WORLD END ECONOMiCA I

第一章 ②

 株というものは、その会社の未来の利益へのせいきゆうけんと定義されることがある。未来が真っ暗ならば、誰もそんなチケットは欲しがらず、誰も欲しがらない物の値段は下がる。

 ちなみにその会社の株価は、232、という数字で表現されている。もしかしたらその数字にはとても大事な意味があったのかもしれないが、市場では誰もそんなことは覚えていない。

 ここではただの目印以外に、なんの意味も持っていないのだ。

 自分の予想した数字より大きいのか小さいのか。

 究極的に、俺たちが気にするのは、たったそれだけだった。


「229……? 228か……」


 人によってはひきつけを起こしかねないくらいめまぐるしく画面を切り替え続けていた俺は、ちらりとかい見えた数字をつぶやいた。

 最悪の決算に向けてのカウントが減るように、株価もずるずると下がっていく。

 事前の市場予測では、前年度比30%の売り上げ減と、五年分の利益に匹敵する赤字ということだった。株価が上がる理由なんてどこにもない。

 だが、俺はキーをたたき、取引画面のボックスに数字を打ち込んでいた。そこに書かれる数字が、運命の女神の持つ価格表と一致した時、人はばくだいな富を手にすることができる。そう考えると、こんな数十ピクセルのボックスに詰まっている人間の運命というものは、なんとはかないのだろうと思うことがある。

 ここに自分の祈りを書き込み、送信ボタンを押すと、市場ネットワークの神様が抽選して、当たりか外れかを教えてくれる。馬鹿げたことだと思う。

 けれど、世の中の大半が狂っているし、ここは月面だ。

 地球の人々は、月は人を狂わせる、と信じていた。


「226」


 切り替わり続ける画面の中で、俺はふと手を止め、取引画面の価格ボックスにその数字を打ち込んだ。売り、ではない。株価が下がり続ける株を、買おうとしていた。

 時刻は午前九時二十分を回ったところ。決算発表まで残すところ数分だ。

 俺は相変わらず画面を切り替え続け、片時も休まず情報を収集しながら、深呼吸をする。緊張するな、と自分に言い聞かせる。

 投資は感情に揺さぶられると、それだけ負けることが統計的にわかっている。なんとなれば、ひどいうつ状態の患者群のほうが取引でいついちゆうしないので、戦略にぶれがでず、トータルの取引成績が良かった、という実験結果もあるくらいだ。

 時速五百kmで画面を切り替えるのをやめた俺は、一つの画面を見据えていた。

 決算発表まで二分。株価は227で張り付いている。

 かぶとりひきは、果物じようでの取引と変わらない。売りに出されているりんに値段がつけられている一方、林檎を買いたいと望む者たちもその買値を提示して待っている。見事売りと買いの値段が一致すれば、取引完了だ。

 だが、ここで俺が227で買いを出せば、226で買うよりも0.5%もうけが小さくなる。

 しかも、株価がこの先も下がり続けるかもしれないとなれば、わずかでも低い値で買うことは損を最小限に抑えることにもなる。

 売り手は、買えよ、と罵り、買い手は、売れよ、と歯ぎしりする。

 決算発表まで一分を切った。

 俺は、もう無理だと思い、買い注文の値段を書き換える。227。

 だが、その瞬間だ。画面にラグが生じたかと思うと、買い注文と売り注文の数字がごそりと動く。誰かが大きな買いを入れていた。棚の上から林檎が一掃される。

 228。229。株価が上がっていく。多分、記者会見場にいた誰かが、電子配信される前に結果を聞いて、取引に動いたのだ。株の取引会社の中には、ニュース配信会社からレーザーを直接しようしやしてもらって情報を受け取るところもあると聞く。光回線よりも0.2秒速いのだというが、その0.2秒が命運を分ける。

