WORLD END ECONOMiCA I

第一章 ①

 ぷん、という虫の羽音に似た音とともに、多目的けいたいたんまつの電源が入った。

 ディスプレイが帯電する独特の音がする頃には、俺の目ははっきり覚めている。

 しかし、一晩中椅子の上にうずくまり、荷物を一切合財詰め込んだかばんを抱えながら眠っていたせいで、体をすぐに動かすことはできない。体中が凝り固まっていて、不用意に動かせばぼきんと折れてしまいそうだった。

 それでも、目を覚ましてこのきゆうくつな姿勢から少しずつ体を伸ばしていく感覚は、たまらなく好きだった。自分は生きているという気がして、今日も目覚めたとはっきり実感できる。自分の手を自分の意志で動かし、自分の足を自分の意志で動かしていると確認できるのだ。

 誰かに生かされているのではなくて、自分で望んでここにいて、こんなことをしているのだという確信は誇らしいことであり、家を出るまでは味わえなかったことだ。

 俺は汚れたカップに残った偽コーヒーをすすり、まずさとカフェインで脳みそをノックする。

 ついでに食べかけのチョコバーを乱暴に口に詰め込めば、それで終わりだ。これで、思考に必要なブドウ糖を確保できる。

 かいなほどに甘いそれを飲み下す頃には、端末が立ち上がっている。

 頭もしゃきっとしてきて、小型の携帯メモリや幾ばくかの現金があるかを確認し、寝ている間に盗まれていないことを確かめる。

 昨晩も無事乗り越えたらしい。

 家出をして三ヶ月と十二日目になっても、この瞬間だけはほっとあんのため息をつく。

 しかし、俺は今日もまた生き延びて、金を稼がなければならない。

 端末では、ようこそ、と愛想だけは良いログイン画面が立ち上がっている。その先には、あまの人間の夢を飲み込み、たくさんの人間の希望を打ち砕いてきた世界が待っている。

 かぶしきじよう

 何百年も前から、人の強欲がうず巻き続けている火山口だった。

 俺はそこに飛び込むため、ちゆうちよなく手を伸ばし、ログインボタンを押した。

 その瞬間、時速三百キロメートルの電車に飛び乗ったかのように体が引っ張られ、視界が一気に加速する。たちまち膨大な量の情報があふれだし、視界と認知機能が埋め尽くされる。

 おうしゆう市場は弱含み、続く米国市場はようとうけいを控え様子見ムード。リング・テック第一四半期けつさんほうしゆうせい。南米通貨建ておおがたさいけんさいは順調にこなされた模様。エメラルドインダストリーが受注だんごうに絡む疑いで捜査の可能性。FRB理事がインフレについて言及。シュバイツェルインベストメントに最年少の女性しつこうやくいんたんじよう。WTIと北海ブレントに不可解な価格差。VIXからそうの強気は本物か……。

 ほとんどが無意味な雑音だが、荒れ狂う暴風の中には、きらりと光る金の鍵が存在する。

 俺が見つけたのは、イギリスかどこかに本社がある企業だ。

 イギリスなんて行ったこともないが、その会社にまつわることはなんだって知っている。経営の天才と称された創業者が病気で引退したその年に、ライバルの新製品で市場シェアを奪われ、そのことで焦ったのかちよう気味の広告を打ってこうせいとりひき委員会から注意が入り、関連事業のテコ入れのため大規模に投資した大型工場には、新たな環境規制がかけられると報告されているような、泣きっ面に蜂を地でいく不運な会社だった。

 ネットでは、これで新社長が羊とのどうきんをスクープされれば完璧だ、とあった。

 別に羊と愛し合っていても優秀な経営者であることは可能だろうが、イメージは大事だ。

 特に、このなにも確かなことがない世界では、なおさらかもしれない。

 お先真っ暗なその会社は、現地時間の午後二時きっかりに決算を発表するらしい。

 どう考えても楽しいイベントになりはしないが、イギリス紳士が笑うのはブラックジョークが決まった時だけなので、記者会見の場は笑いに包まれるかもしれない、とも報じられていた。

 現在、現地時間の午後一時三十分。こちらでは午前の八時五十五分になる。

 俺が注視しているのは、ヨーロッパ市場ではなく、の市場だった。

 世界中に株式市場がある中、一つの会社がいくつもの市場にまたがって株式を公開することがある。理由は色々あるが、可能な限りたくさんの人間に株を買ってもらいたい、という単純なところに落ち着くだろう。

 その意味で、今、俺が注視している市場こそが、世界最大の金融マーケットであり、くだんの企業もおひざもとの市場動向より、こっちの市場の反応を気にしているはずだった。

 地球人が太古の昔より見上げ、その魔術的な魅力におそれと憧れを抱いていた、ここ。

 地球を見下ろす黄金の月面に人類が進出し、十六年がった。全く新しく作られた月面都市には、足を引っ張るばかりの歴史もしがらみもなく、重力すらも低く、成功を追いかける人々のそうきようになった。

 ここは、人類の最前線。

 月面都市があっという間に世界最大のきんゆうマーケットになったのも、ある種の必然だろう。

 なぜなら、投資こそが、世界で一番、手っ取り早くもうけられる方法なのだから。

 月面都市のかぶしきじようは午前九時からなので、もう数分で大金が飛び交う狂乱の騒ぎが開始される。ツールに表示されるニュース類もとうの勢いで増えていく。ニュースの量そのものが市場の動向を左右することもあるので、俺は秒間のニュースの数を検出するツールも使っている。毎秒十二件。それが十三件に上がり、十六件になった。

 主要なメディアのニュースだけをしとって眺め、同時にツールに登録してある三百七十二の企業の株価画面を、フラッシュのように入れ替えて確認していく。まだ市場は開いていないのだが、どれだけの注文が集まっているかを見るのはとても重要な行為だ。時折、間抜けな会社のトレーダーが太い指で注文数を押し間違えて、爆安で株が売られたりすることがあるからだ。

 月面しようけんとりひき市場全体では四千余りの企業の株が登録されていて、取引時間中にはとてもそのすべてをチェック仕切れない。どうしても限定せざるを得ないが、そのせいでチャンスを逃しているのではないか、という強迫観念に駆られるため、死に物狂いで株価画面を切り替えていく。

 見るべき情報があまりに多すぎて頭がおかしくなりそうだが、本当は、難しく考える必要なんてない。

 ここでなされるのは究極のところ、数字の上下を言い当てるというだけのゲームなのだから。

 数年先、数ヶ月先、数日、いや、たった数分先のことでいい。

 株価の上下を言い当てられれば、たちまち大金を稼ぐことができる。

 だが、それが難しかった。

 本当に、難しかった。


「……始まったか」


 それまでじっとしていた画面上の数字が、突然慌ただしく動き始める。午前九時になり、世界最大の月面証券とりひきじよが開かれたのだ。

 売りと買いが交錯し、一分、二分、と経てば、その時点で全財産を失うやつや、一生かかっても使いきれない大金を手にした奴らが出てくるだろう。

 俺は仮想キーボードのショートカットキーを連打して、片時も休まず市場全体を見て回る。十件のニュースのタイトルを読んだらくだんのお先真っ暗企業に戻り、すぐに別の会社の株価を八件開いて異常な値動きがないかチェックして、また戻る。その繰り返しだ。

 くだんの会社はおそらく創業以来最悪の決算発表になる。株価はここ数ヶ月下がりっぱなしで、先日、先々日はがくっと下げていた。