君のガチ恋距離にいてもいいよね? ~クラスの人気アイドルと気ままな息抜きはじめました~
第十話 愉快で多忙な連休のはじまり
昨夜、灯也と雫は連絡先を交換した。
夜のうちにメッセで互いのスケジュールを共有し、連休中の予定はある程度埋まっていく。
やはりというべきか、雫の予定は丸一日空いていることがなく、中には分単位で詰まっている部分や、遠方をいくつも移動することがあって、まさに多忙極まれりといった状態だった。
部外者の灯也には明かされない仕事内容も多かったが、そもそも何をするのかまで知る必要はない。重要なのは変更になった場合、灯也が臨機応変に合わせることだろう。
雫曰く、決めすぎるのもよくないとのことで、なるべく空いている時間に息抜きを――というのが、二人のコンセプトである。
そして連休初日。
さっそく灯也は、午前中から都心部のダンススタジオを訪れていた。
「ここで合ってるよな……?」
四角形の大きな建物を見上げながら、ジャケットにチノパンといった無難コーデの灯也は、やや緊張ぎみに呟く。雫は中に入っているとのことで、おそるおそる施設に入った。
灯也は受付で入館の手続きを済ませてから、二階の一部屋に向かう。
扉を開けたところで、灯也は驚いた。
室内は広々としていて、床はフローリング。壁の一面には大きな鏡が設置されており、アイドルのドキュメント番組などで見たことのあるレッスン場のイメージそのままだったからだ。
その真ん中で一人、柔軟運動をする後ろ姿が見える。
ピンクのトップスに、ゆったりとしたグレーのパンツを合わせた一般的な練習着だが、その後ろ姿だけでもプロっぽく、そして明らかに美少女だと感じさせるから不思議だ。
「よお」
灯也が声をかけると、ストレッチ中の人物――雫は顔だけこちらに向けてくる。
「おーっす」
「なんかいつもと違う挨拶だな」
「え、なに? ――『おはようございまーす♪』とか言ってほしかった?」
前屈しながら可愛い声で挨拶をされると、妙な違和感で感覚がおかしくなりそうだ。
「そういう意味じゃなくて、運動部っぽいと思っただけだよ」
「いいじゃん、可愛くない私も受け入れてよ」
「へいへい」
「テキトーだなー」
なんとなくいつものノリで会話をしているが、灯也の方は軽く困惑していた。
何せ、ここへ呼ばれた理由は定かじゃない。これから何をするつもりなのか、灯也は全くわかっていないのだ。
昨夜のうちに雫からメッセで、『さっそく明日の自主練に付き合ってくれない?』と言われたので、こうして参加してみたまでだった。
ひとまず手持ち無沙汰だった灯也は同じようにストレッチを始めると、それを見た雫が吹き出して笑う。
「な、なんだよ」
「いや、自主練に付き合ってとは言ったけどさ、瀬崎くんにまで踊ってもらうつもりはないからね?」
「知ってるよ。俺が踊れるわけないだろ」
「ごめんごめん、ちょっと気まずかったんだよね」
「その通りだ。言ってしまえば、この施設だって俺には不慣れな未知の空間だしな」
「もうちょい待ってねー、すぐに終わるから」
「こっちのことは気にせず、いつも通りにやってくれ」
「ありがと」
運動をする前の柔軟は大事だ。念入りにやって損はない。
待っている間、雫が気を利かせて上部に設置されたモニターのスイッチを入れる。
画面には《プリンシア》のライブ映像が流れ出し、アイドル衣装の雫が歌ったり踊ったりする姿を見ることができた。
『キミを想っているよ~♪』
ほとばしる汗に、弾ける笑顔。
盛り上がりどころでカメラが寄ると、ハートマークと一緒にウインク。
スポットライトを浴びて輝く姫野雫は、やはりどこまでもキュートなアイドルだった。
『みんな~っ、大好きだよ~!』
曲が終われば、ちゃんとファンサも欠かさない。これは人気が出るのも納得のパフォーマンスである。
生のライブで見たときにも思ったことだが、姫野雫のスタイルはザ・王道だ。
特に奇をてらうわけでもなく、独特なところは透明感+存在感といったところだろうか。
一括りにすると『オーラ』と呼べるものが、姫野雫は他のアイドルとは明らかに違うのである。
とはいえ、灯也がそれをわかっても、姫野雫のファンになるわけではない。
ファンというのは魅了されたり、応援したいと思ったり、憧れる者を指すはずだ。
少なくとも今の灯也が真っ先に思うのは、素の雫の方が居心地は良いよなというくらいで、要するにアイドル姿の雫のことは平常心で眺めていた。
「よし、終わりっと」
柔軟を終えた雫が呟くとともに、灯也は気になったことを尋ねてみる。
「なあ、姫野ってグループのメンバーとは仲良いのか?」
「いきなり何?」
「オフの日に、メンバーと遊んだりはしないのかと思って。でもその顔だと、やっぱり仲良しってわけじゃないんだな」
雫があからさまに苦々しい顔をするものだから、灯也は苦笑してしまう。
「いいでしょ、べつに不仲でも。ほとんどのファンには気づかれてないんだし」
「というか、姫野の素顔を知ってる人ってどれだけいるんだ?」
「急に質問攻めするじゃん。そんなに気になるの?」
「まあ、それなりに」
ここは素直に答えると、雫はやれやれと肩を竦めながら言う。
「瀬崎くんだけだよ、私の素顔を知ってるのは」
「えっ」
「そこまで意外かな? 私、基本的に他人は信用しない主義だし」
「へ、へぇ……」
ぶっちゃけた話をさりげなくされて、灯也は自然と口元が緩むのを感じた。
「お、なんか嬉しそう」
「そりゃあまあ、特別扱いしてもらえるのは有り難いよな」
「じゃないとこうやって、オフに会ったりしないでしょ」
心なしか雫は照れくさそうに言いながら、中央部分に立ってリモコンを操作する。
すると、端に置かれた小型スピーカーから、ライブ映像の中で歌っていた曲が流れ出した。
「一曲通すから、ちょっと見といてよ」
「お、おう」
それから雫は、曲に合わせて本番さながらの振り付けをこなしていく。
歌わずにあくまでダンスの振り付けのみに集中したものだが、キレのある動きはそれだけで視線を釘付けにする。
先ほどのライブ映像に比べて派手なアイドル衣装でもなく、歌唱もしないことから、ある程度は見劣りするのではないかと思ったが、全然そんなことはない。
テンポのいいサビ部分では動きもスピーディになり、雫は汗だくになっていたが、それでも笑顔を歪めることはなかった。
これが人気アイドルの実力なのだと、灯也は実感させられるのだった。
――パチパチパチッ。曲が終わったところで、灯也は拍手を送っていた。
雫は全身から力を抜いて、タオルで汗を拭いながら近づいてくる。
「どうだった? 結構、様になってたでしょ」
「ああ、すごかった。やっぱりプロだな」
「出てくる感想がそれって、やっぱり瀬崎くんは瀬崎くんだよね」
