ヴァルプルギスの後悔Fire1.

chapter one〈the righteous〉 ⑤

 倒された男が手からぽろり、と取り落とした拳銃が床に落ちる前に、手に取ることもせずに、脚をふるって──次なる標的に定めた男の顔面めがけて蹴り飛ばしていた。

 銃は、当然ながらきわめてがんじようにできている重い物である──それに顔面を直撃された男は、前歯を全部折られて後ろに吹っ飛んだ。


「──な……!」


 残った男たちは凪に銃を向けようとする……凪は蹴りを入れた勢いのままに身をひるがえして、倉庫の隅に積まれていたドラム缶の陰に飛び込んだ。

 ばんばんばん、とそこに銃撃がようしやなく浴びせられる。空っぽのドラム缶には穴が開き、弾丸のたてにしようと向こう側にいた者もはちの巣になった──と思われた。

 だが凪は、ドラム缶の陰に飛び込んで、そこでまったく停まっていなかった。だから男たちが撃ったときには、もう反対側から飛び出していた。

 はっ、と男たちがそっちを向いたときには、また一人──凪の飛びひざりのじきになって、吹っ飛び、そしてそのすぐ後ろにいた男も一緒に吹っ飛ばされて、倒れながらも銃を構えようとしたところを、その手を凪に踏まれていた。

 凪のブーツは工事現場で使われる安全靴と同じく、中に鉄板が仕込んである──それに踏みにじられて、男の手は銃と一体化するかのような、いびつな形に骨ごとひしゃげてしまった。

 しかも踏みながら、凪はそのまま駆け抜けようとして男の顎を反対の足で蹴っていた。意識は一瞬で消えてしまっただろう。

 残るは三人──この男たちはさすがに接近戦では相手の方が遙かに上と悟って、ばっ、とその場から後方に飛びすさって離れた。

 だがその内の一人は、逃げ切れない──凪のスライディングが男の足首を刈り取り、転倒したそいつは頭を強打して、そして動かなくなった。

 凪はここで、やっとそいつの銃を拾って、そして自分も物陰に飛び込んだ。

 ここまで──十秒とっていない。

 凪と同じように物陰に潜んだ敵は、あと二人。

 そいつらは回り込むようにして移動して、凪をはさみ撃ちにしようとしていた。

 そいつらに向かって、凪は言った。


「おまえたちが流していた〝サンド・クリット〟という薬物から、毒素を検出することに成功した──だからもう、あれはれっきとした違法になって、警察も動いている。もうすぐここにもやってくる。だから──」


 敵が動いているのを知りつつも、凪はその物陰に腰をえるようにして、動かない。


「──警察に捕まれば、統和機構とは戦わなくてもすむぞ。その方がおまえらも安全だろう」


 凪がそう言っても、相手は返事をしない。凪は、ふん、とかすかに鼻を鳴らした。


「やっぱりそうなのか──統和機構ってのは、警察なんぞとは比較にならないほどに恐ろしいもののようだな? しかしだったら、なおさら刑務所に行った方がいいんじゃないのか。逃げ切れるものでもなさそうだし、な──」

「……おまえは、なんなんだ?」


 男の一人が、耐えきれなくなってつい、そう訊いていた。彼らにはあまりにも、訳のわからない状況なのだった。


「まさか、ほんとうに街に〝サンド・クリット〟を流していたのを、それを潰すためだけに──」

「おまえらにとってはただの資金かせぎでも、それで人生が無茶苦茶にされる人間がいるんだよ」


 凪のきっぱりとした言葉に、男は思わず甲高い声を上げてしまった。


「馬鹿な! そんなはずがあるか! どうでもいい一般人のために、わざわざ一人で俺たちを倒しに来るようなヤツなんか、そんな──そんな下らないヒーローみたいなヤツが、この世にいるものか!」

