アリソン

第一章 「アリソンとヴィル」 ①

 世界れき三二八七年 初夏


 空には、透き通った薄いあお。地には、平らな土をおおう植物の緑。

 遠くに、中央山脈のしゆんけんな山々が見え、そのいくつかは、いただきにまだ雪を残している。

 もう後ほんの少しの時が過ぎて、南からの風が吹き始めると、この地に本格的な夏がやってくる。


 あかれんの校舎を背にして、一人の少年が芝生に座っていた。

 薄いくりいろかみに、茶色のひとみ。平均身長と同じ背丈に普通の体つきをしている。着ているのは、夏服である白いシャツと薄いこんいろのパンツ。えりについた小さなしようが、ロウ・スネイアム記念上級学校の五年生であることを示している。飛び級をしていなければ、としは十六か十七。連続二学期以上の落第、つまり留年は認められていない。

 彼はのんびりとした動作で、脇のかわかばんから本を取り出した。小さいが、厚みはかなりある本だった。うら表紙に、学校図書館のおういんがあった。

 彼はそれを、しおりの位置で開いた。読もうとして、ゆっくりと空を見上げた。まぶしさを増してきた太陽は高い位置にあり、えんりよなく彼と頁を照らしている。

 本を閉じ鞄に入れて彼は立ち上がる。五十歩ほど歩いて、木々が植えられている一角へと行く。緑の葉が広がる枝の真下、影の中に座り直した。

 そして、取り出した本を開く。

 読み始めた。


 ロウ・スネイアム記念上級学校は、ただ草原と畑の中にある。

 針葉樹の列で囲まれた、小さな村が一つ入ってしまうほどの敷地。しっかりとした赤煉瓦造りの校舎が五棟整列して、教職員用の棟、室内運動場、給食調理棟などがそれを囲む。広大すぎる敷地内には、大きな陸上競技場や球技用運動場、自然学習用の森と畑、芝生とたいぼくが植えられた庭が広がる。

 元は陸軍へいたいちゆうとんだったこの施設は、二十四年前に教育省に売却されて上級学校になった。以来、十二歳から十八歳までの生徒約千人を抱える、この地方では最も有名な上級学校として存在し続けていた。


 本を読む少年が、五枚ほど頁をめくったときだった。校舎わきとびらが開き、一年のしようをつけた生徒、十人ほどが騒がしく話しながら出てきた。最後に扉を閉めながら、脇に移動用こくばんを抱えた長身の中年教師も。

 少年が顔を上げた。一年生達が、おしやべりをしながらこちらへとくる。通り過ぎざまに彼を見て、少し驚くのもいれば、気にしない者もいた。

 やがてきた教師は彼に気づき、その少し前で立ち止まる。


「読書かい? ヴィル」


 そう話しかけられた少年、ヴィルヘルム・シュルツは顔を上げ、あいさつの言葉の後うなずいた。

 教師が、何を読んでいるんだいと興味ほんの口調でたずねる。ヴィルは一瞬なやんだ後、その本の表紙を教師に見せた。すぐに、教師の苦笑いが返ってきた。


「参ったよ。なんて書いてあるんだ?」

「『おとぎ話全集』です」

「おとぎ話?」

「西側のおとぎ話がいくつも載っているんです。こっちに伝わってるのもけつこうあるんですが、結末がまるっきり変わっていたりしておもしろいです」


 ヴィルが答えた。教師が軽く肩をすくめてみせた。


「図書室にはそんなのもあるのか」

「先生は、補習ですか? 一年生の」

「ああ。初学期からなかなかごうだろ。幼年学校気分が抜けてないんだな。──そうだヴィル、一緒にどうだい? 君なら教師役もやれる。歴史だよ。そうしたら私は寝ていられる」


 教師がおどけて言った。


えんりよしておきます」


 ヴィルは軽く笑って首を振った。

 三本となりにある、一番太い木の下を教室に決めた生徒達が教師を呼んだ。教師はヴィルに一言かけ歩き出し、やがて待っていた生徒達の前に立った。黒板の足を広げて置く。


「先生。あのせんぱいも、のこりですか?」


 生徒の一人が、当の五年生に聞こえないように小声で聞いて、その場から笑い声が漏れる。

 夏期休暇は三日前から始まっていて、生徒達はそれぞれの故郷へと、半年ぶりに帰っている。今ここにいるのは、先学期の成績が著しく芳しくなく、補習で十日ほど帰郷を遅らされた居残り達だった。


