君のガチ恋距離にいてもいいよね? ~クラスの人気アイドルと気ままな息抜きはじめました~
第九話 有名人がいる日常
「瀬崎くん♪」
「おわっ!?」
授業合間の休み時間、トイレから出てきた灯也に声をかけてきたのは雫だった。
これは待ち伏せというやつだろう。一体何事か、灯也はさっと身構える。
「そんなに警戒しなくてもいいのに。ちょ~っとお話ししたいことがあるだけなんだから」
「……話すのはいいけど、場所とタイミングを考えてほしいんだが」
「ふふふ~♪」
「嫌な予感しかしない……」
というわけで、二人は場所を移す。
人に聞かれても問題ない内容なのか、渡り廊下で立ち話をすることに。
「実はね、今度の家庭科でやる調理実習を一緒にできないかなと思って」
雫は校内での普段通り――アイドル状態の口調で話を続けるようだ。
「一緒の班になろうってことか。でもなんで俺と?」
「質問なんだけど、瀬崎くんって料理できる?」
「質問に質問で返すなよ……。一応、人並みにはできるけどさ」
「やった~! じゃあ決まりねっ」
「いやいやいや、この庶民がご高名のあるアイドル様と一緒の班なんて恐れ多いですよ」
理由がわからないと受け入れる気のない灯也に対し、雫は笑顔のまま眉根をひくつかせる。
「どうしても、理由を話さなきゃダメ?」
「ああ」
「んー、わかった。じゃあ、ちょっと耳を貸して」
言われた通りに灯也が耳を傾けると、雫は背伸びをして耳打ちしようとする。
果物のような甘い匂いがして、その距離感に灯也はついドキドキしてしまうものの、周囲の注目が集まっていることに気づいてバツが悪くなる。
いくら灯也がアイドルの姫野雫に興味がないからといって、こんな近距離に美少女がいれば、意識するのも当然というもの。
これは生ライブに参加したからといって、アイドル状態の彼女にまで興味を持ったわけじゃない――と、灯也は自分に対して言い訳じみたことを考える。
もしもアイドル状態の雫にまで興味を持ったとなれば、彼女との関係にも影響が出かねない。
ゆえに、灯也は気持ちを引き締める必要があると感じていた。
「は、早くしてくれ」
「(私、実は料理がてんでダメなんだ)」
「はあ……?」
声をひそめているからか、雫は素の低音ボイスで囁きかけてくる。
灯也的には特に勿体ぶるような内容でもなかったので拍子抜けしていると、今度は雫がバツの悪そうに苦笑してみせた。
「(イメージ的にさ、アイドルが暗黒料理を作るのとかって避けた方がいいじゃん?)」
「そりゃあ、そうだろうけど。――って、そこまでひどいのか?」
「ん~、物によっては?」
顔を離した雫は声色をアイドルボイスに戻しながら、疑問形で答えてくる。ゆえに、灯也は直感で『全般的にやばいんだな』と理解した。
「つまり、フォローをしてほしいってわけか。それは構わないけど、イメージを気にするなら、さっきみたいな耳打ちも避けるべきじゃないか? 変な噂が立っても俺は知らないぞ」
「あ~、それなら大丈夫だよ。私は恋愛とは無縁だし、あれぐらいなら瀬崎くんが意識しちゃってるって噂が流れるくらいだと思うから」
雫が笑顔で言う通り、周囲から――主に男子生徒からは、嫉妬と憐れみの視線が灯也に向けられているのを感じた。
「それ、俺が大丈夫じゃないだろ……ったく、姫野が性悪だってことを失念していたぞ」
「もぉう、瀬崎くんったら~♪」
愉快そうにアイドルスマイルを浮かべる雫。
灯也にだけは邪念が見えているが、周りは目が節穴ばかりのようで見惚れている。
今さらながら、灯也は雫と関わるようになったことを早まったかと思った。
◇
調理実習の当日。班編成は四人一組。
メンバーは灯也と雫、それにクラスの女子生徒が二人だった。
