WORLD END ECONOMiCA I

第一章 ⑥

 都市の中心部はとんがった高層ビルがにょきにょき生えていて、ニュートンシティと呼ばれている。入場規制があるわけではないが、巨大な企業ビルばかりだし、ショッピングモールや公園といった公共の場所でも、警官の数や町のちつじよ規制が半端ないので、選ばれた人間しか行けない特別区のような感じになっている。月面の富のほとんどがそのニュートンシティで生産され、総資産が百億ムールを超えるような世界的な大富豪がごろごろいる。

 彼らほどの財産があれば、個人的な町をこの月面に建設することも可能だと言われている。金とは世の中のほとんどの欲望を実現させるものである。

 世の中、金なのだ。

 水面に液体が落下した瞬間を写真にったように、超高層ビル群が建ち並ぶニュートンシティのその周りは、突然建物の階層が低くなっている。ニュートンシティに勤める中流の連中が生活している場所で、ホワイトベルトなんて呼ばれている。プライドと上昇志向のかたまりのくせに、調和を大切にする気品も忘れませんよ、といったような連中が住む場所だ。

 行くと、れいに手入れされた小さな庭を備えたはくの建物が建ち並び、きんしつのような気がして吐き気がしてくる。道端にはごみ一つだって落ちていない。

 そして、そんなホワイトベルトの周りはまた建物の階層が高くなるのだが、ここからはごちゃごちゃとしていてまとまりがない。伝導効率の悪そうな電線がだらしなくぶら下がっていたり、下品なネオンが光っていたりと、わいざつな雰囲気がある。

 外区と呼ばれる場所で、一応一から八まで数字で区別されているがあまり意味はない。

 ニュートンシティを中心として、外区の北側には工場などが多い。酸化ケイ素分解工場や、りようの合成工場やオートメーション化されたプランテーションなどがある。東側には俺の故郷もある。

 この月面にはどう考えても相応ふさわしくない、がんな連中が住んでいることであくみよう高い地区だ。

 職人なんて呼ばれる太古の存在が群れをなしているのがそこで、小さな工房が無数にあったりする。あらゆる効率を限界まで追求した月面都市で、手作業にこだわる連中が多い。なんとなれば、木材や食料を人力で生産したりもする。

 当然費用は馬鹿高くなる上、仕上がりはきんいつになるが、一応顧客もついているらしい。

 俺は、それらのなにがいいのかまったくわからない。

 非効率なことが好きなら、そもそもなんで月に来たのだ? と疑問に思うからだ。

 ここはそういう場所ではない。

 月とは、あのニュートンシティに建ち並ぶ無機質なビルのてつぺんを目指す場所のはずなのだ。

 とはいえ、何事も計画通りにはいかないものなのかもしれない。視線を都市の中心部から西にずらすと、そんな競争かららくした連中が巣くう一画がある。

 建物がびても誰もペンキを塗り替えたりしないので、ついたあだながレッドバレーだ。

 俺は手作り家具の思想は大嫌いだが、猥雑なレッドバレーは好きだった。

 住んでいる連中も競争の落伍者と言えばそうだが、いい加減だから気が楽だ。

 中にはニュートンシティでばりばりやっていたのに、そのだらだらとした雰囲気に毒されて住み着いてしまった者たちも多いと聞く。ありの群れも必ず二割の蟻は働かないらしいから、いかに月といえどそういう場所は必要悪なのかもしれない。

 もちろん、俺はその二割になるつもりなど毛頭ないのだが。

 それで、今俺がいるこの辺りが、レッドバレーほど退たいはい的でもないが、東のほうほど生産的でもない、といった第六外区だった。いまだに通称がない辺りに、中途半端さがにじみ出ている。

 どの建物も汚いしぼろいが、ニュートンシティを目指す小さな会社がちらほらあったり、まあまあの家もちょこちょこあって、ごこはそれほど悪くない。

 メモの示す住所は、この崖から降りて、少し行った先らしい。

 俺は立ち上がって、トンネルの上から崖下に向かい、ひょいと飛び降りた。

 第六外区はいい意味でも悪い意味でも平和そのもので、のきさきえんだいを出し、ビールや茶を飲みながら化石みたいな無電源の盤上ゲームにいそしむやつらがいたり、てんを出して商売に精を出しているやつらがいる。

 月面の町はどこもじゆうそう的で、とにかく見通しが悪いので、慣れない場所は方向感覚をすぐに失う。俺はそのたびに、水面から顔を出す亀かなにかのように建物の屋上に出て、また路地に潜った。

 ちなみに月面は環境維持のために、あっちこっちに水路が張り巡らされているので、水生生物は割と豊富だ。地球野郎の中には、きつすいの月生まれは試験管の中の出来事しか知らないと思い込んでいる奴もいるので、魚の存在を知っているだけで驚かれることがある。

 馬鹿にするなと思うが、俺は地球では当たり前のことをほとんど知らずに生きている、という自覚もある。

 それがコンプレックスになって、学校なんかでは地球移民と月生まれが取っ組み合いのけんになっているらしいが、さもありなんと思う。

 なにせ、地球の常識というのは、月生まれからすると、本当にとつなものなのだ。

 だから、あの店員から受け取ったメモに従ってその住所にたどり着いた時、俺は文字通り、立ち尽くしていた。


「……ここ?」


 そして、思わずつぶやいてしまう。

 そこにあったのは、科学の粋を凝らしてどうエレベーターを建設し、不屈のとうと、人類はなんでもできるという万能感に支えられ、実際に人が住むようになってからはこの宇宙で最も成功をつかみやすい黄金の都市、というイメージによってはんえいし続ける月面都市には、あまりにもふさわしくない建物だった。

 いや、もしかしたら、そういう場所にこそふさわしいのか?

 錯乱してそんなことを思ってしまうくらい、俺の目の前にある建物は、とんでもなく地球的な代物だった。

 そこは、教会だったのだ。


「……でも、ここ、だよな」


 入り口の扉は半開きになっていて、こういう低所得者層が集まる場所にふさわしく、げんぶつの張り紙がしてある。

 ご自由にお入りください。

 俺は、古びた木製の扉に手をかける。月面都市は建造されてから十六年しかっていない。ここには歴史なんてものはなにもない。金ぴかで、けいはくで、重力は六分の一で、時間の流れはその更に六倍と冗談めかしていわれている。

 なのに、俺はその扉の重さに、質量とは異なる、時間の重さを感じていた。

 古い地球の映画をているような気分になる扉が、ぎいい、ときしみながら開いていく。

 その向こうには、やはり映画でしか観たことがない、なにをしてそんな罰を受けているのかよくわからないはりつけの男。それと。


「……」


 真っ黒な、天使がいた。

 いや、黒髪の少女だとすぐに気が付いたが、きやしやですらりとした体がまるでちようぞうのようで、非現実な感じがしたのだ。

 教会には長椅子が磔像に向かってずらりと並べられていて、像の下は一段高くなり、演台もある。多分、そこから教会の人間がありがたいお言葉をたくすのだろうが、黒髪の少女はその演台の手前でたんまつの画面をにらみこみ、思索にふける教授のごとく、真剣な顔で何事かを考え込んでいた。

 見れば服装も思いつめたような黒くめで、あまりに真剣な様子に、見ている側の息が詰まるほど。その真剣な横顔に、俺は息をするのも忘れてれてしまっていた。



 だから、後ろ手に閉じた扉が突然激しくノックされた瞬間、俺はではなく、数十センチ飛び上がっていた。


「すみませーん!」


 そして、こう続く。


「警察です! どなたかいませんか!」