君のガチ恋距離にいてもいいよね? ~クラスの人気アイドルと気ままな息抜きはじめました~
第十一話 わかりたい気持ち
「ごめん、遅くなった」
「おつかれ。気にするなって」
午後七時過ぎ。
収録が長引いたという雫と都心部の駅前で合流し、並んで歩き出す。
白いパーカーにショートパンツ、そしてキャップ帽にマスクを付けた変装状態の雫は、夜の街にも十分に溶け込んでいた。
灯也の方も古着屋で買ったデニムジャケットとパーカーを合わせたストリート風の恰好をしているからか、変装状態の雫と並んでいても馴染むようなコーディネートである。
「瀬崎くんの服がいつもと違うから、ちょっと変な感じ」
「似合ってないか?」
「ううん、似合ってるよ。かっこいいじゃん」
さらっとそんなことを言われて、灯也の方は照れてしまう。
ふとそこで、雫が有名なアパレルブランドの手提げ袋を持っていることに気づいた。
「それ、買ったのか?」
「違うよ、今日の収録で着た私服が入ってるだけ。現場にはこの恰好で行かないから」
「わざわざ着替えさせて悪いな。でも、今日はどうしても会いたかったんだ」
灯也の言葉に対し、雫はマスク越しでもわかるぐらいにニヤついてみせる。
「なにそれ、口説いてるの?」
「いや全然。むしろ純度百パーセントの本音だよ」
「やっぱ口説いてるじゃん」
「違うって。今カラオケに向かってるんだけどさ」
「私あんまり時間ないよ? 九時には迎えの車に乗らなきゃだし」
「わかってる、歌がメインってわけじゃないんだ」
「うん?」
いまいち雫は事情が把握できていない様子だが、それも無理のないことだ。
何せ、灯也が事前に伝えたのは、『明日の出発前、ちょっと時間をもらえないか?』という内容だけで、それに二言返事で雫が『わかった』と答えただけなのだから。
勿体ぶっても仕方がないと思い直して、灯也は雫の方へと向き直る。
「じつは、姫野にストレス解消をしてほしくてさ。最近いろいろと忙しいみたいだし、普通に息抜きをするぐらいじゃ発散しきれていないんじゃないかと思ったんだ」
「それでカラオケ?」
「ああ。……その、思いっきり叫べば発散になるんだろ?」
「――ッ」
灯也が何を言わんとしているのか、雫は理解したらしい。
瞬時に顔を赤くして、バツが悪そうに視線を逸らした。
「違ったか?」
「ちが――くはないけど、その話はあんまり掘り下げないでほしい」
「今日は俺も付き合うからさ、思いっきり叫んでくれよ」
灯也がそこまで言ったところで、雫は足を止める。
そして眉間にしわを寄せ、不機嫌そうにポケットへ両手を突っ込んだ。
「ちょっと待って、普通に嫌なんだけど」
「どうして?」
「そんなの、恥ずかしいからに決まってるじゃん。どうして同い年の男の子に子供っぽく癇癪を起こしている姿を見られなきゃいけないわけ? それどんな罰ゲーム?」
どうやら雫はご立腹の様子。これは選択を誤ったかもしれないと、灯也は今さらながらに思った。
「悪い、怒らせるつもりはなかったんだ。でも少し考えればわかることだったな、ごめん」
「だいたい、瀬崎くんはさ――あっ」
雫の怒りが冷めやらないかと思いきや、突然ぎょっとした表情になり、灯也の手を引いて歩き出す。
「お、おい、姫――」
「名前は呼ばないで」
雫は冷めた声で遮ると、そのまま路地裏の脇道に入った。
「どうしたんだ?」
「記者の人がいた。最近私の周りをうろついてるんだ。多分、全国ツアー中だから話題になると思ってるんだろうけど……さては収録スタジオを嗅ぎつけてきたな」
遠くの方に姿を見せたのは、思いのほか若い女性だった。
灯也からすればなんてことはない、どこにでもいるような人に見える。手にカメラを持っているわけではないし、本当に記者なのかも疑わしいくらいだ。