「どういう意味だ?」
「普通だと『可愛い』とか『綺麗』とか、そういう感想が出てきそうなところを、瀬崎くんの『やっぱりプロだな』って感想は簡素というか、なんか面白い意見だからさ」
雫がどことなくニヤつきながら言うものだから、灯也は若干ムキになって言い返す。
「仕方ないだろ、そういう感想が一番に思い浮かんだわけだし。でもまあ、お世辞でよければ言うぞ?『雫ちゃんカワイイ~』ってな」
「ぷはっ、似合わなっ」
「くっ、なにが女神だ。この猫かぶり女め」
「あはは、べつに責めてないんだしすねるなよ~」
雫に脇腹を小突かれたことで、灯也はこそばゆい気持ちになりながら目を逸らす。
「俺はすねているわけじゃない」
「ちなみにその大層な呼び名だけど、私が普段から自分で『女神すぎるシズクちゃんです♪』とか言っているわけじゃないからね?」
「どうだかな」
「だって私、女神って柄じゃないしさー」
雫が言いながら伸びをする、その仕草までもが美しいのだから、なんとも説得力が皆無である。
「ま、まあその辺りはさておき、距離感には気をつけてくれよ。その薄着でスキンシップをされるのは、さすがに刺激が強すぎる」
「はあ……? 瀬崎くんのそういう線引きってさ、いまいちわからないんだよね。というか、異性に興味とかあったりするの?」
「なんだその質問は! 人並みにはあるつもりだぞ、一応!」
すぐさま反論してみせるが、灯也自身は誰かと付き合ったことなどないし、なんなら初恋の経験だっておそらくないわけだが。
「ごめんごめん、でもわかりづらいのは本当だから」
「気持ちはわからないでもないけどな。俺は冷めているように見られることが多いし、現に、恋人だっていたことがないわけで」
灯也は恋愛自体に興味がないわけじゃないが、部活動をやめて以来、何かに熱中することに苦手意識というか、距離を置くような気持ちになった自覚があった。
だからこそ、こうして雫との不思議な関係が続いていることには、自分でも驚いているわけだが。
「まあでも、そのおかげで私たちは一緒にいられるのかもしれないけどね。万が一にも瀬崎くんにガチ恋とかされたら、多分今みたいな関係ではいられないと思うし」
「だな」
なんて会話をしながら、雫は二曲目の再生を始めた。
「んで、姫野はこういう話をするために俺を呼んだのか? それとも、目的はダンスを見せるためだったとか?」
「……どっちも、かな。一応だけど、瀬崎くんにはアイドルの私の技術面も認めてほしい――的な。ごめん、ちょっと重いよね。ライブツアー中だからナーバスになってるのかも」
「重いってことはないよ。それに俺だって偉そうなことを言うつもりはないけど、アイドルとしての姫野がすごいってことは、とっくにわかっているつもりだからさ」
「ならいいや。――それと今日呼んだのは他にも目的があってね、まあここでやることじゃないんだけど」
「ほう?」
「とりあえず、もう少し調整させて」
そう言って、雫は再び踊り始めた。
灯也自身も退屈に感じているわけではないので、雫の華麗なダンスを眺めて過ごした。
「ふぃ~、終わった終わった」
雲一つない青空の下、雫は清々しい様子で言いながら伸びをしている。
自主練とやらは一時間ほどで終わり、二人は揃ってスタジオの外に出ていた。
当然ながら雫は私服に着替えていて、白いノースリーブ丈のトップスに、ネイビーカラーのワイドパンツを合わせた目にも爽やかな装いだった。
髪はおさげに結び、伊達眼鏡とマスクを着用しているものの、いつものキャップ帽はない。変装姿というよりかは、私服+カモフラージュ道具といったところだ。
肩回りがすっきりしているからか、白い素肌が視界に映り、灯也は隣を歩くだけでドキドキしてしまう。
そんな灯也を見て、雫は愉快そうに微笑んだ。
「ほんとだ。瀬崎くんってアイドルの私に興味がないだけで、ちゃんと人並みには異性のことを意識するんだね」
「俺は最初からそう言ってるだろ。――って、どうして今そんなことを言うんだよ?」
「さあ? 誰かさんが鼻の下を伸ばしていたからじゃない?」
「嫌なやつ。――で、これからどうする? たしか昼過ぎには雑誌の撮影があるんだろ?」
「うん。だから先にお昼ご飯を済ませちゃお」
行き先は決まっているのか、雫は先導するようにルンルンと歩いていく。
「ご機嫌だな」
「まあね。私も今、ゴールデンウィークが始まったーって実感してるし」
「そりゃよかった」
街中は連休ならではの混雑具合だが、すれ違う人々の視線が雫の方に向けられるのを感じる。
最初はアイドルであることがバレたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
私服が女性っぽくなるだけで、素の状態でも視線を集めるようになる。これまでの中性的な服装のカモフラージュ効果を実感するとともに、灯也は多少の危機感を抱いていた。
「なあ、結構じろじろ見られてるぞ」
灯也が耳打ちすると、雫は余裕そうに答える。
「平気だよ、堂々としていればね。でも私がスカウトに声をかけられたりしても、足は止めないように気をつけてね」
「了解だ」
雫が平気だというのなら、灯也は信じるしかない。
素の状態の彼女は、気ままではあるが落ち着いた雰囲気だし、アイドルのときのような弾けたオーラは感じられないわけで。
……ただ、透明感はある。
あの抜けるような、人目を引きつけてやまない透明感が。
これだけで周囲は目を奪われるし、足を止める者さえいるほどだった。
そうして一種のスリルがある徒歩横断をした末の目的地。
それはチェーン営業のハンバーグレストランだった。
店の前に並んだのぼりには、見覚えのあるアイドルらしき女性の姿がある。
「これ、姫野か」
「そうだよ」
驚いたことに、のぼりには雫の姿があったのだ。
のぼりの雫はウェイトレス服を着用していて、ベレー帽とエプロン姿がやけに似合っていた。
この店は全国にチェーン展開しているとはいえ、アイドルとハンバーグの組み合わせには些か違和感を覚えるのだが、雫はどこか自慢げで誇らしい様子だ。
「ほんと、姫野ってどこにでもいるんだな……」
「その言い方はなんか引っかかるんだけど。女の子を虫みたいに言わないでよ」
「悪かった。ここで食べるのか?」
「うん、こういうところって一人じゃ入りづらいからさ。これが今日の目的」
「なるほど、んじゃ入りますか」
今度は灯也が先導するように中へ入ると、店員から混雑しているせいで待ち時間がかかると言われたものの、二人は店内で待つことにした。
「和風たらこスパゲッティと、シーザーサラダのお客様」
「こっちでーす」
カロリー控えめな品を店員が運んでくると、雫が淡々と挙手してみせる。
「……そうなるよなぁ」