修一は灯也と組みたがっていたが、雫と一緒になりたい女子たちから弾かれた形である。
各々が持ち寄った材料を元にして作るのはカレーだ。誰が用意したのか、本格的なスパイスの小瓶がいくつか並んでいる。
そうして調理が始まると、雫は手際よく野菜の処理を済ませていく。
エプロン姿の雫が調理する光景に、クラスメイトは誰もが見惚れていた。
けれど、灯也だけは『ちゃんと包丁も使えているし、予想していたのとは違うな』と違和感を覚えていたが、こっちはこっちでルーの用意や肉の下ごしらえを担当する。
調理は順調に進んでいき、「姫野さんの料理が食べられるなんてラッキーだなー」なんて修一やクラスの男子からの嫉妬を受けながらも、終盤に差し掛かる。
と、そこで雫はおもむろにスパイスの小瓶を手にして――
「ちょい待ち」
灯也がストップをかけると、雫は笑顔で小首を傾げた。
「どうしたの?」
「今、なにをやろうとした?」
「味付けだよ? 見てるとどうしても入れたくなっちゃうんだよね~」
「女子二人、姫野と一緒に皿とか盛り付けの準備をしてくれ」
「「わ、わかった」」
灯也はなんとなく、雫が危惧していたことを察する。
おそらくは調理中、余計なことだとわかっていても、不要な味付けをやりたくなってしまうのが雫の悪癖なんだろう。
きっとこれまでも、調理実習で失敗した経験があったに違いない。
そういえば、雫は昼にコンビニの物を食べていることが多い。野菜パスタや豆乳など、健康に気を遣っている品ばかりで料理の手間を減らすためかと思ったが、それだけが原因じゃないことを理解した。
(いろいろ変わった人だな……)
灯也は雫に残念なものを見るような目を向けていたが、雫はうずうずした様子で視線に気づいていないようだった。
完成したカレーは、家庭的で美味な出来だった。
作り方は、王道のスタンダード。隠し味や余計な物は入れないよう、主に灯也がリードして作ったのだから当然とも言える。
同じ班の女子二人は雫の料理下手を知っていたのか、完成品の出来に涙していた。おそらく今回の調理実習にも失敗を覚悟して臨んだのだろう。さりげなく良い人たちである。
当の雫はといえば、一口食べるなり「おぉ」と感心した様子だった。
片付けが終わり、授業も終わったところで灯也は班の女子二人に声をかけられる。
なんでも、連絡先を交換したいとのことだった。
灯也たちが連絡先のやりとりをしている間、雫はその後ろでニコニコしていた。
そちらに気を取られていると、女子二人が冷やかすように言う。
「雫ちゃんは男子と連絡先の交換はしないから、期待しても無駄だよ~」
「そーそー。瀬崎くんはせっかく良いところを見せたのに残念だろうけど~、うちらのだけで我慢してね~」
などと言われ、灯也は苦笑するしかなかった。
そういえば、灯也も雫とは連絡先の交換をしていない。
灯也的に不便だなと思ったときは何度かあるのだが、交換を申し出たことはなかった。雫は男子と連絡先の交換をしないとのことだが、アイドルならではの事情があるのかもしれない。
ひとまず灯也はそういう風に、自分を納得させた。
五限の授業は体育だった。
この日は雨天だったことで、男女共に体育館で行われることになり、男子たちは異様なやる気を見せ始める。
ちなみに授業内容まで合同ということはなく、男子はバスケットボール、女子はバレーボールをやるとのことだ。
そんな中、灯也と修一は床に座って、試合の観戦をしていた。
「もうすぐゴールデンウィークだけど、そっちの予定は決まったか?」
修一がネットを挟んだ女子側のコートを眺めながら、軽い調子で尋ねてきた。
