ただ、老騎士の言葉も多少は図星だった。フリーチェはいい女だったし、密偵かもしれないと薄々わかっていてもあの無邪気な笑みは可愛かった。久しぶりに、一緒にいて楽しいと思える相手だった。
それでも、ではそこまで悲しいのかというと、クースラは自分のことなのに自信がなかった。
もともと、錬金術師はすべてが流転し、この世のすべては変化しうると思っている。人は死に、世は移り変わり、古いものは新しくなる。そうであればこそ、鉛だって金に変わりうるし、馬鹿げた夢だって現実に変わりうるのではないか、と考える。
万物は流転し、留まらない。
その変化を信じ、追いかけ、金属を錬り続けるゆえに、〝錬金〟術師なのだから。
そして、旅路もまたいつか終わる。尻の肉が擦り切れそうになった頃、ようやく馬車が止まり、御者が「着きましたよ」と旅程で初めて口を開いた。
「……っ」
クースラは十日ぶりに馬車から降りて、とにかく伸びをした。
人に見られることまかりならず、というわけで、十日間ずっと馬車の中だった。
ただ、読むべき書物や書簡だけは山のように与えられたから、尻の痛さ以外に苦痛はなかった。なんとなれば、もうしばらくこのままでもいいと思っていた。
外は寒いが晴れていて、空気は冬独特の澄んだ匂いがする。
朝市はとっくに終わっているような時間で、近隣の村から来たのだろう農夫が、牛を連れてのんびりと帰途に就いているのが見えた。穏やかで、変化といえば季節の移り変わりだけで、家に帰れば家族の待つ平凡な人生の象徴だ。
ある日言い寄ってきた女が密偵で、ようやく好きになれたと思ったその矢先、ほんのわずかに目を離した隙に惨殺されるような人生では決してない。
クースラは別にそのことを、羨ましいとか、悲しむべきことだとは思っていなかった。たぶん、人よりも感情が鈍いのだと思う。フリーチェのことはとても残念だし、生き返ってくれるのならそれに越したことはない。でも、クースラはフリーチェの死を目の前にして、取り乱しすらしなかった。思ったことは、この死を冶金に生かすとしたら、どうすればいいだろう? ということだけだった。
だから、フリーチェのことを思い出して胸がうずくのは、それが原因なのだろうと思う。きちんと悲しめなかった。取り乱しすらしなかった。そのこと自体が、ある意味で辛いのかもしれなかった。
ないものねだりだな、とクースラは人知れずため息をつき、市壁の検問を抜ける。クースラ自身はもちろん、積み荷も検められないのは、騎士団からの特権状があるからだ。グルベッティの町は、参事会員のほとんどが強引に騎士団に買収された町だ。市壁を構え、独立した都市であることを誇りにする古くからいる人間からすれば、面白くないはずだった。
だから普通は嫌な顔をされるものなのだが、さっさと通してくれたのはクースラが錬金術師だとすぐにわかるからだろう。良識ある町の人間からすれば、錬金術師と関わるより、異端の人間と手をつないで歩いたほうがましなことなのだ。
クースラは十日間座りっぱなしの体をほぐすために、馬車の横について歩いていく。
分厚い市壁は、その中に守衛が寝泊まりする施設がすっぽり入るほど。たぶん市壁の中は廊下になっていて、弓矢や投石機が山ほど積まれていることだろう。お飾りでなく、油が塗られ、あるいはまだ血のこびりつくものが。
錬金術師が呼ばれるのは、そこに解決すべき問題がある証拠だ。
特に、冶金関連はろくなものがない。
金銭的な問題か、さもなくばもっと直接的に、強化した斧で叩き割りたい頭蓋があるからだ。
ただ、クースラが市壁を抜けて軽く口笛を吹いたのは、町の活況がそれほどだったからで、まず規模からしてグルベッティはそれまでクースラがいた町とは比べ物にならない。