ほんの僅かに雫がハンバーグステーキをガッツリ食べる姿を見られるのではと期待したが、そうはならないらしい。
向かいに座る灯也は苦笑しつつも、自身の目の前に置かれたチーズバーグステーキに向き直る。
「なにを期待してたのかは知らないけど、私もハンバーグは食べるからね? ――はい、小皿に一口ぶん載せて」
「はいよ」
灯也がハンバーグを一切れ小皿に載せている間に、雫は自身のスパゲッティを小皿に取り分ける。
「俺にもくれるのか?」
「もちろん。サラダもあげるよ」
雫はボウルに入った大量のサラダも小皿に取り分けて、灯也の前に並べる。
そのテキパキとした手際に灯也は感心しつつも、出揃ったところで両手を合わせて、
「「いただきます」」
二人で声を合わせるなり、雫はハンバーグステーキを口に運ぶ。
「ん~、美味しい」
口調は淡々としているので、いまいち喜びは伝わってこないが、どうやらご満悦らしい。
「そんなに美味いのか?」
「食べればわかるよ」
どうしてだか雫からは試すような視線を向けられて、それが灯也の期待感を増す。
「じゃあ、遠慮なく」
一切れのハンバーグをフォークで刺して、灯也は口に運ぶ。
すると、ジューシーな肉汁とチーズのコクが口いっぱいに広がって、灯也は口の中を火傷しそうになりながらもライスをかき込んだ。
「うん、美味いな」
「でしょ? お肉って、なんでこんなに美味しいんだろうね」
とはいえ、灯也は雫ほど感動しているわけでもない。
どちらかといえば馴染みのある味だし、若干雫のリアクションがオーバーに感じられるほどだ。
でも雫は、心底食べたそうな視線をハンバーグに向けている。
「食べたければ、いくらでも食べていいぞ?」
「ううん、これでも食事制限中だから。身体を動かした後とはいえ、味見だけなら一口で十分だよ」
雫は雑念を振り払うように、サラダを口に運んだ。
と、そこで店内に雫たち《プリンシア》による宣伝音声が流れ始めた。
『――ニックニク~♪ どうも、《プリンシア》の姫野雫です! 口に入れた瞬間にじゅわ~っと肉汁が広がるアツアツのハンバーグ、たまらないですよね! 私も大好物です!』
この音声はキャンペーンガールとしてPR活動をしているだけのはずだが、まるで今の雫の気持ちを代弁しているように聞こえる。
せっかく音声ではハンバーグの味を力説しているというのに、実際に来店した雫はサラダばかりを食べているので、見ている側としては複雑な気分にさせられた。
「ここに来たかったのって、自分が宣伝をやっているからか?」
「そんなとこ。あとは現場の確認もそうだけど、PR撮影のときに食べるのと、普通に食べるのとは感覚が違うしね」
「俺がいれば、味見をした後に残りは食べてもらえるしな」
「そうそう。頼んで残すのはもったいないし、男の子はこういうの好きでしょ?」
「なかなかやり手だな」
「まあね」
どうやら雫なりに考えがあってのことだったようだ。
人気商売というのも大変なものだと、灯也は素直に感心させられた。
「ていうか、瀬崎くんもサラダ食べなよ。全然手を付けてないじゃん」
「べつに好んで食べたいほど野菜が好きでもないしな~」
「そういう問題じゃなくて、栄養的にさ。お肉ばっかりだと太るよ?」
「俺、昔からあんまり太らない体質だから」
「そう言ってる人ほど、二十歳過ぎてからブクブク太るらしいよ?」
「マジか、それは怖いな」
特に危機感もなく言いながら、灯也はハンバーグを頬張る。
もちろん、サラダだって盛られた分は食べきるつもりだが、あんまり早く食べ終わるとお代わりを盛られそうなので、手を付けるのは最後にするつもりだった。
「瀬崎くんって、意外と頑固だよね」
「姫野にだけは言われたくないぞ」
などと言い合いをしていると、
「ねぇねぇ、あの子可愛くない?」
「あ、ほんとだ、めっちゃ可愛いじゃん」
「モデルさんかな? 腕とか細いな~」
遠くの席でカップルがこちらを見ながらひそひそと会話を始めて、灯也たちはぎくりとしてしまう。
雫は気まずそうに顔を伏せながら、黙々とスパゲッティを口に運んでいく。
いくら雫の変装が上手で、素だと雰囲気が違うからといって、見る人によっては気づく場合もあるはずだ。
それに食事中の今はマスクもしていないし、伊達眼鏡だけだと心もとないのも事実。
ゆえに、灯也はあえてカップルの方を見遣って、わざとらしく咳払いをする。
カップルの男女は申し訳なさそうに視線を逸らしたのち、別の話題で盛り上がり始めた。
「……助かった、ありがと」
「いいよ、自分のためでもあるし」
「やっぱり帽子も被ってくるべきだったかな」
「姫野は今日、帽子を被りたくなかったんだろ。俺としても、今の服装的にはない方が良い感じだと思う」
「うん」
雫は頬をほんのり赤くしながら俯いてしまう。
その仕草を見て灯也まで気恥ずかしくなったので、その後はお互いに黙々と食べ続けた。
店を出てからは、雑誌の撮影があるという雫を駅まで送り届ける。
「今日はありがと、また連絡する。そっちもバイトがんばってね」
「ああ、またな」
別れ際はあっさりと。
互いに手を振り合ってから、雫はタクシーに乗り、灯也は駅のホームへと降りていく。
――ブーッ。
灯也のスマホが振動したので確認すると、雫からのメッセだった。
『瀬崎くんって、服とか興味ある?』
別れてすぐにメッセが届いたので何事かと思ったが、内容は普通だったので、灯也は頬を緩ませながらも返信する。
『特には。でも買い物なら付き合うぞ』
『じゃあ今度は古着屋に行こうよ』
『オッケー』
『決まりね』
次に会えるのは、おそらく三日後の夕方頃だ。
大して日にちが空くわけでもないのに、灯也は今から待ち遠しい気分になるのだった。
◇
翌日。
「ご来店ありがとうございます、こちらの名簿にご記入ください」
灯也は昼からカラオケ店でバイトをしていた。
今日も大混雑で多忙が続く。客足が途絶えることはない。
だがようやく少し落ち着いてきた辺りで、見知った顔が現れる。
「やっほー、遊びに来たわよ」
大勢でやってきたのは、夏希と軽音部の女子たちだった。
何人かは明るい髪色をしていて、店内のライトを浴びると目に痛いくらいである。
「はぁ……こちらの名簿にご記入を」
「ごめんってば、忙しいときにお邪魔だったよね?」
「まあな。あんまり騒ぐなよ?」
「ウケるー、ここカラオケっしょ。騒ぐための場所じゃーん」
口を挟んできたのは、軽音部の女子A(※灯也は名前を覚えていない)。
灯也はそちらには反応せず、夏希を冷めた目で見つめる。
「ドリンクは? 利用時間は一時間でいいだろ」
「いや、普通にフリータイムなんですけど。みんなドリンクバーで」
「了解。――お部屋をご案内しますので、少々お待ちください」