なので、灯也もボーッと女子側のバレーボールを観戦しながら「バイト」と答える。
「だろうなー。灯也もさっさと彼女の一人でも作ればいいのによ」
「そんな簡単にできたら苦労しないだろ。それより、そっちは上手くいってるのか?」
「まあ、ぼちぼちってとこだなー」
と言いつつ、修一はニヤついている。上手くいっているようで何よりだ。
手前のコートでは男子同士がバスケットボールの試合をやっているが、残念なことに女子のギャラリーはほとんどいない有り様だった。
「にしても姫野さんが見学とか、見る意義を八割失ってるよな~」
「仕方ないだろ、バレーはあざとかできやすいし」
修一がぼやく通り、雫は授業に参加していない。
とはいえ、律儀に体育用のジャージに着替えて髪までポニーテールに結んでおり、審判や用具の準備など、出来ることを手伝っていた。
なので雫が悪目立ちをしているということは一切なかったが、ときどき疎外感のある物憂げな表情をしているのが気になった。
「全国ツアーの真っ最中だもんな~。せめてジャージを脱いでくれれば……とか思ってるんだろ、むっつり灯也くんは」
「思ってないって、修一じゃあるまいし」
「オレだって思ってねえよ! オレはな、基本的に紳士な目線でしか見ていないんだ。ちゃんと彼女もいるしな」
「さりげなく自慢するなっての」
「悔しかったらお前も彼女を作れよ」
「しつこいな。いいんだよ、俺は現状で満足してるから」
言いながら、灯也は重い腰を上げる。
今まさに行われていた男子側の試合が終わり、灯也たちの出番が回ってきたからだ。
修一は意味もなく飛び跳ねてみせ、挑発するように変な構えをする。
「言っとくけど、オレは元バスケ部相手にも手加減はしないぜ? 何より、今は最高のギャラリーがいるからな」
「俺だってバスケじゃ負けねえよ」
「んじゃ、ジュース一本賭けな」
「望むところだ」
というわけで、灯也と修一は敵チームとして試合が始まったわけだが、展開は一方的になった。
オフェンスでは経験者の灯也がパスを回し、空いていれば自分でもシュートを打つ。
ディフェンスでは灯也が修一に付いて、パスが回らないように押さえておき、生き生きとしたプレイをできないようにした。
それだけで点差は開いていき、修一を含む相手チームの顔に焦りが浮かぶ。
そして攻撃の手は、再び灯也たちのチームへ。
灯也は右手でボールをドリブルしながら、相対する修一を真っ直ぐに見つめ返していた。
だがそこで、チラと視線を女子のいるギャラリー側へ向けたかと思えば、直後に逆方向へドライブして抜き去る。
「あっ、ずりぃっ!?」
修一が視線に振られたことで、フリーになった灯也はレイアップシュートを決める。
これにより、灯也のチームがさらなるリードを広げた。
「ずるいも何もないって。修一が単純すぎるんだよ」
軽い調子で灯也が言い返すと、修一は悔しそうに地団太を踏んでみせる。
ちなみに女子の方は休憩時間に入ったようで、集まったギャラリーは興奮ぎみに試合を応援しており、なんだか一種のお祭り騒ぎになっていた。
(これも連休前のノリってやつか)
灯也だけは若干冷めた気分で、軌道のわかりきった相手のパスボールをカットする。
そのままレイアップシュートでも行けたのだが、余裕を持って姿勢を作りながらのスリーポイントシュートを放つ。
――すぱんっ。
これで三点。ボールはリングに掠りもせず、綺麗にネットを裏返した。
その瞬間、「キャーッ」とギャラリーの女子たちから黄色い声が上がる。
「てめぇ、マジで何してくれてんだよ?」
ディフェンスに付いていた修一が、敵意をむき出しにして睨みつけてくる。
灯也はといえば、内心でホッとしていた。
あれで外していたら、さすがに目も当てられなかったからだ。