「いいや、違う」


 教師は首を振った。


「ひょっとして、〝祭り〟に出た人じゃないですか?」


 だれかが聞いて、教師が答える。


「ああそうだ。成績だって、全然悪くなんかないぞ。飛び級してもいいくらいだ」


 へえ、じゃあなんで? 興味ほんのその言葉に、教師は軽く表情を曇らす。

 そして質問に答えずに、はくぼくを手に取った。長方形の黒板に、大きなジャガイモを描く。


「さて、授業を始めるか。しっかり覚えないと、いつまでたってもママのシチューは食べられないからな。まずは地理からだ」


 ジャガイモ──横が少し長いえんけい

 この世界ゆいいつの大陸は、そんな形をしている。黒板に描かれたジャガイモが、方位が正しいとうえい法で描かれた世界地図にそっくりになる。ジャガイモの下部は、赤道に触れるか触れないか。上は、北緯六十度を少し超える程度。

 ジャガイモの真ん中に、教師はやまじるしをいくつも、下から上へ描いていった。それがほぼ中央の高さで終わった後、その左右に、線を平行に引く。山の先端でつながった線は、まっすぐ北へと、海まで延びる。


「一応おさらいだ。な絵で悪いけれど、山印が中央山脈、線がルトニ河だ」


 大陸は、山と川によって真っ二つに分けることができる。

 中央山脈は、一万メートル級の峰をいくつも抱える、世界最大最長の山脈。大陸南端の砂漠地帯から始まる山脈は、真北に向けて大陸を分断しながら延び、北緯三十度弱、大陸半分を進んで終わる。

 ここから、ルトニ河が大陸とうぶんの役目を引き継ぐ。山脈ゆうを平行に流れていた東ルトニ河と西ルトニ河が合流し、いくつもの支流を抱えながら太くなっていく。大河は北の海へと、ほぼ真っ直ぐに向かう。


「で、こっちにあるのが?」


 きれいに等分された大陸の地図の、東半分を指しながら教師が聞いた。


「〝ロクシェ〟です」


 生徒のだれかが、すぐに答えた。教師が正式名称をたずねて、


「〝ロクシアーヌク連邦〟。私達の国です」


 一人の女子が答えた。


「そうだ。正式名で覚えておかないとな。長いけれど」


 教師はそう言って、略称の方を黒板に書く。生徒にずるいと指摘され、ちっとも悪びれずに長いからなあと言った。次に西側をして、


「じゃあ、こっちは?」

「〝悪の帝国〟」


 誰かがすかさずちゃかし、生徒達から笑いが起こった。


「そう呼ぶ人もいる。じゃあ、正式名と略称は?」


 ちゃかした誰かは答えられず、しばらくして別の生徒が、


「〝ベゼル・イルトア王国連合〟。えっと……、〝スー・ベー・イル〟だったと思います」

「正解。ちなみに、〝悪のナントカ〟って回答らんに書いたら不正解だよ。他に、正式ではないけれど、みんなが普通に呼ぶのがあるな。なんだ?」

「〝かわこう〟」


 数人がいつせいに答えた。


「そう。ルトニ河の向こう側だから河向こう。簡単だろ? じゃあ河向こうの人達が、私達ロクシェのことを、だんなんて呼ぶか知っているかい?」


 教師が質問して、そして誰も答えられなかった。いくつかまとはずれな答えが出た後、静かになった。

 ヴィルはおとぎ話を読みながら、


「〝河向こう〟──」


 ぽつりと正解をつぶやく。


「ロクシェは、君達がいろいろな国からきているように、大陸東側にある十六の国と地域の集まりだ。スー・ベー・イルは、西側の二つの大きな王国と小さな国のいくつかがまとまったものだと覚えておこう。幼年学校では、ロクシェの歴史しか勉強しなかったけれど、今度からはかわこうとのかかわりも重要になる」

「戦争ですか?」


 だれかが聞いて、教師はうなずいた。


「ああ。そうだ──」


 ロクシェとスー・ベー・イル。両国の〝交流〟の歴史は、つまりは戦争の歴史になる。