WORLD END ECONOMiCA I

第一章 ④

 それが人類史的にどういう意味を持つかというと、ピラミッドを建てたエジプトのファラオに匹敵する。ファラオは数万人の労働者を数十年働かせてピラミッドを建て、人類の偉業の地図に新しいはんを付け加えた。ファラオはその当時、間違いなく人類の最前線に立っていて、歴史を作っていた。

 その、ファラオを超えるほどの金を稼ぐ手段が、ネット回線とわずかの種銭で手に入るのだ!

 ちまちまと学校に通うのが光の速さで馬鹿らしくなったのは、当然のことだろう。

 そして、月面にはそういう夢を追いかける連中があふれかえっていた。

 元々、月面都市は地球という歴史と重力に縛られたあまりにも不自由な場所から自由になるために人々が見た、途方もない夢のけつしようだった。だから、ここでは夢を見ることがある意味義務に近いのだ。

 なぜなら、人々が夢を追いかけるというその熱意によってしか、絶対零度の宇宙空間に、快適な都市を維持する方法はないからだ。そうでなければ、どうエレベーターで各種の資源を送り続け、大きな災害でも起きればほかに逃げ場のない月面に都市を築くなんて、あまりにも馬鹿げている。

 人が最も馬鹿になれるのは、夢を見ているその瞬間こそだろう。

 俺は家を飛び出してからこっち、そのほんりゆうに身を任せることが楽しくて仕方がなかった。月面都市のそんなノリが大好きだし、その波に乗ってどこまでも行くつもりだ。

 けれど、取引によるもうけはここしばらく伸び悩んでいた。株取引を始めて以来、勝ちしか知らなかった身としては、もやもやとした眠気にも似たいらちにさいなまれていた。同じことをしているつもりなのに、結果が違うことが腹立たしくて仕方がなかった。

 こうしている間にも金持ちはどんどん金持ちになり、人々は前に進んでいく。

 ビルの屋上に座り込み、月面の景色を眺めていた俺は、腹筋に力をめて両足を上げると、そのまま逆立ちをした。体はこうして自由になるのだから、己の運命もまたしかり。悩む暇があれば、頭をひねるべき。それに、俺はまだ伝説の投資家のルールを破ってはいない。儲けが出ていないだけで、損はしていない。

 きばげ。集中しろ。休むな、ひるむな、立ち止まるな。

 自分に言い聞かせ、逆立ちをしたまま腕立て伏せをして、心臓にかつを入れる。

 血管の圧力が増し、血液がじゆんかんし、体温が上がる。運動の興奮は取引の興奮と似ていて、やってやる、という気分にしてくれる。

 月面では絶対にお目にかからないが、石油で動く機械というのはこんな感じなのだろう。

 こくえんを上げ、地球の重力にも負けずに突き進む様は動画でた。

 環境破壊もなんのその、俺が見習うべきは、そういう姿勢だ。


「……警官様も出てきたか」


 ビルの屋上からの逆さまの視界に、非常階段をかったるそうに降りて来る警官二人組が見えた。狭い月面では行く場所などさしてなく、ろくでもない連中が逃げ込む場所は限られているので、目をつけられているのだ。

 それに、月面は十八歳まで皆教育制が敷かれており、平日の昼間には十代の子供らが町にいない建前になっている。万が一捕まれば、もんどうようで実家にそうかんの上、成人するまで数々の制約をされることになる。

 一刻も早く前に進まねばならない身としては、死刑を宣告されるのと同じことだ。

 警官が路地に降り、表通りのけんそうに紛れて見えなくなってから、たっぷり十分は間を開けた。完全にいなくなったと確信してから、俺はかばんを背負う。そして、そのまま飛び降りた。