(柄にもなく、カッコつけてしまった……しかも、バスケで)
今さらになって照れの感情が込み上げながらも、ふと雫の方を向いてみる。
すると、雫と目が合った。
彼女は体育座りをしながら、他のギャラリーと一緒に応援中のようである。
だが、やっぱり疎外感を覚えているような顔をしたままで……。
「隙あり!」
灯也にボールが回ってきたことにより、修一がバッと手を出してくる。
だが、そのときには味方へパスを回していた。
「ほんとに隙を突きたいなら、隙ありとか言うなよ……」
呆れぎみに灯也が言うと、修一はふてくされたように口を尖らせていた。
試合は大差がついた形で、灯也のチームの圧勝となった。
「ちきしょー、完敗かよ!」
素直に悔しがる修一に対し、灯也は清々しい気持ちで肩を叩く。
「おつかれ。いい試合だったな」
「爽やかなのがムカつくぜ。つーか、いつもよりやる気だったじゃねえかよ。やっぱり普段はクールな灯也くんも、女子というギャラリーがいると違うってか? このむっつりめ」
「うっさいな。なんでもそういう話に結びつけんなよ」
などと言いつつ、灯也もその辺りを意識しなかったといえば嘘になる。やはり雫をはじめ、女子から見られていると気合いが入るわけで、ついつい張り切ってしまったわけだ。
灯也はタオルで汗を拭いながら、ふと雫の方を見遣ると、再び目が合った。
どうしてだか無表情でこちらを見つめているので、さすがに気まずくなった灯也は水を飲みに廊下へ出る。
給水機は廊下に設置されているが、距離的には体育館の奥側から出た方が近い。
だからか先に、雫が水を飲んでいた。
喉を鳴らして水を飲むその姿はやけに色っぽくて、灯也は思わず生唾を飲む。
周囲に他の生徒の姿はなく、二人きりの状況だ。それが逆に気まずく思えて、灯也は話しかけるべきかどうか迷いながら順番を待つ。
ようやく水を飲み終えた雫は、ひと息ついてからこちらを見つめてきた。
「あれって当てつけ?」
「え?」
すぐには言葉の意味がわからなかったが、ふてくされたような雫の表情によって、『見学している私の前で楽しそうに』的な意図だと汲み取る。
「いや、違うって。ただ普通にプレイしていただけだよ」
「嘘つき。やけに生き生きしてたじゃん」
周囲に他の生徒がいないからか、雫の物言いはサバサバとした素の状態である。
これは何かあったのかと思いつつ、灯也は努めて冷静に言葉を返す。
「べつに普通だって。強いて言うなら、俺は元バスケ部だからちょっとやる気になっていたくらいで」
「ふーん」
「そっちはやけにご機嫌ナナメじゃないか。そんなにバレーがやりたかったのか?」
雫はその問いに答えるかどうか躊躇ったのち、観念したように言う。
「ううん。ただ、私は他とは違うんだなって再確認してただけ。瀬崎くんまで楽しそうにしてるから、ちょっと疎外感もあったし。……私としたことが、顔に出しちゃったよ」
なんだそれ、と口に出そうになったところで留める。
灯也からすれば可愛く駄々をこねているようなものだが、雫の表情は普段よりも思い詰めているように見えたからだ。
ゆえに、灯也は顔を背けて言う。
「……それを言うなら、俺だって周りとは違うぞ」
「どう違うの?」
「さっきの試合、実は女子に見られて張り切っていたけど、他の男子とは違ってすかしていることしかできなかったからな」
このクラスの男子たちは『女子が見ているから』と明確に意思表示をして張り切る中、灯也だけは素直に表現することができなかったわけで。
こういうところが友人から『むっつり』と言われる所以なのだが、直そうと思って直せるものでもないのが困りどころだ。