港に注ぎ込む川は水量が豊富で、そこに架かる橋は三つとも四つとも言われている。
そして、市壁をくぐれば、そこは噂に違わぬ盛況ぶりだった。荷馬車や荷物を積んだラバの数も多く、鶏を詰めた籠を満載にした荷車もちょうど目の前を通って行った。自分の体よりもでかい荷物を背負っているのは、頭に頭巾を巻き、目元がひどく日焼けした連中だ。たぶん、雪が降りしきる山の上を越えて来た行商人の一団だろう。背負っているのは森で取れる毛皮か、琥珀、蜜蝋といったところだろうか。彼らはようやく足が取られる雪の中から這い出したと思ったら、町の中に来てげんなりしたことだろう。道には馬やラバの糞が降り積もり、そこをさらに雪崩のように放し飼いの豚やどこかから逃げ出してきたのだろう鶏が歩き回っている。
もちろん、うろつくのは動物だけではなくて、壁に寄りかかりながら通りを見回している不穏な輩も多い。スリ、強盗の類から、商売女に、領主から命じられ、領地から逃げ出した逃亡農民を追って来た捕吏もいるだろう。手の中で貨幣を弄んでいるのはもぐりの両替商だ。これは旅人が多くて、景気のいい場所にしかいない連中だから、ある種の縁起物かもしれない。もぐりの両替商が袋叩きにされていないのは、いちいち取り締まらなくてもいいほど大量の人が両替商の存在を必要としていることを示している。
クースラは、上品な人間ではない。
どちらかといえば雑多なほうが好きで、賑やかな雰囲気は大好きだった。
しかも、この町には港があり、中心部はそっちのはず。
市壁の入り口からこの賑やかさなら、港付近はもっと混沌としているはずだった。
そして、クラジウス騎士団はこの町を根底から支配している。
その紋様があれば、誰もクースラのやることに文句をつけられない。
「いいね」
クースラは胸の内のもやもやを入れ替えるように埃っぽい猥雑な空気を吸い込んで、にんまりと笑う。
呼び込みの小僧も、商売女も、もぐりの両替商も声をかけてこないのは、クースラの立ち居振る舞いが一目でそれとわかるほど、周りから浮いているからだろう。
「で、どちらに?」
口を開いたのは、御者だ。
それにしたって、クースラの顔を見ない。
「さあ。迎えが来るはずなんだがね」
御者はふんとも言わないが、手綱を握る左手は指が半分なく、帽子と髭で隠れた横顔には、耳の斜め後ろにまで続く大きな切り傷の痕がある。騎士団で長く戦役に就き、引退した人間だろう。クースラの護衛というよりも、クースラが逃げ出した時に追いかけて殺すための人選に見えた。
「……っ」
そして、そんな御者がふと顔を上げた。
野の莵のように、この雑踏の中、自分たちに向けられる視線にすぐに気がつくのだ。
手綱を振り、馬を十字路の角に向ける。
そこには痩せぎすの男が一人立って、ニヤニヤ笑っていた。
「無事だったなあ」
間伸びした喋り方は、そいつの癖。ぼさぼさの長い金髪をだらしなくくくり、無精髭は剃るか伸ばすかはっきりしろと言いたくなる。それでも、クースラのことを見て笑みを向けてくるのは、世の中でこの男くらいのもの。クースラもまた、つい口元を歪めてしまった。
「お前が言うのかよ。そっちこそなんで生きてるんだ?」
「神の御加護かねえ」
修道院長を毒殺など、まかり間違っても見逃してもらえるはずがないのに、ウェランドはこうして生きている。あの老騎士が言うように、錬金術師は魔法使いだ。
「そっちはどうやって逃げたんだよお。聖人の骨を炉にくべたって聞いたよお」
「火はつく前だった。それに、お決まりの逃げ口上だ。聖人の骨を炉にくべても神罰が下っていないのは、聖人様が寒がっていたからだって」