そのほとんどが、余人から見ればくだらないこと。すなわち、己の夢。あるいは、抑えようのない好奇心が原因だった。
そして、誰が言ったか、錬金術師が見ているその「先」の世界を、マグダラの地と呼んだ。
錬金術師は、突き詰めればそのためだけに、人としての命と尊厳のすべてを賭けるのだ。
「お前のお陰で、この近辺の鉄の生産量が飛躍的に増えた。燃料代も数割から減った。騎士団が節約できたその金額たるや、火刑に処されるお前を教皇派から救い出すに足るほどだ」
老騎士は言葉を切ってクースラの反応を見るが、クースラは視線を机に落としたまま動かない。
「その才能を潰すのはもったいない、と上はお考えだ」
「次はどこの工房です?」
老騎士の言葉にかぶせ気味に尋ねた。
錬金術師は職人とはまた違う技能を持つ特殊な職業だ。
なかなか代えは利かないし、しょっちゅう死ぬ。
誰かに殺される以外にも、事故だって頻繁にある。
焚火の周りをうろつく、金でできた蛾のようなものだ。
「ただ、今回の件は過去のどれよりも悪質だ。騎士団としても無罪放免というわけにはいかない」
「……覚悟してますよ」
「グルベッティ」
「え?」
クースラは思わず顔を上げた。その地名は、あまりにも意外だったからだ。
「前線の近く? いいんですか、そんな場所に行って」
「お前たちには、うってつけの案件だと思う」
「グルベッティ……グルベッティね……」
クースラは口の中でもぐもぐと繰り返し、それからようやく、老騎士の言葉が頭に降りてきた。
「たち?」
「ウェランドを知っているだろう」
老騎士の顔は、苦々しい。
しかし、そうでなければ、クースラはその質問に思い切りとぼけたかもしれない。その名前は、それくらい突飛なものだったからだ。
「まさか?」
「そのまさかだ。グルベッティの工房には、ウェランドとお前の二人で行けという話だ」
「へっ」
それは鼻で笑ったわけでも、ましてや不満を示したわけでもない。
驚きのあまり、しゃっくりが出てしまったのだ。
「なに考えてんですか? だって、ウェランドってあれでしょう? どっかの修道院長を毒殺して捕まったって」
「聖アリル女子修道院だ。貴族の娘ばかり集まる瀟洒な修道院だよ」
「へっ」
それは明確に鼻で笑い、クースラは肩を揺らした。
「教会はどうして奴を生かしてるんです?」
「わからんよ。お前たちは錬金術師だ。違うか?」
不可能を可能にする。
鉛を金に変える、が錬金術師の枕詞だ。
「で、俺とウェランドを同じ工房に入れると」
「見習い時代、同じ工房だったそうだな。気心は知れてるだろう」
「ご冗談を。あいつは俺の飯に毒を七回盛りましたよ」
「お前は九回だったと聞いている。互いに毒による暗殺を切り抜けられてきたのは、あの時の経験が活きているんじゃないのか?」
「はっ。たぶん、金牛宮の御加護のお陰でしょう」
罠を見破る知恵を授けてくれるサファイアは、黄道十二星座でおうし座になる。もちろん、サファイアの指輪を嵌めている老騎士へのあてつけで、老騎士は思わずといった感じで左手の小指を隠している。
ただ、ウェランドの名を聞くのは本当に久しぶりで、クースラは頭の後ろの毛がちりちりしそうだった。
「目的は? 無罪放免じゃない、と言いましたよね。懲罰的な理由があるはずだ」
「私も詳しくは聞かされておらん。噂話を組み上げた程度のことしか知らない。そして、ここでは口が災いのもとになる。私は上からの命令でお前を送り出す。お前は粛々と従うことになる。うまくいけば騎士団の錬金術師として梯子を登る。失敗すれば、これまでの責を取らされる。もちろん」
老騎士は、ためを挟む。
「鉛を金に変えられれば、万事解決だろうがね」
「やりますよ」
クースラは即答する。断ったところで断れるわけがないのだが、それでも返事は素早く出た。
