「まだできてもない部に誘うなよ。ていうか神楽坂先輩ってだれ?」
「二年一組の人。すっごいかっこいいの」
詳しく聞いてみて謎はすべて解けた。千晶は去年の夏あたりにその神楽坂なる人物と知り合ったらしく、この高校の推薦をわざわざ取ったのもドラムを始めたのもその神楽坂某のためだというのだ。ばかばかしい。ぼくは鞄を取り上げて教室を出た。それでなくてもぼくと千晶が喋っているとクラスメイトの注目を浴びるので恥ずかしい。
「待って待って、いいじゃないどうせヒマでしょ?」千晶が追いかけてくる。
「ヒマだけど部活はやらない」
「なんで」
「だって、どうせ続かないよ」
小学校の頃おまえにつきあわされて柔道始めて二週間でやめたのはおまえもよく知ってるだろ、と言おうとしてやめる。
「えー。じゃあなにしに高校入ったの?」
勉強のためだろ? なんて心にもない殊勝な正論はもちろん口にできなかった。
「あんた人生つまんなくない?」
おまえは楽しそうだよな。
「なんでぼくのつまんない人生にいちいちかまうわけ?」
なにげなく訊いてみると、千晶はいきなり立ち止まった。ぼくが振り向くと視線をそらし少しうつむく。どうしたんだろう。
「……どうしてだと思う?」と、顔をそむけたまま千晶は訊いた。ぼくは返答に困る。
「おまえもヒマだから?」
千晶の手がぼくのブレザーの襟元にすっと伸びた。と思った次の瞬間にはぼくの身体は一回転して背中から廊下に叩きつけられていた。
「……ってぇ」目の前でちかちかと星が散る。しばらく息ができない。それでもなんとか壁に手をついて立ち上がる。「ことあるごとに背負い投げすんのやめろ!」
「背負いじゃなくて体落としだもん」
「そういう問題じゃないだろ殺す気か!」
「ばーか!」
最後にぼくの太ももに蹴りを一発入れると、千晶は走り去った。なんなんだよ。
ぼくが部活をやらないのには、めんどくさいという巨大で消極的な理由に加えてもう一つ、積極的といえないこともないわけがあった。放課後、学校でやることを見つけたからだ。
千晶を見送ってから一階まで下りると、校舎の裏口から狭い裏庭に出る。使われなくなって久しい錆だらけのゴミ焼却炉の脇に、一棟の細長い建物があった。公園の公衆トイレみたいな、コンクリートの無造作な直方体の側面にドアがいくつも並んでいる。長いことだれも使っていないらしく壁もドアも土や泥がこびりついて汚れていた。私立校で無駄に広い上に最近生徒数が減っているらしいのでこういう未使用施設や空き教室がけっこうあるのだ。
その建物の左端の部屋に入れることを発見したのは、入学三日目のことだった。学校探検中にノブをがちゃがちゃやっていたら開いてしまったのだ。後の研究で、右斜め下に押し込みながら四十五度だけ回すと鍵が外れるという事実が判明した。
中には鉄製の高い棚とロッカーと古びた長机が一つずつ。壁は無数の小さな穴が等間隔に並んだ吸音材で、床についた痕跡から、たぶん昔はピアノが置いてあったんだろうとわかる。でも今は、備品らしい備品といえば机の端の小さなCDコンポ一つきりだ。 実はこの高校は父の母校でもあるのだけれど、その父の話によると昔は音楽科があったのだそうだ。父の卒業後ほどなくして廃止されたらしい。冗談まじりに「おれたちの学年があまりに素行が悪かったから潰れた」などと言っていたが、案外ほんとうかもしれなかった。
防音なのをいいことに、ぼくはその部屋に大量のCDを持ち込んで、大音量で思う存分好きな曲を聴いて放課後の時間を潰すことにした。なにしろ家ではだいたい父がこれまたすさまじい音量でクラシックのレコードをかけていることが多いので、落ち着いて楽しめる場所がなかったのだ。
建て付けが悪くて防音が完璧ではないので、ドアの上の隙間にタオルをねじ込んでから、コンポの電源を入れる。その日の一枚目はボブ・マーレィのライヴアルバム。なんとなくレゲエな気分。たぶん千晶が言っていたことが引っかかっていたんだと思う。
人生つまんなくない?
そんなの考えたこともなかった。ていうか部活をやらないくらいで人生総括されても困る。いいじゃんかべつに、音楽鑑賞部でもさ。だれにも迷惑かけてないし。無断使用だけど、久しく使われてない部屋だったみたいだし、自分で掃除もしたし、外に音が漏れないように聴いているぶんには問題ないんじゃないかな。