WORLD END ECONOMiCA I

第一章 ③

 もっとも、寝るスペースと水が使えるのはありがたい。それに、年齢でどうのこうのうるさいことを言われず、金さえ払えばどうにでもなる、というのでちようほうな場所だった。

 家出をして困ったのは、とにかく眠る場所だ。俺には多少の金がありつつも、見た目だけは変えられない。


「いい朝ってのはなにかのいやみか、地球野郎」


 言葉を返すと、店員は顔をゆがめて笑う。


「ははん? 本物の朝を知らないってのは不幸だな。ここじゃあ天気すらプログラムだ」


 店員はのんに言って、視線をゲーム画面に戻す。

 地球から来たらしいが、単純労働力としてやってきて、あっさり首を切られるかなんかしてここに流れ着いたらく者だろう。このカフェがあるような区画には、遠心力で吹きまるゴミのように、こういう連中が集まってくる。


「なら地球に帰れよ」


 俺が言うと、店員はちらりと視線だけをこちらに向けて、皮肉げに笑った。


「下よりこっちのがまだましだからな」


 そして、店員はこう言った。


「月野郎」


 俺は返事をせず、洗面所に向かう。

 俺の名はかわうらヨシハル。

 生まれも育ちも月面都市の、しようしんしようめい月野郎だ。

 顔を洗ってさっぱりすると、俺は自分のブースに戻り、再び端末にかじりつく。

 月面しようけんとりひきじよの、取引画面。

 どれだけ失敗を重ねようとも、俺が金を稼ぐにはここしかないのだ。

 この、月面のように荒涼とした、数字だけが踊り狂う、無味乾燥な世界で。


「汗水たらさず、金持ちになってやる」


 地道に稼いでいる暇など、俺には存在しないのだから。

 俺はもっともっと金を稼いで、月面都市の中心部に住むのだと決めている。死ぬほど頭のいい連中が大挙して集まって、この世の富の七割を独占しているといわれる場所。そこで思い切りいい暮らしをするのも悪くないが、俺の目的は、あくまでもそこから始まる。人類の富が積み上げられた、地球から遠く離れた、この都市の最先端から。

 俺は自分をするため、成功した自分の姿を思い浮かべながら取引を再開した。脳を興奮させる信号のように点滅する数字を見つめ、並行して夢想を爆発させていた頭は、あっという間に木星まですっ飛んだ。アドレナリンで視野が狭まり、血管が収縮し、息が浅く、速くなる。苦しいような心地よさに、こうかくが上がり、けんがむき出しになっているのがわかる。さっきの失敗も忘れ、取りかれたように取引を繰り返していた。だから、しばらくそのことに気がつかなかった。ようやく気がついたのは、頭を殴られてからだった。


「おい、坊主」


 振り向くと、ブースの扉を開けてあの店員が立っていた。


「なんだよ、忙しいんだっ」


 お前のくだらない顔を見ているその時間で、お前の百時間分の賃金を逃すかもしれないんだぞ、とにらみつけると、せぎすのトロンとした目つきの店員は、やれやれとため息をついた。


「ほう。そんなこと言うのか? 警察が見回りに来るぞって教えて──」


 店員がすべてを言い終わる前に、俺はたんまつかばんに突っ込んでいた。


「あ、おい」


 押しのけてブースから出ようとする俺の肩を、店員がつかむ。細いけれども節くれだっていて、大人を思わせる力強さがある。それでも、俺はこういう時のためにいつも、上着の胸ポケットに決まった金額を入れている。月面ではほとんど使われない、時代遅れの現物の紙幣だが、緊急時には役に立つ。

 大好きなマフィア映画では、そういう札のことを、天使への名刺と呼んでいた。

 俺はそれを摑んで、押しつける。


「釣りは取っとけ」


 帽子をかぶり、鞄を背負い、狭い廊下を走りぬけていく。ブースの中でなにをしているのか、警官に職務質問されたらもごもご言葉をにごしそうな連中が、捕り物かとブースの仕切りから顔をのぞかせて、ごそごそと荷物をまとめていた。

