転入してきた次の日の昼休み、真冬は女子の野次馬包囲網にたまりかねたらしく、人垣の隙間からすがるような目でぼくをちらちらと見るようになった。なにか求められても困る。撮影スタジオはどんなところなのかとか、テレビ局で芸能人のだれそれに逢わなかったかだとか、そういう女子たちの質問がうるさくなり、逃げようと思ってぼくが椅子を引いたとき、ばあんと机を叩く音が聞こえた。振り向くと、人垣が割れていて、その中に立つ真冬が涙目でぼくを突き刺すように指さしている。
「その人に訊いてください。わたしのアルバム全部持ってたりする変態だから。わたしのことだいたい知ってるから」
え、なに?
椅子を蹴倒して真冬はぼくの横を走り抜け、教室を飛び出していった。
ぼくの顔に無数の視線が集まり、学級委員の寺田さんが最初に口を開く。
「……蛯沢さんと変態さんはどういう関係なの?」変態呼ぶな。
「なんか昨日も知り合いっぽいようなこと言ってたよね」
「ねえ」
あの女、逃げ出すためだけにてきとうなこと言いやがって……。
「あれじゃね、こいつの親父、音楽評論家だからそのつながりで」と男子のだれかが言う。
「あ、そかクラシックだもんね」
「じゃあ昔から知ってたの?」
「お父さん色々知ってるんじゃないの」
「訊いてきてよ。なんでうちの高校来たのかとか。蛯沢さん全然自分のこと喋らないし」
そこまで知ってるわけないだろ。クラシック音楽界をどんだけ狭いところだと思ってんだ。とは思ったものの、その場を切り抜けるため、ぼくは曖昧にうなずいてみせるしかなかった。
それにしても、あれだけ邪険にされてて、よく話しかける気になるもんだ。それが真冬をクラスになじませようという委員長の優しさなのか、それとも好奇心ゆえの忍耐強さなのか、ぼくにはわからなかった。両方かもしれない。
その日家に帰ってから、ぼくは世間の狭さを痛感することになる。
「ねえ哲朗、蛯沢真冬って憶えてる?」
夕食の支度をしながら、ダイニングにいる父に訊いてみる。哲朗と名前で呼ぶようになったのがいつ頃からなのかぼくもよく憶えていないけれど、母が出ていった前後じゃないかと思う。なんだか父親だと思えなくなったからだ。
そのときの哲朗はジャージ姿で椅子の上にウンコ座りして、スピーカーから大音量で流れるチャイコフスキーのワルツに合わせて、飯はまだかとばかりに茶碗を箸で叩いていた。これが四十過ぎの子持ちの男がやることか。
「……今なんか言った?」
手を止めずに振り向いて哲朗は言うので、ぼくはぶち切れて、箸を取り上げレコードを止めた。哲朗は子供みたいにむくれる。
「蛯沢真冬って憶えてるかって訊いたの」
「ん? ああ、うん。蛯沢真冬な。バッハだなやっぱり。パルティータがどれもぎこちなくてそこがいい。バッハ弾きはたまにびっくりするくらい若いのが出てきて、たとえば」
「いや、講釈は要らないから」
まあ哲朗にとっては数多いピアニストの中の一人に過ぎないのだから、演奏の話しか出てこないのも当たり前だろう。そう思って台所に戻ろうとしたら、哲朗がさらに言った。
「おまえの学校に転入したんだって?」
「なんで知ってんのッ?」
ぼくはびっくりして鍋にけつまずきそうになりながらも振り向く。
「だって、おれもエビチリもあそこのOBだしな。エビチリは理事だから無理言ってねじ込んだんだろ」
「あ……そうか、娘さんだっけ」
蛯沢千里──通称エビチリは一般人にも名を知られている数少ない指揮者の一人で、ボストンやシカゴの常任指揮者を歴任してきた、世界でも名の通った音楽家だった。ちなみにこのふざけたあだ名を定着させてしまったのは哲朗である。評論家って怖い。
蛯沢真冬がデビューしたときの話題の一つが、父親があの『世界のエビチリ』であるということだった。たしか親娘で協演する話もあったはずだけれど、その前に真冬は音楽界から姿を消してしまったのだ。
「でも、うちの学校もう音楽科ないよ。なんで来たんだろう」
「娘がゴネたんだと。ほんとは音大付属に決まってたのに、行きたくないっつって。それでしかたないから、とりあえず普通の高校ってことであそこに編入させたんだろ。もうピアノやめたんじゃねの。おれも最初に聴いて破滅型だと思ったな。対旋律の弾き方が自分同士で口げんかしてるみたいでな」
いや、でも。
ぼくは彼女のピアノを聴いた。あの日、《心からの願いの百貨店》で。
ピアノを──やめた? どうして?
ぼくは湯気を噴き上げる鍋もそのままに、黙り込んで考えに沈む。
「なあ、飯まだ?」
めーしっまだー? と、哲朗は『もう飛ぶまいぞこの蝶々』の節で歌い始めた。うるさい。レコードでも食ってろ。
なにか事情があってピアノをやめて、音大に進むことも土壇場であきらめてうちの高校に来たということなら、こんな変な時期の転入にも一応筋は通る。でも、どうしてやめたんだろう。
ぼくは頭を振って、詮索はやめよう、と思った。こんな話をもしクラスメイトに漏らしたりしたら、ほんとにぼくが真冬のことを色々知っていると思われてしまう。ただ隣の席ってだけだ。向こうにも事情はあるんだろうし、なんだか知られたくないみたいだし。ぼくの生活にあっちから踏み込んできたわけじゃないんだから、ほっとくしかないだろう。
でも、次の日から真冬はほんとうにぼくの領域に入り込んできた。
考えもしなかったやり方で。