 狂気では負けなくてもそんな設備に資金を投じられない俺のような立場の人間は、ニュース速報欄に企業決算の短信が出るのを待つしかない。しかし、すうせいは明らかだ。俺は買い価格を231にするが、株価はめまぐるしく動き、232。

 価格をさらに修正し、233で買い注文を出すが、証券会社のめんせきじようこうを記した確認画面が出るそのわずかな処理の合間に、すでに234。

 ニューステロップに企業名が出て、数字が出た。

 前年比27%の売り上げ減、そして、数々の特別損失で滅多打ちにされ、過去四年分の利益をすべて吹き飛ばすばくだいな赤字。

 だが、市場予測より一年分ましだった。

 その瞬間だ。


「あっ」


 俺のつぶやきをあざ笑うかのように、数字が飛んだ。

 世界中でこの取引を見守っていたトレーダーが、さめのように群がった。

 数字はとっくに242になり、あっという間に245になった。価格はまだ上がる。

 大幅な売り上げ減と、記録的な赤字が発表された直後に株価がぼうとうし、ここ数日の下げをすべて埋めあわせてしまった。この株を売ろうとしていた初心者は、なぜ? と目を点にしていることだろう。株の世界ではままあるが、悪いことがあまりにも重なり続けると、これ以上悪くなりようがない、という反転場面が必ず来る。その、典型例だった。

 俺はその典型例を的確に予測することができたが、その速度と、反転するタイミングを見誤った。かぶは俺の後悔など追いつかないくらいの速度で上がり続け、買ってもいいと思う値段をとっくに超えていた。そして、時間は巻き戻らない。

 251。

 けちけちせずに227で買っていれば、10%のもうけになっているはずだった。

 ほんのわずかの時間、たった0.5%に迷っていたせいで、10%を逃した。

 10%!

 俺の全財産は、月面で流通するへい単位で七万ムールある。小売業の誰にでもできるアルバイト店員の時給が、七ムールから八ムール。もしも10%の利益を取れていたら、社会の底を支えるアルバイトが千時間働いてようやく稼げる金額を、わずか数分で、額に汗せず、嫌な客に頭も下げず、りちに出勤もせず、手に入れられるはずだった。

 だが、その利益をほんのわずかな差で逃す。

 予測は当たっていたのに、そのタイミングによって。


「……くそ!」


 俺は天井を仰ぎ、額に浮いたあぶらあせを拭い、椅子の上でずるずると腰を落とした。

 俺の買い注文は、むなしく235で出されている。価格は252になっているので、買えるわけもない。


「……なんだよ、それ」


 吐き捨てるようにつぶやくが、これでになって無理に取引をするような初心者の時期は、とっくに過ぎた。負けた時にやみくもに手を出しても負けがかさむだけ、とはっきり学んでいる。

 なので、俺は深呼吸をしてけいたいたんまつを閉じると、頭を冷やすために椅子から立ち上がったのだった。



 俺がとう宿しゆくしているのは、ぼろビルが立ち並ぶ区画の、安っぽいネットカフェだった。

 名前はビッグ・ブル・カフェと豪気だが、どこか別の店が提供する無線通信域に、ちゆうけいを勝手につなげて室内に引き込んでいるろくでもない店で、客層もたいがいろくでもない。どこのブースも長期滞在者の巣で、間仕切りにはタオルがかけられていたり、スリッパが置かれていたりと、自宅気分だ。


「おう、坊主、いい朝だな」


 いつもと変わらぬ店内風景の中、顔を洗いに洗面所に向かう途中、汚い身なりの店員に声をかけられた。緑色のアフロヘアーがあまりにも目立つ、長身そうの男だった。

 携帯ゲーム機をいじくってはいるが、気さくな店員というよりも、声をかけることで監視しているということを強調したいのだろう。正規の出入り口はカウンターの横にしかなく、そばの壁には「料金踏み倒しお断り」と書かれている。どぶ川の中に作ったいけのような場所でも、料金はきっちり取ろうというのだ。