「こっちに来そう」
「本当に記者なのか?」
「うん。漫画じゃないんだし、そんな露骨に『記者です』って見た目はしてないよ。――って、うわ、やっぱこっちに来てるし……」
雫の顔に焦りと緊張が浮かぶ。
まだ距離はあるが、確かに女性は同じ脇道に入ってきた。
あの女性が本当に記者だとしたら、見つかるわけにはいかないだろう。
あちらはまだここにいるのが雫だとは気づいていないようで、辺りをきょろきょろしながらスマホをいじっている。
ここで灯也たちが取れる手段はいくつかある。早足になって一気に距離を取るか、このままゆっくりと進んで大通りで人混みに紛れるべきか。無難なのは後者だが……――
「――あっ」
そのとき、雫が情けない声を上げたかと思えば、躓いて前方に転びそうになる。
灯也は咄嗟にその手を引き寄せてから、雫を優しく抱きとめた。
その際、雫が灯也の胸に顔を埋めたことで、帽子のつばが当たって地面に落ちたのがわかった。
彼女の華奢な身体が腕の中に収まっている。温かく、柔らかい。それに良い匂いもする。
危機的状況であるはずなのに、灯也の心境は驚くぐらいに落ち着いていた。
もう記者らしき女性との距離は近い。今から下手に動けば、怪しまれる危険性があるだろう。
灯也は腕の中に収まる雫のことを、覆い隠すように全身で抱きしめた。
体格差のおかげで雫の顔は周囲に見えない状態となっているが、まだ足りないとばかりに灯也は自らの顔を彼女の頭頂部に埋める。
まさに密着状態。傍から見ればキスの延長行為に映るかもしれないが、実態は灯也の表情から身バレ防止のカモフラージュだと悟られる危険性を避けるためだ。
ドクン、ドクン、と鼓動の鳴る音がする。
これはどちらのものか、灯也にはわからない。
ただ、記者らしき女性も一般カップルの濃厚な行為中と判断したのか、道を引き返していくのが遠ざかる足音でわかった。
「「…………」」
だがそれでも、お互いに言葉は発しない。
それにどうしたことか。少なくとも今、灯也は離れたくないと思ってしまっている。
嗅覚や触覚――そして本能が、この行為は理屈とかそういうものを度外視して、単純に気持ちが良いものだと訴えかけてきているようだった。
けれど、物事には終わりというものがやってくる。
胸に顔を埋めていた雫が、背中に回していた手をぎゅっと力強く握り締めたことで、灯也は我に返ったのだ。
「……もう行ったみたいだな。大丈夫か?」
「――ぷはぁっ」
胸から顔を離した雫は、酸素を欲するようにマスクを外す。
よほど息苦しかったのか、その顔は真っ赤である。
間近で息を荒くする様は、妙に色っぽくて驚かされた。
「悪い、そんなに強くしたつもりはなかったんだが」
「ハァッ、ハァッ……ばか」
「悪いって言ってるだろ。でもとりあえず、あの女の人は遠くに行ったみたいだぞ」
「転びかけた私が百パー悪いけど、それでも万が一、声をかけられたらどうするつもりだったの? 脇道に入ったからって抱きしめ続けるのは悪手でしょ、完全に」
「すまん……」
咄嗟の判断とはいえ、確かに悪手だったかもしれない。
心の底から反省する灯也を見たからか、雫は背中を向けて深呼吸をする。
「ま、まあ、結果オーライだからいいけどね。一応ありがと。次からは気をつけてよ」
どうしてだか早口になって言い放つ雫に対し、灯也は頷いて返す。
だが、『転びかけた姫野が百パー悪いんじゃなかったのか……?』と灯也が疑問に思うぐらいには、なぜだか雫はすごい剣幕になっていたように思えた。
ゆえに、灯也は最後の抵抗として一つだけ尋ねることにする。
「ちなみにさっきみたいな場合、どうするのが正解だったんだ? 走って逃げるわけにもいかないし、立て直した後に歩いているだけだと、あっちに追いつかれたかもしれないけど」