「ただ、上がなにを企んでるのかは気になりますが」
老騎士はクースラの質問を無表情に受け止めて、にこりともしない。
「私にはわからんよ」
「……」
「戦場が懐かしい。あの時は、いつだって遠くの地平線まで見通せたものだ」
ため息まじりのその台詞は、あまり冗談にも思えなかった。
クラジウス騎士団。
この世で知らぬ者はないと言われるほどの権勢を誇る、金と軍事力の塊のことだ。
元は教会が主導した、東方の失地回復運動──失われた聖地を取り戻せ、という宗教的軍事行動の落とし子だった。
聖典の書かれた約束の地、クルダロス。そこは永いこと異教徒に占領され、蹂躙されていた。
教皇フランジヌス四世はその事実を見過ごせぬとばかりに立ち上がるや、当時の希代の神学者、アメリアの聖ジルベールの神学理論を用いて土地の奪還を教理的に正当化した。言ってしまえば略奪に、神のお赦しを得たのだ。
その戦いは開始されて以来、二十二年経つ今でもなお続いている。
たくさんの人間が、教会の紋様の入った鎧に身を固めたり、あるいは体に紋様を刻み込み、東方へと向かった。また、剣を持つ者だけでなく、聖典の書かれた約束の地で死にたいと願う、杖を持つ者たちも巡礼の旅に出た。
クラジウス騎士団の前身であるクラジウス兄弟団は、そんな戦いに赴く者や巡礼に赴く者たちを泊め、癒す、聖地へと続く道の途上にある病院のようなものだった。
だが、はるか遠方の地にあるそこでは、病や怪我が原因で斃れる者が少なくなかった。
彼らはその場で遺言を残し、すべての財産を兄弟団に託して死んだ。
クラジウス兄弟団はそれらの遺産で裕福になり、裕福になれば自分の財産を守るために独自の武力が必要になる。やがて、優しき修道士が敬虔な信者の最後の施しを受け取るだけだったそこは、いつしか貪欲な騎士が積極的に富を追い求める組織になった。
今では教会の総本山である教皇をもしのぐと言われる資金力と信徒を持ち、圧倒的な数の騎士を抱えるクラジウス騎士団を止められるものはこの世に存在しない。
その喧伝がいくらかは大袈裟にしろ、少なくともクースラは四度の死罪を教会から言い渡され、四度とも助かっている。損得勘定に長けた騎士団から見て有用なうちは、教会といえどもクースラを火刑に処すことは難しいということだ。
こちらも、従うのが得であるうちは、騎士団所属の錬金術師として腕を振るう理由があるだけのこと。クースラは、どうしても「マグダラの地」に行きたかったのだ。
そのためには錬金術師として研究を続けるしかなく、研究のためには莫大な資金と豊富な材料と、長い年月、それに、危険から守ってくれる権力が要る。騎士団の庇護の下でなければ、まず無理なことだろう。
だから、本来ならば騎士団には従順な羊のように仕えるべきなのだ。聖人の骨を炉にくべて精錬の結果が変わるかどうかを試すのは、自殺行為に等しいし、お払い箱にされる可能性だって十分すぎるほどにあった。
ただ、牢から解放された後、この寒い季節に北の町グルベッティを目指すクースラは、馬車の中で老騎士とのやり取りを思い出していた。フリーチェの死と、そして、あの老騎士の顔。
「へっ」
クースラは、苦笑する。
くべ損なった。
たぶん、いけたはずだ、と思う。聖人の骨を炉に放り込み、良い鉄に仕上がるかどうかを試しても、助かったはずだ。フリーチェを殺されて、錯乱していたから。傷心で、訳がわからなくなっていたから。その言い訳とこれまでの自分の実績で、ぎりぎりのところを通せたはずだった。
そうでもなければ、あんな危ない橋、渡るはずがない。
「……千載一遇だったんだがなあ」
クースラは短く言って、小さく息を吸った。
鉄の精錬の際、骨をくべると結果が変わるというのは本当にあることだ。骨の代わりに石灰を加えることもある。