利用可能な部屋をチェックしている間に、先ほどの女子Aが絡んでくる。
「てかさー、瀬崎くんって姫野さんと仲良いんでしょ? ぶっちゃけ狙ってんの?」
直球の物言いに、自然と気圧されそうになる。あと、なかなか強めな香水の匂いがした。
「仲は良いけど、狙ってるとかはないよ」
「だってさ、夏希」
「は? なんでうちに言うのよ」
「う~、怖っ。――こんな感じだからさ、夏希とももっと遊んであげてよ」
「お気遣いどうも。暇があればな」
灯也がそう答えると、女子Aは満足そうに頷いてから離れていく。どうやら友達思いの良い人だったらしい。
夏希と顔を合わせるのはゲーセンで会ったとき以来だが、一緒に《プリンシア》のライブに行ったことは周囲に話していないようだ。
空き部屋のプレートを夏希に渡し、口頭で場所を伝えてから見送る。
すぐに次の客の案内を済ませてから、対応待ちの列が途切れたことでひと息ついた。
今日は人手が足りていないので、灯也のような高校生バイトはフロント業務以外にも掃除やトラブル対応をするホール業務に、時々キッチン業務もやることになる。
とはいえ、それも慣れてしまえばおおよそ繰り返しの作業と言えるわけだが、摩耗していく心を紛らわすのは、店内に流れる《プリンシア》の楽曲と、大型モニターに映る雫の笑顔だった。
「休憩入りまーす」
灯也は厨房にちょろっと顔を出してから一言告げると、誰もいない休憩用の個室に入る。
パイプ椅子に腰かけてから、スマホをチェック。昼前に送った雫へのメッセには既読が付いておらず、今も忙しくしているのが予想できた。
なので暇つぶしがてら、SNSで姫野雫の公式アカウントを確認すると、スタッフらしき人物によって、ソフトクリームを頬張る雫の画像が投稿されていた。
しかも、その様子を撮影したと思われるショート動画まで投稿されていたので、イヤホンを付けてから再生ボタンを押す。
『ん~っ、めっちゃ美味しいです~!』
「ふっ」
あっちも頑張っているんだなと思ったら、灯也は自然と笑みをこぼしていた。
傍から見たら、アイドルのオフショット風動画を見て微笑んでいるだけなので、誰かに見られなくてよかった光景だ。
ひとまずスマホを置いて、気を落ち着かせようと思ったところで、
――ブーッ。
スマホが振動したので急いで確認すると、夏希からのメッセだった。……その途端、灯也は一気に脱力する。
『そろそろ休憩じゃなかった?』
そういえば、夏希には部屋の案内をしたとき、休憩時間を聞かれたので教えていた。
なぜ気にするのかはわからなかったが、ひとまず『休憩中』とだけ返信する。
すると、『うちらの部屋に来て』とメッセがきた。
当然断ったのだが、『いいから来い』と言われたので仕方なく、灯也は夏希のいる個室に向かうことに。
一応はノックをしてから個室に入ると、中では夏希たち軽音部の面々が激しく盛り上がっていた。
一瞬だけ足を踏み出すことに抵抗を覚えたが、何人かに歓迎ムードで手招きをされたので、歓声を上げる夏希の隣に座って声をかける。
「おい、来てやったぞ。一体なんの用だよ?」
「おつかれー。ちょっと一緒に歌いたくなっただけよ」
「は? 俺が歌うわけないだろ」
「バイトだから? でも今休憩中でしょ」
「いや、そうじゃなくて。この部屋の利用料金を払わなきゃいけなくなるし」
「あ、そこは失念してたわ。ま、いいじゃない、一曲ぐらい」
「よくないから」
用がそれだけなら、と灯也が退室しかけたところで、前の方でちょうどデュエット曲を歌い終わった二人組がマイクを使って「「ストーップ!」」と呼び止めてくる。
「なっちゃんと歌ってあげてよー! なっちゃんずっと寂しそうにしてたからーっ!」
なっちゃんというのは、夏希のことだ。彼女が一部の部活仲間からそう呼ばれていることは知っているが、久々に聞くとなぜだか笑ってしまいそうになる。
「いや、寂しそうになんかしてないから!」
言いながら、夏希が入れたのは《プリンシア》の楽曲。
それを灯也と二人で歌うつもりなのか、二本手にしたマイクの一方を手渡してくる。
「店にバレたら一緒に謝るから、一曲くらい付き合いなさいよ」
「いや、だったらせめて男の曲を歌わせてくれよ……」
「うっさい。あんた用に最近の曲にしてあげたんだから、感謝しなさいよね」
「はいはい」
というわけで、なぜだか軽音部の女子たちの前で夏希と一緒に、《プリンシア》の曲を歌うことになってしまい……。
歌詞は完璧でそれなりに上手い夏希と、なんとなくうろ覚え状態の灯也によるデュエットが始まった。
どうしてだか室内は大盛り上がりとなっており、灯也としては恥ずかしさにも慣れてきて、意味不明なだけの心境になっていく。
(ま、これも話のネタになるか)
などと、後半には能天気なことを考える余裕も生まれていた。
「悪かったわね、いきなり付き合わせて」
歌い終わって個室を出たところで、夏希に謝罪をされた。
「いや、べつにいいって。未だに参加させられた理由は謎だけど」
「トーヤの連休はずっとバイト漬けだって、向井から聞いたから。ちょっとは息抜きさせようかなと思って」
なるほど、夏希なりに気を遣ってくれたらしい。
その気持ちは素直に嬉しいので、感謝しておくべきだろう。
「お気遣いどうも。けどまあ、予定が変わってさ。そうでもなくなったというか」
「え、マジで?」
「ああ。確かにバイトは結構入ってるけど、そのぶん息抜きもしてるよ」
「なーんだ、暇なら遊んでやろうと思ったのに」
「そういえば、明日は登校日だよな。帰りに修一とゲーセンに行くけど、金井も来るか?」
その誘いに、夏希は目をぱちくりとさせた後、
「え、あ~、じゃあ行こうかな」
どうにも照れくさそうに、夏希は承諾してみせる。
ここ最近まで疎遠状態だった夏希を自然に誘えたことに、灯也は自分でも驚いていた。
「じゃあ、修一にも伝えておくよ」
「う、うん。それじゃ、残りもがんばってね」
「おう、またな」
夏希はどことなく嬉しそうに部屋へと入っていく。
灯也も休憩室に戻ろうとしたところで、スマホが振動した。
確認すると、雫からのメッセが届いていて。
『今日のお昼』
文面とともに添付されていた画像には、串カツを両手に持ったドヤ顔の雫が映っていた。
「これは確かに、ソフトクリームの方を投稿するわな」
甘い物に目がないアイドルと、串カツにがっつくアイドル。
時と場合によるが、無難にウケを狙うのであれば前者に決まっている。
ただ、灯也としては後者の雫も可愛らしいと思ってしまったわけで。
悪気はなく『似合ってるぞ』と送ったのだが、雫からは怒りマークのついたスタンプが送られてきたのだった。
『でさ、串カツでお腹がいっぱいなのに、うな重まで出てきて。でも食べなきゃいけないじゃん、プロとしてはさ。あんな美味しそうな物を残すとか、あり得ないし』