「じゃあ、いないんだろ──」


 凪の、ほとんど投げやりのような声は、途中で、ごん、という鈍い音によって途切れた。

 はっ、と男が物音の方をこそこそとうかがうと、残っていたはずのもう一人の仲間が、物陰から突き飛ばされて床の上に転がり出たのが見えた。

 どうやら男と凪が対話している隙をついて襲おうとして、逆にやられてしまったようだ──いとも簡単に。

 これで、ダイアモンズの者はもう、彼しかいない。

 ひっ、と喉の奥からかすれ声が出た。自分の発する声ではないように聞こえた。

 背後の方で、かさり、と物音がした。彼は反射的にそっちに向かって銃を発射していた。だがそのとき、さらに後ろから、


「こっちだよ」


 という声が、ほとんど耳元で囁かれた。

 悲鳴と共に振り返って、そして銃をそっちに向けて撃とうとする──だが、弾丸が出ない。


たま切れだよ──撃った数は数えとけ」


 と、凪は敵から奪った銃を、男の顔に押し当てて言った。凪は敵のそうだんすうを、すでにその銃で数えていたのだった。


「ちなみに、こいつにはまだ三発残っている。おまえが質問に答えないと、左頰と歯が半分吹き飛ぶぞ。わかったか?」


 凪の容赦ない声に、男はがくがくとうなずいた。凪はうなずいて、そしてじんもんを開始した。


「さっき、おまえらは変なことを言っていたな──〝船を動かせ〟と言われたとか、なんとか──そいつはなんのことだ? ジィドというのは何者だ」

「お、俺たちもろくに知らないんだ。ジィドってのは、幹部だ──わなとか仕掛けるのが、異常にうまいヤツで」


 男は脂汗を浮かべながら、ぼそぼそと答えた。


「船は、だいぶ昔にこの国に持ち込んでいた貨物船で、孤島の隠しドックに係留していたんだ。中に何が積まれているのかは、俺たちも知らされてない──でもそいつを、ジィドは急にエンジンを入れ替えろ、港につけろってあれこれ命令してきて──ほんとにくわしいことは、なにもわからないんだ……」

「その港というのはどこだ?」


 凪は鋭い口調で訊いた。


    6.



(な……?)


 村津隆は、自分が突然に足場を失ったことを自覚した。

 彼が、ダイアモンズから買い取った〝サンド・クリット〟の原液入りのペットボトルを保管しておいたコインロッカーのところに行ってみると、そこには何人もの警官がいて、あれこれと調べているところだった。遠くから見ていたので、向こうからはわからないようだったが、もちろん近寄ったりはせずに、そのまま逃げた。

 彼が貯金していた金のほとんど全額であった一千万円をはたいて買い込んだブツは、どうやら水のあわになってしまったらしい──なにがなんだか、訳がわからなかった。


(ダイアモンズがあせっていたのは、こういうことだったのか……?)


 混乱しながら、彼は街をふらふらとさまよっていた。

 運命──そんな言葉が脳裏をよぎっていた。

 冥加暦が言っていた〝あなただけの運命〟というのは、しょせんこんなものだったのだろうか?


(れき──俺も、あんたみたいに消えるだけなのか──?)


 彼は怖かった。

 彼女に、私とあなたは似ていると言われて、その彼女があっさりと死んでしまったと聞かされて、それがずっと恐ろしかった。自分もいていないと消えてしまうのではないか、と──その観念が彼の心の中に突き刺さって抜けなかった。

 そして今──とうとうその破滅がやってきたのだろうか。

 もう金はない。彼を守るものは何もない。警察に捕まったら、親も彼のことを見捨てるに違いないと思われた。


(お、俺は──俺は──)


 隆がぼんやりと歩いていたら、その前にいくつもの人影が立ちはだかった。


「おい、おまえ──おまえだな、最近ここらで荒稼ぎしてたっていうガキは」


 乱暴な口調で呼びかけてきたのは、この辺りを縄張りにしていると思しきヤクザだった。全員がへびのような眼をしていた。


「…………」


 隆は、とっさには反応できなかった。目の前の事態があくできなかったのだ。

 するヤクザの一人にえりもとつかまれて吊し上げられた。そのまま路地裏へと連れ込まれる。


「とぼけんじゃねえぞ、おい──ネタは上がってんだよ。警察がここら辺に麻薬を流していたヤツがいるって調べ始めてるんだ。それって、おまえのことだろう──最近チョロチョロしてるってうわさになってたからな」