「知らない」
「そうですか……」
雫はマスクを付け直してから、横目にちらちらと視線を向けてきて、何やら気まずそうに口を開く。
「ところで、話を戻すけど。瀬崎くんに一個質問をしたいの」
「ああ、なんだ?」
「瀬崎くんは自分の大事な物を否定されたときとか、すごいストレスを感じたときって、どういう風に対処してる?」
「俺は…………そうだな、少し前までは公園に行ってたよ。バスケのゴールがある場所なんだけどさ」
「じゃあ、そこに連れて行って」
「え? いや、結構遠いぞ。近所とかじゃなくて、ここからだと電車で二十分以上かかるし」
「いいから。今の気分的に、瀬崎くんのストレス発散法を試してみたいの」
「でも、ボールだって持ってきてないしなぁ」
「そこのデパートで買えばいいよ。私が買うから値段は気にしないで」
「セレブはこういうときにすごい行動力を発揮するよな……」
「なんとでも言って」
というわけで、雫の言う通りにデパートのスポーツコーナーでボールを購入し、空気まで入れてもらってから電車に乗る。
混み合った電車の中では再び密着する形になったが、特に雫は何も言わなかった。
何度か電車を乗り換えることニ十分ほど。
周囲に人も少なくなってきたところで、ようやく目的の駅に着いた。
ホームに降りると、雫は先ほどまでいじっていたスマホをしまう。
「マネージャーに連絡したら、一時間後にこの駅の前まで車で迎えに来てくれるって」
「そうか」
「なんか緊張してる?」
「いや、そんなことはないよ」
灯也がこの辺りに来るのは、実に半年ぶりのことだ。
周囲は閑静な住宅街となっており、時間帯もあってか人通りが少ない。ここから大通りの方に五分ほど歩くと、件の公園が見えてくるのだが、灯也はあまり乗り気じゃなかった。
「瀬崎くんが嫌なら、私はここで時間を潰してもいいけど」
嘘か本音かはわからないが、雫は爪をいじりながら言う。
「大丈夫だ。せっかくここまで来たんだし、行こう」
「ほーい」
傾斜のついたコンクリートの地面を歩くこと五分。
大通り沿いにもかかわらず、木々に囲まれた広めの公園が見えてきた。
敷地内には高いフェンスに囲まれたバスケットコートがあり、ゴール自体が二基ずつ向き合う計四ゴールのコートは、運良く無人だった。
「へー、都内にこんなところがあるんだ。穴場じゃん」
「すごいだろ、照明もあるしな。欠点といえば他のプレイヤーが集まりやすいことぐらいなんだが、今日は運良く俺たちの貸し切りみたいだ」
コート外のベンチに荷物を置いてから、雫はマスクを外してボールを片手に、コート内へと入っていく。
「瀬崎くんはここでバスケをして、ストレス解消をしてたんだよね?」
「ああ。部活の試合で上手くいかないときとか、反省点が見つかったときにはよくここへ来て、シュート練をしていたよ。たまに大人とか年上相手に試合をしたこともあったな」
「なるほど、ここは瀬崎くんの青春の地ってわけだ」
「恥ずかしい言い方をするなよ。まだカラオケのことを根に持ってるのか?」
「うるさいな――っと」
文句を言いながら、雫が両手でシュートを打つ。
なかなかに綺麗なフォームだが、ボールはリングに掠りもせず落ちた。
「へぇ、けっこう綺麗なフォームじゃないか」
「ちょっと、感心してないで教えてよ」
「俺もやるのか」
「当たり前じゃん」
雫に促され、灯也も渋々上着を脱いでコートに入る。
灯也が端で軽くストレッチをしている間にも、雫は果敢にシュートを打っていた。
「なんか、授業でやるときよりも上手くいかないんだけど。特にドリブルとか」
「ここは土面と砂利だからな。それにボールが新品だから、使いづらいのも当然だ」
雫の靴はスニーカーなので、その点は問題ないだろう。