その日の夜、灯也と雫は通話をしていた。
雫は現在、全国ツアーの開催地である地方のホテルにいるようで、自室だからと寝転がりながら通話をしているらしい。
話題は主に、雫が訪れている地方の話だ。今はもっぱら、食べ物の話になっているが。
「メシテロ画像ばっかり送ってくるから、てっきり嫌がらせのつもりかと思ったぞ」
『違うって。がんばった自慢だから』
「なら偉い偉い。でもプロなんだったら、串カツの方を我慢するべきだったと思うぞ。あれはカメラが回ってなかったんだろ?」
『そうだけど、食べたかったし。でも、明日はお腹が出る衣装なのに大丈夫かな……』
合わせてライブ円盤用のメイキング映像も撮影しているようで、串カツの方はそちらで使われるとのこと。
カロリーを気にし始めた雫の気持ちを紛らわせる目的で、灯也は今日の出来事を話すことにする。
「実は今日、姫野たちの曲を歌ったよ」
『え?』
「【君だけのプリンセス】、だったか。うちのカラオケに来た軽音部の女子たちの前で歌わされてさ。ライブで聞いたくらいだったけど、金井とのデュエットだったからそこそこ歌えたよ。ま、半分くらいは罰ゲームみたいなノリだったけどな」
『ふーん』
これは何やら、思っていた反応と違う。
雲行きが怪しいというか、声からは雫の不機嫌指数が高まったのを感じた。
「ま、この話はいいか」
『いやいや、念願のハーレムが体験できたみたいでよかったじゃん。金井さん、だっけ。やっぱり仲良いんだ』
「といっても、話したのはライブ以来――いや、ゲーセンで会って以来だけどな。……もしかして、金井と何かあったのか?」
『私自身には何も。面識どころか、話したことも多分ないし』
「その割には、ご機嫌ナナメになっているような気がするんだが」
『気のせいじゃない?』
「そうか、ならいいんだ」
『ちっ』
「おい、アイドルが舌打ちなんかしていいのかよ……」
『舌打ちなんかしてないから』
「嘘つけ」
『仮にしていたとしても、今はオフモードの私だし』
「まさに究極のヘリクツだな……。まあ、知っているのが俺だけなら問題ないか」
『ちっ』
「だからって堂々とやるのはどうかと思うぞ!?」
『どうもすいませーん』
この感じだと、明日の登校日にゲーセンへ行く約束をしたことは、黙っておいた方がよさそうだ。雫はライブの関係で欠席する予定だし、灯也は余計なことを口走らないようにした。
と、その辺りでスマホ越しに、何やらカサカサと衣擦れするような物音が聞こえてくる。
不思議に思った灯也は、耳を澄ませてみたのだが、
『んっしょ』
「あのー、姫野さん」
『なにー?』
「いや、なにをしているのか聞きたいのはこっちなんですが」
『どうしていきなり敬語?』
「その、俺の気のせいでなければ、衣擦れ音といいますか……」
『あー、半身浴の準備ができたから、今脱いでるとこ』
「ぶふっ!?」
思わず吹き出した灯也に対し、雫はやれやれとでも言いたげなため息をつく。
『あのね、いちいち変な反応しないでよ。べつにビデオ通話しようってわけじゃないんだし』
「そうは言ってもな……」
――じゃぱー……
動揺する灯也をよそに、お湯をかけるような音が聞こえてきた。
そしてそのまま、入浴したのがわかる着水音が耳に届く。
「…………」
『べつに卑猥な妄想をするぐらいは勝手だけどさ、せめて話し相手は続けてほしいなー』
「いや、俺は卑猥な妄想とかしてないって」
『はいはい、貴重な入浴ASMRを堪能してくださいな』
「馬鹿にしやがって……」
とはいえ、実際に妄想が捗っているのだから仕方ない。
雫は浴室にいるからか、その声はエコーがかかって反響するように聞こえるし、彼女が動く度にちゃぱちゃぱと水を弾くような音が耳に届いてきて、心地いいのもたしかだ。
(にしても、姫野はこういうところもサバサバしているというか、隙があるというか……)
以前から思っていることだが、雫は素の性格だとサバサバしていてなおかつ隙だらけだ。
たまのスキンシップは一般的な男子だと勘違いするレベルだし、距離感がおかしいと思うことが多々ある。
ただまあ、それに関しては灯也が男――異性として見られていないことが要因の一つだとも思うので、あまり強く出られないわけだが。
とはいえ、灯也だって舐められっぱなしでいるのは癪なわけで。
「ならずいぶん余裕そうな姫野に質問だけど、今はタオルとかつけてるのか?」
『一人でいるのにタオルをつけるわけないじゃん。普通に全裸だよ』
「あ、あのなっ、そこはもう少しオブラートに包むというか、恥じらいを持てよ!」
灯也としてはここで多少の恥じらいを期待したのだが、狙いは大きく外れてしまった。
仮にも男友達と通話中だというのに、雫は心底くつろいだ様子で息をつく。
『ふぅ~。結構疲れてるから、そういうのは大目に見てくださーい』
「だったら俺との通話を切るとかさ」
『それもなんだかなーって感じ』
「ああもういい、わかった。どうあっても俺が折れるしかないみたいだな。ここは無心に徹してみせるさ」
『あはは、無心になったら話せないじゃん』
「このマイペース女め……」
『それ悪口のつもり~? マイペースって、私的には褒め言葉なんだけど~』
「じゃあ、素顔は隙だらけサバサバ女」
『お、今のは少し効いたかも』
雫の有効範囲が灯也にはよくわからない。
「あとは……いや、いい。考えてみれば、姫野にあんまり悪いところはないしな」
『お~、デレた。珍しいね。今のは癒やしになったかも~』
「それは結構。でも半身浴をしながら寝たりするなよ? ライブがあるんだし、風邪を引いたら洒落にならないだろ」
『だね~。そろそろ出よっかな』
「ああ、そうしてくれ」
『でも電話は切らないでねー。今日は寝るまで付き合ってもらうから』
「はいはい」
その後、半身浴を終えた雫とはしばらく他愛ない話を続けたのち、日付が変わる前には通話を切るのだった。
◇
夜が明けて登校日。
事前に聞いていた通り、雫は欠席した。
連休の合間だからか、校内にはどこかぼんやりした空気が漂っており、灯也もいまいち集中を欠いたまま授業を受ける。
そして放課後を迎えると、灯也は修一や夏希とともにゲームセンターに集まった。
「にしても、登校日って意味ないよなー」
気のせいか、少し日焼けした修一が楽しげに言う。
現在は格ゲーで修一と夏希が戦っている最中であり、ギャラリーの灯也は修一の隣で観戦していた。
「ゴールデンウィークといっても、祝日が固まっているだけだからな。そっちは楽しい連休を過ごしているみたいで何よりだけど」
「デートはお金がかかるもんで、お財布事情は寂しいことになってるけどな。オレもやっぱりバイトを増やそうかな~――って、あっ、くそ!」
