さよならピアノソナタ

3 嘘つき、弁当、パルティータ ②

 転入してきた次の日の昼休み、真冬は女子のうまほうもうにたまりかねたらしく、人垣のすきからすがるような目でぼくをちらちらと見るようになった。なにか求められても困る。さつえいスタジオはどんなところなのかとか、テレビ局で芸能人のだれそれにわなかったかだとか、そういう女子たちの質問がうるさくなり、逃げようと思ってぼくがを引いたとき、ばあんと机をたたく音が聞こえた。振り向くと、人垣が割れていて、その中に立つふゆが涙目でぼくを突き刺すように指さしている。


「その人にいてください。わたしのアルバム全部持ってたりする変態だから。わたしのことだいたい知ってるから」


 え、なに?

 椅子をたおして真冬はぼくの横を走り抜け、教室を飛び出していった。

 ぼくの顔に無数のせんが集まり、学級委員のてらさんが最初に口を開く。


「……えびさわさんと変態さんはどういう関係なの?」変態呼ぶな。


「なんか昨日きのうも知り合いっぽいようなこと言ってたよね」

「ねえ」


 あの女、逃げ出すためだけにてきとうなこと言いやがって……。


「あれじゃね、こいつのおや、音楽ひようろんだからそのつながりで」と男子のだれかが言う。


「あ、そかクラシックだもんね」

「じゃあ昔から知ってたの?」

「おとうさんいろいろ知ってるんじゃないの」

「訊いてきてよ。なんでうちの高校来たのかとか。蛯沢さん全然自分のことしやべらないし」


 そこまで知ってるわけないだろ。クラシック音楽界をどんだけ狭いところだと思ってんだ。とは思ったものの、その場を切り抜けるため、ぼくはあいまいにうなずいてみせるしかなかった。

 それにしても、あれだけじやけんにされてて、よく話しかける気になるもんだ。それが真冬をクラスになじませようという委員長のやさしさなのか、それとも好奇心ゆえの忍耐強さなのか、ぼくにはわからなかった。両方かもしれない。



 その日家に帰ってから、ぼくは世間の狭さを痛感することになる。


「ねえてつろう、蛯沢真冬っておぼえてる?」


 夕食の支度をしながら、ダイニングにいる父に訊いてみる。哲朗と名前で呼ぶようになったのがいつごろからなのかぼくもよく憶えていないけれど、母が出ていった前後じゃないかと思う。なんだか父親だと思えなくなったからだ。

 そのときの哲朗はジャージ姿で椅子の上にウンコ座りして、スピーカーから大音量で流れるチャイコフスキーのワルツに合わせて、飯はまだかとばかりにちやわんはしで叩いていた。これが四十過ぎの子持ちの男がやることか。


「……今なんか言った?」


 手を止めずに振り向いててつろうは言うので、ぼくはぶち切れて、はしを取り上げレコードを止めた。哲朗は子供みたいにむくれる。


えびさわふゆっておぼえてるかっていたの」

「ん? ああ、うん。蛯沢真冬な。バッハだなやっぱり。パルティータがどれもぎこちなくてそこがいい。バッハきはたまにびっくりするくらい若いのが出てきて、たとえば」

「いや、こうしやくらないから」


 まあ哲朗にとっては数多いピアニストの中の一人ひとりに過ぎないのだから、演奏の話しか出てこないのも当たり前だろう。そう思って台所に戻ろうとしたら、哲朗がさらに言った。


「おまえの学校に転入したんだって?」

「なんで知ってんのッ?」


 ぼくはびっくりしてなべにけつまずきそうになりながらも振り向く。


「だって、おれもエビチリもあそこのOBだしな。エビチリは理事だから無理言ってねじ込んだんだろ」

「あ……そうか、娘さんだっけ」


 蛯沢さと──通称エビチリは一般人にも名を知られている数少ない指揮者の一人で、ボストンやシカゴの常任指揮者を歴任してきた、世界でも名の通った音楽家だった。ちなみにこのふざけたあだ名を定着させてしまったのは哲朗である。ひようろんって怖い。

 蛯沢真冬がデビューしたときの話題の一つが、父親があの『世界のエビチリ』であるということだった。たしかおやで協演する話もあったはずだけれど、その前に真冬は音楽界から姿を消してしまったのだ。


「でも、うちの学校もう音楽科ないよ。なんで来たんだろう」

「娘がゴネたんだと。ほんとは音大付属に決まってたのに、行きたくないっつって。それでしかたないから、とりあえず普通の高校ってことであそこにへんにゆうさせたんだろ。もうピアノやめたんじゃねの。おれも最初にいて破滅型だと思ったな。たいせんりつの弾き方が自分同士で口げんかしてるみたいでな」


 いや、でも。

 ぼくは彼女のピアノを聴いた。あの日、《心からのねがいの百貨店》で。

 ピアノを──やめた? どうして?

 ぼくは湯気をき上げる鍋もそのままに、だまり込んで考えに沈む。


「なあ、飯まだ?」


 めーしっまだー? と、哲朗は『もう飛ぶまいぞこのちようちよう』の節で歌い始めた。うるさい。レコードでも食ってろ。

 なにか事情があってピアノをやめて、音大に進むこともたんであきらめてうちの高校に来たということなら、こんな変な時期の転入にも一応筋は通る。でも、どうしてやめたんだろう。

 ぼくは頭を振って、せんさくはやめよう、と思った。こんな話をもしクラスメイトにらしたりしたら、ほんとにぼくがふゆのことをいろいろ知っていると思われてしまう。ただとなりの席ってだけだ。向こうにも事情はあるんだろうし、なんだか知られたくないみたいだし。ぼくの生活にあっちから踏み込んできたわけじゃないんだから、ほっとくしかないだろう。

 でも、次の日から真冬はほんとうにぼくの領域に入り込んできた。

 考えもしなかったやり方で。



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