そんな灯也の赤裸々な内心を打ち明けられて、雫はぽかんとしていたかと思えば、
「ぷっ」
思いっきり吹き出した。
「ちょっ、おい、ひどくないか!?」
「あははっ。ごめんごめん、つい」
「姫野って実はSだよな……」
「だったら瀬崎くんはドMとか?」
「断じて違う!」
そこだけは誤解のないよう言い切っておいたのだが、雫は半信半疑の様子でニヤついているのみ。
でも先ほどまでとは違って、表情に活気みたいなものが戻ってきているのがわかった。
「ま、姫野が忙しいのは本当だろうし、有名人ならではの苦労もあるだろうけどさ、みんな何かしらはあるってことで」
伝えたいことは口にしたので、いいかげん灯也も水を飲み始めると、雫が脇腹を小突いてくる。
「ごほっ!? なにすんだ!?」
「照れ隠しっ」
捨て台詞のように言い残してから、雫はそそくさと去っていく。
去り際に耳まで赤くなっていた雫の横顔が印象的で、灯也は今さらながら気を回し過ぎたのかと思って反省した。
◇
ゴールデンウィーク入りの前日。
朝から全校生徒のほとんどが浮かれる中、灯也は浮かない顔をしていた。
何せ、決まっている連休中の予定といえば、バイトか修一と遊ぶぐらいのものである。
灯也の家では旅行に行ったりする習慣はないし、趣味というものが皆無だと、こういうときに手持ち無沙汰になってしまうのが悩みどころだった。
「ねぇねぇ、ほんとに雫ちゃんは連休中に遊べないの?」
「うん、ごめんね。ツアー中なのと、収録とかが入っていて休める日はないんだ~」
ボーッとする灯也の耳に、雫たち女子グループの話し声が入ってくる。
どうやら大型連休の予定について話し合っているらしい。
「うわ~、やっぱりアイドルは大変なんだね。でもクラス会は来てほしいな~。雫ちゃんのぶんも予約しちゃってるし」
「あ、うん。なるべく行くつもりだよ」
「オッケ~! 楽しみにしてるね!」
あっという間に話し合いは終わったようで、雫以外の女子たちでタコパをするだの、どこに遠出するだのと予定を詰め始めた。
話題に出たクラス会というのは、連休最終日に予定されているものだ。クラスメイトのほとんどが参加するとのことで、灯也も出席することになっている。
(俺と姫野の忙しさは真逆だな……なんだか申し訳ない)
こんな状況でもニコニコ笑顔の雫を遠目に眺めながら、灯也は小さくため息をつく。
雫からすると、やはり連休中くらいはクラスの女子たちと遊びたかったりするのだろうか。
できれば自分の暇を分け与えてやりたいと、灯也は無駄なことを考えて、やるせない気持ちになった。
放課後。全体的に集中力を欠いた授業がひと通り終わったことで、教室内はハイテンションな声で溢れかえる。
「灯也ー、帰ろうぜー」
「ああ」
例に漏れず浮かれ気分の修一から声をかけられて、灯也は廊下に出たのだが、
「瀬崎くん」
後ろから名前を呼ばれたので振り返ると、雫が立っていた。
「なんだ?」
「今日って、バイト?」
「ああ」
「そうなんだ。がんばってね」
ニコニコしながら、雫は手を振ってくる。
灯也は不思議に思いながらも手を振り返し、修一とともに歩き出す。
「けっ、オレも『がんばって☆』とか言われてえ」
「がんばって」
「お前からじゃねえよ!」
修一とくだらないやりとりをしつつ、灯也の頭の中を占めるのは雫の言葉だ。
わざわざ雫が問いかけてきた意味を理解するのは、間もなくのことだった。
一時間後。
灯也がバイト先のカラオケ店で受付業務を担当していると、変装姿の雫が来店してきた。
(なるほど、放課後のあれは店に来るって合図だったのか。でも……)
現在、ゴールデンウィーク前夜ということもあって店の中は混雑しており、案内待ちの客でロビーはごった返している状態である。