修一は居酒屋のキッチンスタッフとして働いているが、あまりシフトを入れてもらえないらしく、いつも金欠を嘆いている。
一方、夏希の方は親に溺愛されているからか、小遣いだけで十分にやり繰りできているようで、バイトの必要はないらしい。あれだけの推し活グッズを買ってもなお金銭に余裕があるとは、すごい格差である。
「雑魚過ぎて話にならん。トーヤ、その浮かれ野郎と代わりなさい」
向かいの筐体に居座る夏希がつまらなそうに言う。
一方的にボコられた修一は肩を落としながら席をどき、代わりに灯也が腰かけた。
「少しはうちを楽しませなさいよ?」
夏希が顔を覗かせながら挑発してくるが、灯也は冷静に頷くのみ。
試合が始まると、一方的な展開になった。
流麗なコンボが決まり、見るも鮮やかなほどにHPバーが削れていく。
そして瞬く間に――K.Oの文字が表示された。
勝ったのは、またもや夏希だった。
「ちょっ、弱すぎ。嘘でしょ?」
「どうしたんだよ格ゲーマスター!」
「ダメだ、全然集中できない……」
「「なにがあった……」」
明日は、三日ぶりに雫と会う予定だ。
ただそれだけのことが楽しみで、灯也は目の前の対戦に集中できずにいた。
「悪い、今日はもう帰るわ」
「お、おう」
「気をつけて帰りなさいよー」
心配そうな二人に見送られながら、灯也はとぼとぼとゲームセンターを後にする。
「……そんなに浮かれているつもりはないんだけどな」
ぼそりと独り言を呟きながら、灯也はスマホを取り出した。
昼に送った雫へのメッセには既読が付いておらず、ため息交じりにスマホをしまう。
灯也は自分の中で、雫の存在が日に日に大きくなっていることを自覚していた。
でもそれはおそらく友達としての話で、恋愛的な意味合いじゃないはずだ――と。
灯也は自己完結をして、ゆっくりと帰路に就いた。
◇
翌日の昼過ぎ。
待ち合わせ場所は、古着屋が多いことで有名な街。
雲一つない晴れ空の下。駅を出た灯也は、そわそわした気持ちで辺りを見回した。
けれど、雫らしき人物の姿はまだ見えない。代わりに、オシャレな身なりの若者は多く目に付いた。
ちなみに灯也はグレーのジャケットにチノパンを合わせた無難なコーデで、目立ちはしないが周囲から浮くほどでもない見栄えである。
つんつん、と。
肩をつつかれたので振り返ると、そこには眼鏡をかけた女性が立っていた。
化粧っ気はなく、黒いブラウスにデニムのスキニーパンツを合わせて、長い髪を大雑把にポニーテールで結んだその女性は、スタイルが良いものの、どこか地味な印象を与えてくる。
これは人違いか、それとも何かの勧誘かと思ったのだが、
「おまたせ」
淡々と告げられたのは、そんな言葉。
まさか。
「……姫野、なのか?」
灯也が半信半疑で尋ねると、目の前の女性――姫野雫はこくんと頷いてみせる。
驚く灯也に構わず、雫は「行こ」と告げて歩き出す。
「なんというか、すごいな。まるで別人みたいだ」
「これなら私だってバレないでしょ?」
「ああ……声をかけられても、すぐにはピンとこなかったよ」
なるほど、前回のハンバーグレストランの際に注目されたことを気にしてのことらしい。
目の前にいる雫は、地味で普通の女性といった感じだ。
マスクはしていないが、表情や佇まいがいつも以上にダウナーな雰囲気を醸し出していることで、存在感が希薄に思えた。
でもよく見れば顔立ちは整っているし、スタイルも良いことに変わりはない。なんともすごい変装っぷりである。
「今日はちょっと本気を出してみたの。ベースメイクから血色の悪さを意識したりとかね」
「メイクで様変わりするものなんだな。俺も一瞬誰だかわからなかったくらいだ」
「なら狙い通り。容姿だけじゃなくて、立ち居振る舞いも意識したしね」
「やっぱり姫野は、女優の才能もあるんだろうな」
「どうかな。その辺りも、自信がないわけじゃないけど?」
その微笑みは自信を感じさせ、派手さはないのに目を奪われる。
彼女はどこまで多才なのか、灯也は驚きつつも気になっていたことを口にする。
「でもそれじゃあ、これからは今みたいな感じが普通になるのか?」
「ならないよ。さすがに私もすっぴん風メイクで通すつもりはないし。いつものオフだって、あれはあれで私なりのオシャレをしてるつもりなんだからね?」
「そうか、そうだよな」
灯也の安堵が伝わったのか、雫は苦笑してみせる。
「今は全国ツアーの真っ最中だからさ、何かしらバレるようなリスクは避けたいだけ。やっぱり今日のも、傍から見れば完全にデートなわけだし」
「うっ……」
その響きに灯也は言い知れぬ強迫観念を覚えるが、雫は鼓舞するように肩をぶつけてきた。
「瀬崎くんがそんな顔をする必要はないって。万が一にバレたって、そっちにはなるべく被害が出ないようにするしさ」
「いや、俺自身のことを心配しているわけじゃなくてだな……。しつこいようだけど、姫野はそれでも俺と息抜きをしたいんだよな?」
「うん、したい。今はそれが私にとって、一番やりたいことだから」
はっきりと言い切った雫の顔には、決意のようなものが表れている気がした。
彼女が今何を思っているのか、その真意を掴むことはできない。
ただ、やはり全国ツアーというのは、雫のようなトップアイドルでもプレッシャーがあるのかもしれないと思った。
商店街の通りを歩いていても、誰もが雫に気を留めることなくすれ違っていく。
(すごいな、誰も振り返ったりしないなんて)
灯也は雫の変装術に感心しつつも、普段は来ることのない街並みを眺める。
人通りは多いものの、どこかノスタルジーな雰囲気を漂わせる古い建物がちらほらあって、この街ならではの空気感を味わうことができた。
「姫野ってさ、俺と話すようになる前はオフとかどうしてたんだ?」
「言わなかったっけ。一人で外をぶらついたり、部屋にこもって過ごすことばかりだったよ」
「変装慣れしてるもんな。話してるとつい忘れそうになるけど、姫野って有名人なんだよな」
「まあね。そこは変えようがないから、否定する気もないよ」
雫の口ぶりからだと、感情の機微が読み取りづらい。
素の状態は基本的に脱力したようなサバサバした空気感なので、やっぱり考えていることが掴みづらいのだ。
けれど、灯也は雫のそういうところが嫌いじゃなかった。
自然体で、なんというか自分を貫いている気がしてかっこいいとさえ思えていた。
だから灯也も、なるべくありのままの自分で接していきたいと思うのだ。
「着いたよ、ここ」
言われて足を止めた先には、趣がある喫茶店があった。
どうやらここが、最初の目的地らしい。
「古着屋じゃないんだな」
「買い物の前に、まずは糖分補給をしようと思って」
「そりゃいいな」