 空中で体を丸めて姿勢を制御し、壁を蹴って向かいのビルに飛びつき、もう一度蹴って元に戻ると、三度目の蹴りで向かいのビル五階の階段踊り場めがけて飛び立った。

 勢いを殺さず、欠片かけらの無駄もなく目的地へ。

 俺はミサイルのようにビルとビルの隙間を飛びながら、目的地の五階の廊下に文字通り飛び込もうとした、その直後だ。


「うわ!」


 目の前に現れたのは巨大な緑。いや、アフロだと気が付いたものの、俺の体は慣性力に従って吹っ飛んでいて、しかも踊り場から廊下に入る扉が閉じていた。


「おわわわわ」


 即座に両手を突きだし、手がしようげきを吸収しきる前にひじを折った直後、体を丸めて背中からぶつかりにいき、すぐに腕を開いて接地面を増やす。ジュードーの受け身の要領だ。

 実家の近辺は低所得者層が多く、地球の物騒な地域からの移民が多かったので、彼らに教わって体術は一通り身に付けている。勝手に体が動いてくれた。

 バン! と盛大な音を立てて扉に張り付いた俺は、頭を斜め下にしたまま、ずるずると踊り場に落ちた。

 逆さまになった視界の先には、携帯ゲーム機を手にして目を点にしている、あのアフロの店員がいた。


「……なにやってんだ? お前?」

「……」


 俺はすぐには返事をせず、とりあえず助かったことにあんしてから、体を起こした。


「……こっちの台詞せりふだよ。なんで扉が閉まってんだ……」

「ん」


 と、アフロの店員はゲーム機をいじってから、肩をすくめた。


「いやあ、すっかり忘れててな」

「なにを」


 体に付いたほこりを払ってから、扉を開けようとして、鍵がかかっていることに気が付く。


「あれ? おい、鍵なんかかけんなよ」

「だから、今日はもう店じまい」

「はあ!?」

「というか、向こう三日間休み」


 俺は店員を振り向き、扉を見返し、もう一度店員を見た。


「なんだって?」

「いやー、すっかり忘れてたわ。今日からビルのがいちゆうじよでさ。ぼろビルのくせして、スラムにはしないってオーナー様の御意向よ。汚くしてると警官もうるせえしな。そういうわけで、資本家に振り回されるプロレタリアートの俺様は、こうして追い出されたってわけ。他の客も追い出すの大変だったぜ」


 かちゃかちゃとゲーム機をいじる店員の横には、毛布とマットレスがあることに気が付いた。

 前々から、こいつはあの店に住み着いているのではと疑っていたが、どうやら予想は当たっていたようだ。


「……じ、じゃあ、三日間は入れないってことか?」

「おう」


 あっさり答える店員に、俺は口をパクパクとしてから、ようやく文句が出てきた。


「その間、どうしろってんだよ!」


 この年齢だと、まともなホテルには泊まれない。野宿もあれはあれで危険なのだ。誰かに襲われるとか荷物を盗まれるとかより、人口密度が高い町なのでどこにでも人目がある。

 そして、貧しい移民連中の多い場所ほど、ここを第二の地球にはしない、という月のスローガンに忠実だ。貧しくてもこうけつさを失わない、というわけで、月面都市の周辺部は見た目ほどすさんでいないし、治安もかなりいい。

 平均所得の高い町ならなおさらだ。

 だから、細かいことにとやかく言わないこの店の存在をネットでたまたま知ったのは、本当にありがたいことだった。

 それが、三日間の休業。

 取引中に邪魔をされるし、散々だ。


「最近、この辺は警官の取り締まりも厳しいしなあ」


 店員はごとのように言って、ちらりと俺を見るとにやりと笑う。


「また警官に聞かれたぜ。怪しい小僧を見なかったかってな」


 最近この辺りで、せんいんしよくやらを繰り返しているやつがいるらしい。おそらく、無計画に家出をして、資金のなくなった馬鹿だろう。しかもやつかいなのが、特徴が俺にそっくりということなのだ。


「俺は、その馬鹿な家出野郎じゃない」

「わかってるよ。なにやってるか知らないが、お前、ずっとブースから出てこねえからな。アリバイはばっちりだ」


 支払いがきっちりしているので、そういう面では俺は信頼されているはずだ。

 しかし、だからといってこの状況が改善されるわけではない。

 俺は悩んだ後、アフロに言った。