あとは肝心のフォームだが、少々力んでいるようにも見える。
「よし、ストレッチはこんなもんか。――ちょっと触るぞ」
「あ、うん」
灯也は断りを入れてから、雫の背後に回って腕に触れる。
「まず、肩と肘に力が入りすぎだ。あとはちゃんと足腰を連動させる意識でゴールを見て――放つ」
雫が言われたタイミングでシュートをすると、ボードに当たってそのままゴールした。
「わあ、ほんとに入った」
嬉しそうに振り返ってくる雫との距離が近くて、灯也は思わず視線を逸らしていた。
意識を他方に向けたからか、灯也はいつの日か親と一緒に遊びに来ていた頃を思い出して、懐かしい気分になる。
「瀬崎くん?」
「ん、ああ、すごいじゃないか。センスがあると思うぞ」
「褒め方が軽いなー。どうせ私は体育の授業レベルだよ」
雫はボールを拾ってくるなり、はいと灯也に手渡してくる。
「え、俺はいいよ」
「私のために、見本を見せてよ」
「見本と言っても、俺は片手でしか打たないぞ?」
「それでいいから」
渋々灯也がフリースローを打ってみせると、ボールはリングに当たって弾かれた。
「ぷっ」
「おい、ひどいじゃないか。プロだって成功率は七割ぐらいなんだぞ」
「ごめんって」
口では謝罪しているが、どことなく愉快そうなのが隠せていない。
少々イラッとした灯也は、再びフリースローを放つ。
すると、ボールはリングに掠りもせず、ネットだけを揺らしてゴールに吸い込まれた。
「おー、すごいじゃん」
「ま、これでも元バスケ部だからな。余裕ってもんだ」
「ふふっ、すごいドヤ顔。本音はどうなの?」
「入ってよかった……いやほんとに」
体育の授業でもバスケはやる通り、半年丸々ブランクがあるというわけじゃない。
ただ、こういう『外しちゃいけないシュート』を打つ機会は、ひどく久しぶりのような気がした。
もっとも、今回のシュートを外しちゃいけないワケは、単に外すと格好がつかないというだけのプライド面が理由なのだが。
「瀬崎くんって、結構カッコつけだよね」
言いながら、雫はシュートを打つが外れる。
「自覚はあるよ。女子の前だと特にな」
「正直なのはポイント高いよ」
「そのポイントって、高いとなんか意味があるのか?」
「モテる」
雫はドヤ顔で言い切ってから再びシュートを打つが、やはり外れる。
「姫野相手にモテてもな……」
「ひどっ。私はこれでも、国民的アイドルとか言われてるんですけど?」
「そうだったな。でもやっぱり、付き合えない相手にモテてもなぁ」
「非モテの考えだね。女の子から褒められるだけでも有り難いと思わなくっちゃ」
「非モテで結構。べつに恋愛とか、大して興味ないしな」
「草食系の非モテは重症だと思うな」
「余計なお世話だ」
ガコン、とボールがリングに弾かれる。
雫は半ばヤケになった様子でボールを拾いに行き、再びゴールの正面に立つなり構えた。
「ストップ。――姫野、また肩に力が入ってるぞ」
「セクハラしていいから教えて」
「言い方最悪だな……教える気が一気に失せたんだが」
すると、雫は躊躇いがちに俯いてみせて、
「……教えてよ、コーチ」
「お、おう……」
正直今の『コーチ』呼びにはぐっときたわけだが、それを素直に言ったら冷やかされる気がしたので、なんとか我慢して指導に集中する。
灯也は雫の手に触れながら、シュートフォームの姿勢を修正しつつ、
「――で、打つ」
灯也が合図を出したタイミングで雫はシュートを打つが、今度は外れてしまった。
「あー、だめだ。動きすぎて汗やばい。ちょっと休憩しよ」
「だな」
コートを出てから、灯也は近くの自販機で缶のホワイトウォーターを二本買い、ベンチで休む雫に手渡してやる。
「ありがと。お金払うよ」
「いいって。それは奢りだ」
「やっぱりカッコつけだ」