と言いつつも、灯也はその小洒落た佇まいを前にして、若干の緊張感を覚えるのだった。
「いらっしゃいませ、二名様ですね。お席へご案内します」
木造の店内はゆったりとした雰囲気があり、女性客の姿が目立つ。
おすすめはモンブランとブレンドコーヒーのセットらしく、二人ともそれを注文した。店先のウェルカムボードにも書いてあった通り、モンブランはここの看板メニューのようだ。
注文からほどなくして、ケーキセットが届く。
大きな栗がのったモンブランを見て、雫は目を輝かせた。
「美味しそう……。いただきまーす」
雫はさっそく一口食べてから、幸せそうに頬を緩ませる。
続いて灯也も口にすると、栗のほどよい甘さとなめらかな口当たりが絶妙だと感じた。
「美味いな。見た目ほど甘くないから、男の俺でも食べやすいし」
「だねー。これは人気が出るのも納得だよ」
「この店って、有名なのか?」
「ん? わかんないけど、店の前のボードにはテレビ番組で紹介されたって書いてあったよ」
「そうなのか。全然気づかなかったよ」
灯也もなんとなくは『モンブランがおすすめ!』と書いてあったことに気づいたが、ただそれだけだった。こういうとき、男女で着眼点が違ったりするのかもしれない。
それにしても、
(やけに似合うな、姫野とケーキの組み合わせって)
こればかりは恰好のせいかもしれないが、ブレンドコーヒーもいいアクセントになっている。美人のブレイクタイムという絵面が様になっていた。
「姫野って、コーヒーに砂糖とか入れないんだな」
本来の容姿的には砂糖もミルクも入れそうなものだが、雫は届いたままのブレンドコーヒーを味わっている。
そのことを意外に思って口にしたのだが、雫はなぜだかドヤ顔になって言う。
「最近になって、ブラックもいけることに気づいたんだよね。甘い物と一緒のときには、特にこの苦味が中和してくれるっていうか」
「へぇ」
「まあ、基本的には甘党なんだけど。眠気も覚めるし、朝にも時々ブラックは飲んでる」
「でも食事制限はいいのか? ケーキなんて一番の大敵だろ」
言うのは野暮だと思いつつも、会話の成り行きで聞いてしまう。
すると、雫はドヤ顔のまま言う。
「時々はいいの。我慢するストレスの方が害になることもあるし、特に全国ツアーの間なんかは、甘い物もカロリーが高めな物も全部、臨機応変に気分次第で許されるんだよ」
「許されるって、誰に? マネージャーか?」
「私自身に」
ドヤッと雫が言い切る。
その堂々っぷりが妙に面白くて、灯也は吹き出すようにして笑った。
「あれ? そんなにおかしいことを言ったかな?」
「いや、いいんじゃないか。自分ルールの中にご褒美を組み込むのは、意外と大事なことだと思うぞ」
「でしょ。この前話した京都での『八ツ橋』のこともそうだけど、私も自分ルールを作る方でさ。目標とかご褒美とか、その場限りの気分で決めたりするんだよね」
「あ~、あるある。がんばりを続ける秘訣だよな」
互いに感じ入る会話だったからか、自然と同調し合っていた。
「その言い草だと、瀬崎くんも経験ありそうだね?」
「姫野ほど大層な物じゃないけどな」
「それって、部活に入っていたときのこと?」
「ああ。きつい練習も、終わった後のご褒美アイスを考えたら乗り切れたりとかさ」
今度はすんなりと答えることができた。
すでに互いの内情をある程度は知っているからか、灯也は自分の過去を知られることにあまり抵抗を感じなかったのだ。
雫は「へー、汗だくでへばる瀬崎くんとか見てみたいかも」と興味津々な様子で相槌を打ちながら、モンブランを食べてもぐもぐとしている。
灯也は最後の一切れを口に放り込んだ後、カップが空になっていることに気づいた。
ちらと見れば、雫のカップの中身も空になっていて。
どうやらオシャレな空間を長時間堪能するには、二人はまだ不慣れだったようだ。
「出よっか」
「だな」
二人は顔を見合わせて笑いつつ、レジで精算を済ませて店を出た。
続いて二人は、今日の主目的である古着屋巡りをすることに。
最初は地下に店舗を構える、広々とした内装の店に入った。
個性的な色合いの服や、あえてサイズ感を無視したようなデザインの服もあって、どれがオシャレでダサいのか、灯也はいまいちピンとこないまま眺めていく。
値段は手ごろな物が多く、姿見で合わせたら意外と似合う物もあったりして、客の物欲を刺激するのが上手い手法だと思った。
「ねぇ、これとか着てみてよ」
そう言って雫から手渡されたのは、アロハシャツと縁の広い麦わら帽子だった。
……これは完全に、ネタ枠というやつではないだろうか?
「本気か?」
「本気も本気。瀬崎くんなら着こなせると思うよ。――あ、このかっこいいTシャツも中に着てね」
真顔で雫に言われ、灯也は半信半疑ながらも試着室で着替えてみる。
(いや、これは違うだろ……)
姿見で着替えた状態を眺めてみても、売れないお笑い芸人みたいだなという感想しか思い浮かばない。
それに合わせたインナー――おかしな笑顔がプリントされたTシャツが、ボタンを開けたアロハシャツから覗いているのが妙なアクセントになっていて不気味だった。
「おい姫野、これはさすがにないと思うぞ」
カーテンを開けて呼びかけたものの、雫の姿は見当たらない。
「姫野?」
灯也がこんなおかしな恰好で一人きりにされた気まずさを感じていると、隣の試着室のカーテンが開き――
「呼んだ?」
現れたのは、同じくアロハシャツに麦わら帽子、そして笑顔プリントのTシャツを合わせた雫だった。
違いといえば下のパンツと、あとはサングラスをかけていることぐらいだ。サングラスがあることで多少はオシャレっぽくも見えるが、やっぱりダサいことに変わりはない。
「「ぷっ」」
同時に吹き出し、互いを牽制するように睨み合う。
「さすがに私の方がマシだと思うんだけど?」
「いや、どっこい――どころか、そっちの方が痛さは上だろ。サングラスなんて合わせているから、マジで勘違いしているように見えるし」
「いやいや、瀬崎くんの方がインナーの変なTシャツが目立っていてダサいって」
「やっぱり変なTシャツなんじゃないか! さっきはかっこいいとか言って騙したな!」
「あー、もうやめやめ。こんなペアルックで街を歩いていたら、いろんな意味で目立っちゃうよ」
「ったく、ペアで着るならもう少しマシな物があっただろ……」
などと言いつつ、二人は着替え直す。
ただ、安かったのもあり、おかしな笑顔がプリントされたTシャツだけはお互いに購入した。
その後もいくつかの店舗を回って、割と良さそうな服を何着か購入する。
なかなかの数を買ったが、古着だからか出費は思ったよりも少なかった。
四店舗目を出たところで、雫がスマホを確認してため息をつく。