とてもじゃないが雫にだけ構っている余裕はなく、ひとまず利用客名簿への記入をお願いしようと思ったのだが――
「ごめん、今日はこれだけ渡しに寄ったの。じゃ、がんばってね」
雫は灯也にメモの切れ端を手渡してきて、そのまま去っていった。
手元のメモを確認すると、そこには雫のものと思われる連絡先が記載されていて……
「へ……?」
思わず灯也は放心してしまい、客から声をかけられたことでようやく我に返る。
なぜいきなりこんなことになったのかは、さっぱりわからない。
先ほどの光景は、傍から見れば逆ナン紛いの行為ではあるが、店内が混雑していることもあって、誰も気づいていないのは幸いだった。
「ふぅ」
バイトを終え、灯也はため息交じりに店を出る。
今日の勤務は過酷だった。浮かれ気分の客に応対することもそうだが、何よりも雫の連絡先の件が気になったせいで、集中をところどころ欠いてしまったからだ。
大きなミスこそなかったものの、手際の悪さが目立った。これは今後の課題だと思いつつ、灯也は端のベンチに座ってスマホを取り出す。
ひとまず雫から手渡された連絡先を登録して、『瀬崎です。登録しておきました』という文面でメッセを送信する。
すると、思いのほか早く返信がきて、
『簡潔すぎ 仕事用のメッセかと思って二度見したよ』
そんな砕けた文面が届いた。
――と、そこで電話がかかってくる。
着信相手は、登録したばかりの雫だった。
一度深呼吸をしてから、灯也は通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『あ、出た。ごめん、いきなり電話して。今平気だった?』
「ああ、ちょうどバイトが終わったところだ。そっちは?」
『うん、私もさっき収録が終わったとこ。急にびっくりしたでしょ?』
今は一人なのか、雫は素の状態で話している。
スマホ越しに聞く彼女の声は新鮮で、灯也は胸の辺りがこそばゆい気持ちになった。
『もしもーし?』
「あ、悪い。新鮮な気持ちに浸ってた」
『ふふ、なにそれ。変なの』
雫の嬉しそうな声が聞こえて、灯也はまたもやくすぐったいような気持ちになる。
「でもバイト中にびっくりしたぞ、あれじゃ一種の逆ナンだろ」
『人聞き悪いな。元々知り合いなんだから逆ナンじゃなくない?』
「定義はよくわからないけども。でもなんで急に?」
『急じゃないよ。どっかで交換しなきゃって思ってたし』
「そうなのか?」
『うん。だって連絡先を知らないと、連休中に会えないじゃん』
「まあ、そうだよな、うん……」
お互いの顔が見えないからか、雫はいつもの直球な物言いに拍車がかかっている気がした。
それにどこか声が上擦っているというか、気持ちが昂っているように感じる。
「でも、そっちに遊ぶ暇なんてあるのか? クラスの奴の誘いは断っていただろ」
『普通には無理だよ。だからちょっと瀬崎くんには無茶なお願いをしちゃうかもだけど』
「はあ……? 俺はべつに、バイトのない時間ならいつでも空いてるぞ」
口に出してから修一のことを思い出したが、元々あちらも恋人との予定が入ってない日の暇つぶしだと言っていたし、融通は聞くはずだ。
『じゃあさ、移動するのとかはアリ? たとえば、割と遠出することになったりとか』
「足になるような免許は持ってないから、電車で行ける範囲なら可能だ」
『よし。お金の方は気にしなくていいから、お互いの予定が合ったときに遊びたいんだけど、平気かな?』
「え、ああ……」
今のところ雫に合わせて勢いのままに話が進んでいるが、肝心なところがはっきりしないというか、灯也はどういう目的なのかがいまいち掴めないでいる。