「なんとでも言ってくれ」
ゴク、ゴク、と喉を鳴らしてホワイトウォーターを飲む雫の姿は、CMが一本作れそうなほどに瑞々しい魅力があった。
(って、もうCMはあるんだったか)
などと灯也は思いつつ、こちらは立ったまま缶に口を付ける。
ホワイトウォーターのCMでは起こりづらそうなことといえば、夜の公園というシチュエーションぐらいだろうか。それだって、被写体である雫がこれだけ魅力的であれば、一周回って映えるかもしれない。
とはいえ、今の雫はアイドル状態ではないわけだが。
ちなみに当の雫はすでに缶を置き、コートの方を眺めていた。
「外から見ると照明の光が強いかもって思ったけど、コートに入るとやっぱり暗くて見えづらいね」
「だな。明日は大事なライブがあるんだし、間違っても怪我とかはするなよ?」
「わかってるって」
「というか今さらだけど、これって姫野のストレス発散にはなってるのか?」
灯也の問いに、雫は若干疲れぎみのグーサインを向けてくる。
「ならいいんだけどさ」
「瀬崎くんは?」
「え?」
そこで急に質問を返されて、灯也は呆気に取られてしまう。
「発散できてる? いろんなモヤモヤ」
「モヤモヤか……発散は、できてる気がする」
「ほんとにー?」
「ほんとだって。実はここに来たらいろいろと思い出しそうで避けていたんだけど、そういう忌避感みたいなものがどっかにいったぐらいだ」
「そ。ならよかった」
雫は清々しい顔で言うと、大きく伸びをする。
それから嬉しそうに微笑むものだから、灯也はつい見入ってしまった。
「ん、なに?」
「いや、綺麗だなと思って」
「は?」
「へ?」
「「…………」」
しまった。つい、本音が漏れ出てしまった。
失言を悔みながら赤面する灯也に対し、雫はフッと余裕たっぷりに微笑んでみせる。
「平気だよ。私はそういうの、言われ慣れているから。全然気にしなくていい」
「……それはそれで複雑な気持ちになるな」
「なんでよ!? 今せっかく私が流そうとしたのに!?」
気づけば、雫も顔を真っ赤にしていて。
灯也はそれが嬉しくて、吹き出すようにして笑った。
「ねぇ、なんで瀬崎くんが笑ってるの? 普通にムカつくんだけど」
「いや、いいんだ。俺が悪かった」
「全然悪いと思ってないでしょ? あー、ムカつく。私のこと、完全に舐めてるよね」
「今舐めたらしょっぱいだろ」
「それ失言!」
雫が顔を真っ赤にしたまま、ぽこぽこと叩いてくる。
さりげなく痛いのは、彼女がそれだけムカついているからだろう。
「悪かったよ、女子に言うセリフじゃなかった」
「ほんとだよ! 遠慮がなさすぎ!」
「痛い痛い、わかったから」
そこから雫が落ち着くまで、五分ほどかかった。
ようやく冷静になったらしい雫は、ため息交じりに言う。
「あーあ、もうバスケを続ける気分じゃなくなっちゃった」
「でもストレス発散になったなら、目的は達成だろ?」
「そうなんだけど、代わりに新しい悩みができた気がする」
「新しい悩みって?」
「瀬崎くんはさ、男女の友情ってあると思う?」
一般論の話だろうか。雫の問いに、灯也は首を傾げつつも答える。
「あると思うぞ。そう思うのは、俺に異性の友達がいるからかもしれないけど」
「そっか。ならまあ、大丈夫なのかな」
「どういうことだ? もしかして、俺との関係に悩んでいるとか?」
不安に思った灯也が尋ねると、雫はすんなり頷いてみせる。
「当たり前なんだけどさ、知れば知るほど瀬崎くんは男の子で、女の私とは違うんだなと思って」
「たとえば?」
「力の強さとか。あとはさっきの褒め言葉とか、失言とか、同性が相手だったらもう少し上手く受け流せたかなと思うし。……ファンの性別とかは、あんまり気にしないんだけどな」