「はぁ、そろそろ行かないと」
「仕事か」
「うん。ラジオの収録があるんだ」
「じゃあ、駅に向かおうか」
「ごめんね」
さらりと謝られたことで、灯也はすぐさま首を左右に振る。
「謝る必要はないって。気にするなよ」
「ありがと」
日が傾く中、二人の足は駅へと向かう。
自然と口数は少なくなり、時間帯のせいか肌寒さを感じる気がした。
駅に着いてからはホームに続く階段を上がると、電車はちょうど出たところだった。
「あちゃー、ツイてないね」
「仕方ないさ、向こうの椅子が空いてるし座ろうぜ」
二人はひとまず並んで椅子に座る。
電車が発車した直後だからか、周囲に人の姿はない。
この暇な時間をどう過ごそうかと思ったところで、灯也はちょうどいいネタを見つける。
「姫野、あれを見てみろよ」
灯也が指を差したのは、近くの雑居ビルに立てかけられた広告看板。
そこにはアイドル・姫野雫が映っており、ホワイトウォーターのペットボトルを差し出しながら、弾けるような笑みを浮かべていた。
「え、やらせたがり?」
案の定というか、雫本人には渋い顔をされてしまう。
「いや、ただいたから教えただけだよ。ホワイトウォーターを飲んでることが多いとは思ったけど、そっちのキャンペーンガールもやっていたんだな」
「結構CMでも流れてるんですけど」
「へぇ、そうなのか。今度チェックしておくよ」
「ほーい」
雫は気の抜けた返事をしたかと思えば、おもむろに眼鏡を外してこちらを向き、
「『一緒に甘酸っぱくなろ?』」
このセリフは、広告看板のキャッチフレーズだ。
ただ、目の前の雫はあまりにも脱力した状態で言うものだから、シュールなギャグっぽく見えてしまった。
「ぷっ……おい、やめろ。今のがバレたら事務所とかスポンサーに怒られるぞ」
「瀬崎くんがやらせたんじゃーん」
「いやいや、せめてやるならちゃんと笑顔を作れって。メイクのせいもあって、全然看板とは違う感じになってるぞ」
「ムリ~、恥ずかしくて出来な~い」
「そんなタマじゃないだろ」
苦笑しつつも灯也が言うと、雫が反論するように肩をぶつけてくる。
そんな気軽なやりとりがなんだかこそばゆくて、灯也は自然と笑みを浮かべていた。
「瀬崎くんって、よくわかんないタイミングで笑うことがあるよね」
「それはお互い様ってやつだな」
「す~ぐそうやってごまかそうとする」
「俺の場合、笑うのは大抵楽しいときか微笑ましいときだよ」
「ふーん」
「そういう姫野はどうなんだ?」
「言わなーい」
「なんだそれ」
呆れて再び苦笑する灯也を見て、雫はぼそりと呟くように言う。
「実際のところ、自分でもよくわかんなくて。愛想笑いばっかりが上手くなったせいで、あんまり意識してこなかったよ」
「べつにいいんじゃないか、それでも」
「テキトーだなー」
「いや、本心からだよ。気づいてないかもだけど、姫野って俺といるときも結構笑うからさ」
「あっそ」
なぜだか再び肩をぶつけられて、灯也は微笑ましい気持ちになった。
そうこうしているうちに電車がやってきて、二人で乗り込むのかと思いきや――雫だけは乗らないようだった。
「私、逆の電車だから」
なるほど、灯也を見送りたかったらしい。
「そうか。じゃあ、また今度だな」
「うん、また今度。今日も良い息抜きになったよ、ありがと」
その言葉と、どことなく寂しそうな表情に、灯也は違和感を覚える。
「大丈夫か?」
「え、なにが?」
「いや、いつもと違う気がしてさ」
「ふふ。それ多分、気のせい。――じゃあね」
そこで電車のドアが閉まり、手を振る雫の姿が遠くなっていく。
寂しそうな表情が視界から消えても残っている気がして、灯也はやるせない気持ちになった。
雫は先ほど、『良い息抜きになったよ』と言っていた。
それはつまり、それだけ気が詰まっていたということだ。
何より別れ際、灯也が心配をしたときにも『多分、気のせい』と雫は笑ってみせたが、あれは雫なりのSOSだったのではないかと勘繰ってしまう。
考えすぎかもしれない。ただ、束の間の休息が終わることを寂しがっていた可能性もある。
けれど、やはり気になるものは気になるわけで。
このままでいいのか、何か力になれないだろうか。
気持ちは急いているのに、なかなか方法が思い付かない。
灯也はアイドルの姫野雫にはとくべつ興味がないままだし、彼女の仕事の事情だって詳しくはわからない。
だが、そういう灯也だからこそ、雫は一緒にいて居心地の良さを感じてくれているのかもしれないし、息抜きの相手に選んでいるかもしれないのだ。
まだ素顔の雫が見せていない感情が、他にあるとするならば……
(……そういえば、叫んでいる姿は見てないな)
雫がこれまでにも何度かやっていたという、カラオケでのシャウト。
カラオケで漏れ聞こえていたときには目にしたが、あれは盗み聞きしたようなものだ。
仮にアレをやることが、雫のガス抜きになるとしたら……アレを灯也が受け止めることで、何かしらの意味が生まれるかもしれない。
いや、これはただのエゴだ。
実際には、灯也が雫の本心を受け止めたいと思っているだけに過ぎない。
(――だからどうした。ここで動かなきゃ、また俺の嫌いな現状維持になるだけだろうが)
灯也は部活をやめて以来、何かのために積極的な行動をすることを避けてきたが、そういう自分を好いていたわけじゃない。
むしろ嫌っていた。どうにかして脱却したいと、何かきっかけを求めていたくらいだ。
それも雫の素顔を知ってからは、少しずつ前向きになってきたような気がする。雫とは互いの波長が合ったこともあり、気ままに息抜きをする関係はプラスに働いている。
でも、まだ足りない。おそらく足りないのは、他者に踏み込もうとする勇気と覚悟だ。
そしてそれを示すのは、今このときなんじゃないか――と。
灯也は実感するなり覚悟を決めるとともに、思考を巡らせる。
「でも、問題はどうやって言い出すかだな」
電車の窓から眺める夕焼けは真っ赤に輝いていて、見ているだけですぐに動けと急かされているような気分になる。
事前に聞かされていた雫の予定では、明後日はライブツアーの三か所目とのことで、明日の夜には車で移動するとのことだ。
つまり灯也が行動を起こすなら、明日の夜までに、ということになる。
でもたしか、雫の予定は明日の夕方までぎっしり埋まっていたはずだ。
となると、空いているのは午後六時から八時までの二時間程度。
灯也はスマホを取り出して、すぐさまメッセを送る。
すると、数分ほどで雫から『わかった』と返答がきた。
「よし」
気合いを入れるように呟いてから、握り拳に力を込める。
そうするだけで、自分でも驚くほどにやる気が満ち溢れた。
今はただ、彼女の――姫野雫のためになることをしたい。
とにかくその一心だった。