そんな灯也の気持ちをなんとなく察したのか、雫はわざとらしく咳払いをする。
『あのさ、私って多忙なアイドルでしょ? でもせっかくの大型連休だし、一日中は無理でも、合間の息抜きぐらいはしたいんだ』
「お、おう」
『だけどそれには、私のスケジュールで結構振り回しちゃうと思うし、何より素顔でいられる相手じゃないと、こっちも気を抜けないわけ。わかる?』
「それは、わかるよ」
『さっすが、空気の読める男』
「褒めてるのか馬鹿にしてるのかは微妙なニュアンスだな」
『あはは、褒めてるってー』
ここまでくれば、おおよそ雫の言いたいことは理解できた。
要するに、灯也には遊び相手――というか、息抜き相手になってほしいわけだ。しかも、雫のスケジュールの空き時間に合わせる形で。
ただこの時点でもわからないのは、具体的に何をするのかということ。
そして、懸念事項についてである。
「まあ、俺も連休の予定はバイトぐらいしかなかったし、一緒に遊べるなら望むところだ」
『よし』
「でもさ、平気なのか? さっき姫野が言った通り、俺は男だ。……本当に今さらかもしれないけど、アイドルが男と二人で遊ぶのは問題なんじゃないのか?」
『……アイドルだって、人間だし。べつに息抜きをするだけでデートってわけじゃないんだから、人目につかないようにすれば問題ないよ』
「姫野がそう言うなら、俺はこれ以上なにも言わないさ」
『ありがと』
実際のところ、問題がないはずはない。
いくら当人たちが『デートじゃない』と言い張っても、年頃の男女が二人で出かけていれば、それはデートだと判断されるのが実情だ。
しかも片方は人気絶頂のトップアイドル。二人でいるところを週刊誌の記者にでも見つかったら、きっといいスクープのネタにされるだろう。
雫はそれをわかっていないほど、無知ではないはずだ。
そのリスクがあることを承知の上で誘ってくれているのだから、灯也の方は素直に受け入れようと決めた。
「じゃあ、さっそく日程とか場所とか、あとはやることを詰めないとな」
『まずは瀬崎くんのシフトと予定を教えて。そしたら私の方で空いている時間と場所を合わせるから、現地集合するなりして遊ぼうよ』
「ああ。ちなみに、姫野の行動範囲は都内に収まらない感じだったりするのか?」
『うん。全国ツアー中だし、映画の撮影もあったりするからいろいろとね。もちろん、都内でやる収録もあるから、基本は都内で遊ぶつもりだけど』
「じゃあさっき言ってた、お金は気にしなくていいとか云々は?」
『他県で会う場合の移動賃とか宿泊代は、私のポケットマネーから出すってこと』
「まさかとは思うけど……」
『うん、瀬崎くんのぶんも』
「こえぇ……セレブの感覚怖すぎだろ!」
『私だって心の底から「連休だー!」って言いたいし。もしかして、日和ってないよね?』
「だ、誰が」
『うわ、声上擦ってるし』
「うるさいな、こっちは庶民なんだよ。とにかく、なるべく出費は抑える方向でいくぞ」
『ほーい』
なんて計画を口々に話していたのだが、雫の方で動きがあったようで、
『ごめん、送迎の準備ができたみたいだから。また連絡するね』
「ああ、俺もシフト表を送っておくよ」
『うん、よろしくー』
そうして通話が終了する。
今になって気づいたが、灯也の鼓動は早鐘のように高鳴っていた。
興奮するのも無理はない。
退屈なだけで終わるはずだった大型連休の予定が、一気に様変わりしそうなのだから。
しかも相手は、最近仲良くなった(?)トップアイドル様で。
「デートじゃないってことなら、かえって気楽に楽しめそうだ」
雫が相手であれば、心の底からそう思えることが灯也は嬉しくて。
柄にもなく笑みをこぼしながら、灯也は急ぎ足で帰路に就いた。