「まあ、俺だって姫野とスキンシップをするのは抵抗があるしな」
「うん、いろいろ難しいよね。ちょっと怖くなってきたかも」
「俺がガチ恋勢とやらになるんじゃないかって? そもそも、素の姫野相手でもそういう言い方が適用されるのかはわからないけどさ」
「そういう一方的な話じゃなくて――ああもう、いいや。この話はやめよ。考えすぎるのは私の悪い癖だ」
再びモヤモヤし始めた様子の雫に対し、灯也はため息交じりに言ってやる。
「ま、なんとかなるだろ。お互いがお互いを思いやることを忘れなければさ」
「そういう精神論とか綺麗事って、あんまり好きじゃない」
「すぐそういうことを言う。姫野って結構ひねくれてるよな」
「瀬崎くんにだけは言われたくないよ。……でも瀬崎くんとは距離感が合うっていうか、一緒にいると居心地がよくて、すっごく楽なんだよね」
「それでいきなり素直になるんだもんな」
「人を情緒不安定みたいに言わないで」
「はいはい」
雫には明日、大事なライブがある。
だからこの辺りで切り上げるべきだとお互いにわかっているはずなのに、どうにも収まらない状態が続いていた。
「瀬崎くんって、表面上のことは聞いてくるけど、あんまり深くは踏み込んでこないし。それも私が聞いてほしいタイミングだったりするから、いろいろ話したくなっちゃうっていうか」
「それだってお互い様だろ。俺としては、これでも前よりかは踏み込んでいるつもりだしな」
「そうなんだ。でも私が話していないことは多いけど、そっちのことも全然知らないよ」
月明かりの下、微かに照らされた雫の横顔はどこか不安げだった。
「俺のこと、話してほしいのか?」
「……うーん、そうでもないかも」
「どっちなんだよ」
「知りたいけど知りたくないというか、知らなくていいっていうのが正解なのかも」
「なら、それでいいじゃないか。ライブ前だからって、ナーバスになってるだけだろ」
「そうなのかな……瀬崎くんは私に聞いておきたいこととかないの?」
「あるけど」
即答だった。
「なに?」
「姫野はアイドルとして、俺にファンになってほしいのか、それともファンにならないでほしいのか、結局どっちなんだ――とかな」
「…………」
雫は言葉に詰まった様子で俯き、それからしばらくして顔を上げた。
「わかんない」
「は?」
「わかんないって言った。認めてほしいけど、ファンになってほしいわけじゃないというか」
「いや、前にも言ったけど認めているというか、本心からすごいとは思ってるって」
「そうじゃなくて、端的に言うと……」
「端的に言うと?」
雫は俯いたまま、
「……好きにはなってほしいかも」
「へ?」
思わぬ言葉に固まる灯也をよそに、雫は頭を抱えながら首を左右に振る。
「あーっ、だから違うというか! ちゃんとアイドルの私のことも好きだけど、それは決して一番ってわけじゃなくて、素の私の方が大事にされつつ、アイドルの方もいい――だけどファンではない、みたいな」
「めんどくさっ」
「あー、自分でもわかってるから……」
雫は灯也の「めんどくさっ」がクリーンヒットしたのか、頭を抱えたままため息をついた。
だから灯也はその頭をぐりぐりと撫でてやって、
「ま、そのうちな」
「来たよ、現状の保留。そういうところがオジサンくさいって話でさ」
「ほんとに素の姫野って口が悪いよなー。ファンが聞いたらびっくりするぞ」
「ファンの前では絶対言わないから。幻滅とか、させたくないし」
そこはビシッと言い切った雫に対し、灯也はふと気になったことを尋ねてみる。
「そういえば、なんで姫野ってアイドルをやってるんだ? その辺りもふと気になったぞ」
「詳しくは事務所の公式サイトを参照に~っていうのは冗談として。やっぱり、スカウトされたからかな? あとはまあ父親が業界人だったり、教育熱心だった母親から脱却するためだったりとか、いろいろとね」