 汚いカウンター脇を抜けて、さらに汚い店舗の外に出る。はげまくったペンキとびた鉄が、ただでさえ狭苦しい造りのビルを余計に狭苦しく感じさせる。俺は廊下を外に向かって一直線に走る。突き当たりが階段の踊り場になっているが、最後まで速度を落とさない。どういても曲がりきれる速度ではない。そして、踊り場に足を踏み入れた直後、床を蹴った。

 高々とジャンプして、コンクリート製の柵を越え、俺の体はビルの外に飛び出した。カフェはビルの五階にあったから、下を見るとなかなかの景色だ。俺はそのまま反対側のビルの壁に飛びついて、さらに壁を蹴って元いたビルの壁面を目指す。壁面をっているパイプを足の裏が捕らえたら、思い切り上を目指して飛び上がった。

 人間の遺伝子は何百万年もかけて地球用にチューンされているので、トレーニングを欠かさなければ、重力の低い月ではこのくらいの芸当が誰にでもできる。

 できないのは、日々のトレーニングを欠かさないというところだ。

 壁から壁へと飛びぬけて、一気に隣のビルの、十四階の屋上まで飛び上がる。

 さすがに息が上がるが、ちらりと階下を見下ろせば、二人組の青い制服を着た警官が、面倒臭そうに警棒で肩をたたきながら階段を上っているのが見えた。



 あの店員には度々多めの支払いをして、便べんを図ってもらっている。今頃、支払いを精算して余った金を使い、鼻歌交じりに店のビールを開けているはずだった。

 俺はいったんかばんを開き、たんまつ画面をのぞく。取引最中に逃げだしたので、ポジションがそのままになっている。この辺りにまでならぎりぎり無線通信がきているはずだったので、確認しなければならない。運良く上がってくれていれば問題ないのだが、こういう時は大抵──


「うぜえ」


 俺はがっくりうなだれてから、損が出ているポジションをすべて手じまった。

 朝一番の取引ではもうけを取り逃すし、散々だ。


「……また今日も、儲けらんないのか……?」


 俺は電源の落ちた端末を鞄にしまい、きゆうすいとうの脇で寝転んだ。

 家を出て三ヶ月と十二日。

 俺は初めて、取引の儲けが伸び悩んでいた。



 この世で金持ちになる方法はいくつかある。

 金持ちのもとに生まれるか、会社を興して大成功させるか、あるいは、大成功する会社を言い当てるかだ。

 俺の実家はどう言いつくろっても金持ちではなく、会社を興して世界有数の金持ちになるには何年かかるかわからないし、そもそもなにをしたらいいのかがまったくわからない。だが、最後の方法である、俗に投資と呼ばれる行為だけは違う。ルールが恐ろしくシンプルなのだ。

 この投資の世界で、全知全能の神の次に成功したと言われる伝説の投資家が、そのルールを二つに絞り込んでくれた。


 一つ、損をしないこと。

 二つ、一つ目のルールを絶対に忘れないこと。


 しかも、取引に参加するには年齢制限も、資格も必要なく、人種も、性別も、学歴だって関係ない。わずかの種銭とネット回線、それに度胸がありさえすればいい。たったそれだけで、規模は劣るものの、業界最大の企業とほぼ同じ取引ができる。そんな業界、ここにしかない。

 そして、最も重要なことが、この世界で最も成功した人物こそ、人類で最も富を手にした少なくとも上位三人には入れるということだった。

 現在の世界金持ちランキングの三位までは、人類のあらゆる活動を根底から支えるソフトウェアを開発した会社の創業者か、複数にまたがるしんこうこくの経済をまるごと独占しているどうひい目に見てもマフィアの大ボスか、くだんの伝説の投資家の三人で長い間独占している。トップの額は現状八百億ムールあたりで、五年後には初の一千億ムールに到達するのではと言われている。

 平均的な月面の勤め人の生涯賃金が二百万から三百万ムールだから、彼らは自分自身の資産で、二万人もの人々を一生働かせることができるのだ。