないが。

 そんな灯也を見たからか、雫は補足をするように言う。


「んー、あとはそうだな、二人でちゃんと話してみたかったのはあるかも」

「あんまりそういうのは、男に言わない方がいいと思うぞ。普通に勘違いされるから」

「え、それって恋愛的にってことだよね? 私はアイドルだし、普通は勘違いしないって」

「そうなのか?」

「そうだよ。瀬崎くんってほんと、私のことを普通の女子だとしか思ってないんだね」


 呆れているのかわからないが、雫は妙に優しい笑みを浮かべてみせる。

 表情からして怒っていないことだけはわかるが、軽率な発言だったかもしれない。


「なんかすまん」

「謝る必要ないって。私的に、瀬崎くんは面白い人だなって思ってるし」

「お、おう? 喜んでいいのか微妙な評価だな」

「喜びなよ。個性は大事にしないと」


 雫はやたらと愉快そうに、グーサインを向けてくる。なんだかその言い方からは珍獣を愛でるようなニュアンスを感じなくもないが、灯也はこれ以上の追及を諦めた。


 それからしばらくは、他愛のない話をした。

 互いに学校での交友関係だとか、好きな飲み物の話だとか。

 雫からは「事務所のHPにだいたいのことは載ってるよ」と言われたが、本人を目の前にして調べる気にはなれず、灯也は家に帰ってから見るとだけ答えた。

 体感では数分だったが、実際には一時間近く話し続けた頃。


「ちなみに収録って、何時からなんだ?」


 灯也はふと思い出して尋ねていた。


「二十時半から。まだちょっとだけ話せるね」

「結構遅いんだな。帰りとか平気なのか?」

「マネージャーに車で送ってもらうから平気だよ。――というか、さっきから質問の内容がお母さんみたいでウケる」

「面白味がなくて悪かったな」

「あはは、すねるなよー」


 雫から肘で脇腹を小突かれて、灯也はこそばゆい気持ちになる。

 素の雫は口調などがサバサバしているぶん、スキンシップなんかも自然にしてくる。雰囲気に隙があるというか、これでは余計に普通の女子と変わらない気がしてくるから困りものだ。


(いや、そもそも特別扱いしてほしいわけじゃないのか?)


 などと灯也が思っていると、


「瀬崎くんはさー、全然聞いてこないんだね」


 ふと、思い立ったように雫が口にした。

 この言い方だと、カラオケで叫んでいた件についてだろうか。


「それなりには気になってるけど、俺が聞いても仕方のないことだろうしな」

「へー、そういう感じなんだ」


 驚いた風に雫は言うが、灯也からすれば大したことは言っていないつもりだ。


「誰にだって、上手くいかないことの一つや二つはあるかなって思うし」

「達観してるな~」

「ガキっぽいだろ? でもまあ、実際にガキなんだから許してくれ」

「むしろオジサンっぽいかも?」

「その言い方は地味に傷付くな……」

「あー、ごめん。正直に言い過ぎた」


 全然悪びれる様子のない雫に対し、灯也は苦笑することしかできなかったが、雫が楽しそうなので悪い気はしなかった。


「でもまあ、そっちが話したいなら聞くぞ。これでも愚痴の受け止め方はそれなりに慣れているつもりだ」

「言い方ウケる。ていうか、聞き流し方の間違いじゃない?」

「そうとも言うか」

「そっちも正直すぎ~」


 雫は空のグラスの中に残った氷をストローでかき混ぜながら、ため息交じりに言う。


「大したことはないから、心配しないでいいよ。瀬崎くんの言う通り、ちょっと上手くいかないことに腹が立っていただけ」

「そうか」

「うん、そう。本当にそれだけ。――あ、カラオケには叫びに行ってるとかそういうこともないから。ああいうのは本当に、たまにやるだけ」


 灯也は内心で『あれが初めてだったわけじゃないのか……』とも思ったが、ひとまず口には出さないでおくことにした。


「ま、ちゃんと扉さえ閉めてくれれば、俺は何も言わないさ」

「おー、カラオケ店員の鑑じゃん」

「なんだろう、全然褒められている気がしないんだが」

「褒めてる褒めてる。今どき珍しいよ、お客様は神様の精神を体現してる人って」

「そういうわけでもないんだけどな」


 おそらく雫は、灯也が『そういうわけでもない』ことを理解した上で言っているのだろう。つまり軽口の一環というわけだ。

 今まで同級生の女子とこんな風に話せる機会はあまりなかったわけで、灯也は一種の充実感を覚えていた。

 だからスマホを確認した雫が、荷物をまとめながら席を立ったときには物寂しい気持ちになってしまう。

 もうこれでこんな時間は終わりを迎えるのだと、実感させられた気分だった。

 けれど、これから仕事だという相手を引き留める気にもならず、灯也も続いて席を立つ。


「もう時間か」

「うん、そろそろ向かわないと」

「んじゃ、出ますか」

「だね」


 二人して店を出てから、駅の方へと向かう。


「~♪」


 並んで夜道を歩く中、雫が鼻歌を始めた。

 ……これは、少し前に流行った男性シンガーのバラード曲だろう。

 特有の低音は女性からすればなかなか出しづらいはずだが、雫の場合は難なく歌えている。


「上手いな」

「これでも歌手ですから」

「アイドルって歌手に含まれるのか?」

「失礼な。というか、私がアイドルだってこと覚えてたんだね?」


 何を当然のことを、と灯也は思いつつ答える。


「そりゃあ有名だしな。さすがにそこまで世間知らずってわけでもないぞ」

「じゃあやっぱり、瀬崎くんは物の捉え方が違うのかな?」

「え?」

「ううん、変なこと言った。忘れて」


 駅が見えてきたところで、灯也はふと気づいたことを口にする。


「姫野、マスクはしなくていいのか?」

「あ、忘れてた。いけないいけない」


 雫はすぐさまマスクをした後、こちらを横目に見てくる。


「瀬崎くんって、見てないようで意外と見てるよね」

「かもな。一般的な処世術の心得くらいはあるつもりだし」


 そこで雫はマスクを顎下にずらしてみせ、


「ふふ、ありがとね」


 心底嬉しそうに微笑んだ。

 その微笑みは、街の明かりに照らされたせいかやけに眩しく見えて。

 お礼はマスクの未装着を気づかせたことに対してか、それとも他の何かに対してなのかはよくわからなかったが、ちょうど駅に着いたこともあって確認はしなかった。

 でも灯也にとって、とても印象的な微笑みだったのは間違いない。

 雫はマスクを付け直してから、くるりとこちらに向き直ってくる。


「瀬崎くんは電車じゃないんだっけ?」

「ああ。家は徒歩圏内だ」

「じゃ、ここでバイバイだね。私はこれから仕事だ」

「おう、いってらっしゃい」

「――ッ。……いってきます」


 なぜだか雫は照れくさそうに視線を逸らしてから、小さく手を振って去っていく。

 その背を見送りながら、マスク越しでも意外と表情はわかるものだな、と灯也はズレた感想を抱いていた。