雫にさらっと早口で語られた情報の中には、驚くような内容があった気がするのだが……灯也が驚いたのは、内容についてではなかった。
「ほんとに驚いた。俺って姫野のこと、ほとんど知らないんだな」
「お互い様だよ。まだまだ知らないこと、いっぱいあると思う。――聞きたい?」
「……うーん、そうでもないかも」
「真似すんなっ」
苛立った雫から脇腹を小突かれて、灯也はむせてしまう。
「あ、あのなぁ、よくその脇腹突きをやってくるけど、結構痛いんだぞ。少なくとも、そういう暴力的なところは直した方がいいと思う」
「大丈夫、瀬崎くんにしかやらないから」
「俺は全然大丈夫じゃないんだが……」
「でも男の子ってこういうの好きでしょ?」
「ハンバーグと同じノリで言われてもな~」
互いにボケてツッコミを入れるようなやりとりが続いたせいで、二人の中で歯止めが効かなくなるのを感じていた。
だから灯也は、そろそろ切り上げるつもりで言う。
「こういうときこそ、お互いに譲歩だ。――俺は姫野のアイドル方面についてもう少し勉強する。姫野の方は悩みがあればため込まないで、話したいことはこれまで以上に話す。……この辺りが双方の歩み寄りとしていい塩梅だと思うんだが、どうだろうか?」
「瀬崎くんは優しいね」
「冷やかしは結構だ。イエスかノーで答えてくれ」
「じゃあ、イエスで。その代わり、私からも提案があるんだけど」
「なんだ?」
雫はそこで立ち上がり、こちらにわざわざ向き直ってくる。
「これからは、互いに下の名前で呼び合おうよ。私たちは息抜き相手であり、友達でしょ?」
雫が淡々と告げたのは、そんな提案で。
灯也からしても、悪いはずはないのだが。
「俺、女友達は苗字呼びしかしたことがないんだよな」
「いいじゃん、これを機に慣れていきなよ――ね、灯也」
「……わかったよ、雫」
その響きは耳に心地よくて、妙にしっくりきた気がしていた。
だからお互いに照れくさく感じても、冷やかすことはない。
その後は二人とも口数が少なくなりつつ、手洗い場で土汚れを洗い流す。
雫はトイレで清楚な私服に着替えてきて、マスクと伊達眼鏡を装着した。
これで二人とも、帰る準備はばっちりである。
「……そういう服も、やっぱり似合うよな」
「あはは、無理に褒めなくてもいいから」
「すみません……」
「それじゃ、駅に向かおっか」
「ああ」
そうして夜道を歩くこと数分。
駅前に着いたところで、黒塗りの高級車が停まっているのが見えた。
「もしかしなくても、あの車か?」
「うん」
「さすがだな……」
運転席に座るのはスーツを着た女性で、こちらを凝視しているのがわかった。あれが雫のマネージャーだろう。
女性というのは予想外だったが、表情の険しさからは想定通りの人柄であることが窺えた。
「じゃあここで。――またねっ、瀬崎くん」
すっかりアイドル状態になっている雫が笑顔で手を振ってきて、灯也も手を振り返す。
この調子だと、雫はマネージャーにも素の状態を見せていないのだろう。それが灯也は少しだけ心配になった。
(……というか、ずっと睨まれてるな。雫はどこまで俺のことを話してるんだろう?)
そうでなければ、これから話すのだろうか。
ともかく雫が車内に入ってからはマネージャーの視線も外れ、車はすぐに発進していった。
車体が見えなくなったところで、灯也は大きく息をつく。
今日はいろんなことがあった気がする。雫とこれまで以上に心の内をさらけ出して、最後には互いを下の名前で呼ぶようになった。
もっとも、下の名前で呼び合うのは二人きりの状況に限るわけだが。
灯也は誤爆をしないように気を付けなければと思いつつ、足取り軽く帰路に就くのだった。