ヴァルプルギスの後悔Fire1.

chapter two〈the devotion〉 ②

    2.


「──ここ、かしら……?」


 織機綺は閑静な住宅街の一角にそびえるマンションを見上げた。住所しか知らないのだが、建物の名前などが一切外に書かれていないので、合っているのかどうか自信がない。

 建物自体は、そんなに立派という感じでもない。窓もほとんどカーテンが引かれていて、はなやかさもない。いかにも高級です、という雰囲気はない。入り口はなんだか狭く、どうも入る者をぜんぶチェックしているらしい。そういえば造りも、ただ地味なだけでしっかりとしたもののようだ。


(目立ちたくない人たちが住むように、セキュリティが厳重、って──ことかしら)


 凪と綺が住んでいるのは、びっくりするくらいに普通のマンションなのでギャップがあるが、しかし考えてみればこっちの方が、より〝炎の魔女〟の協力者のイメージにあっている。


(凪も来たことがあるのかしら。ううん、あるに決まっているわよね──)


 羽原健太郎は、綺の前ではただの気のいいお兄ちゃんという感じなので、凪と二人のときにどんな話をしているのか、考えてみたら何も知らない。

 怖いことをたくさん話しているのだろうか。怖くて、すごいことを。

 綺は今まで、あえてそのすごいことには近寄らないようにしていた。凪の迷惑になりたくなかったからだ。しかし──今はそんなことは言っていられない。正にその、凪の安否に関わるかも知れないことなのだから。


「──うん」


 意を決して、おそるおそるマンションの入りづらい玄関をくぐった。管理人がいるということはなく、インターホンのようなタッチパネルが置いてあるだけだった。どこかで誰かがカメラ越しに見張っているのだろうか。


「ええと──」


 教えられている部屋番号を押そうとしたそのとき、逆にパネルから声がした。

〝綺ちゃん、ロックは開けた。入ってくれ〟

 健太郎の声だった。綺はびくっ、と出しかけていた指を引っ込めた。


「あ、あの──羽原さん、私……」


〝話は中でしよう〟

 健太郎の声は素っ気ない。綺はあわてて中に入り、エレベーターに乗って健太郎の部屋まで昇っていった。

 そして扉が開いて、その前にはもう、健太郎がそこで待っていた。

 少し、厳しい目つきで綺を睨んでいる──と一瞬感じたところで、健太郎はにっこりと、いつもの人なつっこい笑顔になり、


「やあ、いらっしゃい。珍しいな、綺ちゃんがここに来るなんて」


 と言った。綺はもじもじしながら、


「あ、あの──こんにちは」


 とあいまいな挨拶をした。


「正樹はどうした? たしか今日は、あいつも外出日じゃなかったか」

「いえ、正樹は──その、凪を探しています」


 綺がそう言うと、健太郎は少し無表情になって、


「今日は、凪はつかまらないと思うが」


 とやや突き放したように言った。


「ああ──やっぱり……」


 綺はため息をついた。凪はたいてい、いつだって忙しいのだ。


「それで……私は、その──羽原さんに言っておいた方がいいと思って──」


 綺がさらに何かを言う前に、健太郎は、


「とにかく、話は家の中でしよう」


 と彼女をうながして、自分の部屋へと彼女を招き入れた。

 その室内を見て、綺はややホッとするものを感じた。色々なものが一見、雑多に並べられているようで機能的な、その秘密基地みたいな室内は凪の自室にそっくりだった。同じことをしているのだ、ということが理屈抜きでわかる。


「散らかってて悪いね。その辺に座ってくれ」

「はい」


 綺は革張りのソファーに腰掛けた。脇に毛布が置かれていることから、健太郎の仮眠ベッドでもあるらしい。ちょっととまどったが、凪もここにいつも座っているのだろうと思ったら抵抗もなかった。


「それで、話っていうのは?」

「えと──そうですね、どう話したらいいのか──」


 綺は、何度か言葉に詰まりながらも、自分がそうぐうした〝リキ・ティキ・タビ〟と名乗った不思議な存在について説明した。健太郎はずっと眉間にしわを寄せながら、その話を真剣に聞いていた。特に質問を挟むことなく、最後まで綺に言わせてから、彼は「むう」とうなった。


「そいつは──なんだか深刻な感じだな」

「幻覚かも、って何度も思おうとしたんですけど、でもそれにしては」

「そうだな、君の知らないことまで、君の幻覚には出てこない──幻だとしたら、誰かに見せられたことになる。だが、誰が?」


 健太郎は腕を組んで、そして上目遣いに綺を見つめながら、


「統和機構だと思うか?」


 と訊いてきた。綺はその単語が出てきただけで、びくっ、と身体を強張らせた。


「わ、わかりません──でもなんだか、それにしては変な気もします。私なんかに、そんな手の込んだことをするとも思えません……」


 綺は、膝の上で組んだ指先が震えそうになってきたので、ぎゅっ、と力を込めて握りしめた。


「…………」


 健太郎はそんな綺を見つめ続けていたが、やがて、


「どうしてだ?」


 と訊いた。え、と綺が顔を上げると、彼はうなずいて、


「どうして、まず俺のところに来た? 凪ではなく、まず俺に知らせた方がいいと、どうして思ったんだ?」


 とさらに言った。綺は、首をふるふると弱々しく振って、


「……どうしよう、って思ったんです──これって、凪に言った方がいいことなのかどうか、それもわからなくって、それで──」

「まず俺に、それを確かめてほしい、って訳か。まあ、判断としては悪くないかもな。凪が直接、当たらない方がいいことかも知れないし──リキ・ティキか」


 健太郎はまた、むう、と唸る。


「知ってるんですか?」

「名前だけなら。そいつはきっと〝てんてき〟って意味だ。ある童話に出てくるマングースの名前だからな、それは。森に住む邪悪なへびを狩るもののことだ」

「天敵──統和機構の天敵──ですか?」

「どうにもやばそうな話だな、うそでも本当でも──」


 健太郎が考え込んでしまって、しばし沈黙が落ちた。


「…………」


 綺は、ぎゅっと握りしめたままの自分の手を見つめていた。やがて彼女は、うつむいたままで言った。


「私は……消えるべきでしょうか」


 その声は小さかったが、しかしはっきりとした響きを持っていた。ぴくっ、と健太郎の眉が上がった。


「どういう意味だ?」

「あの、リキ・ティキって人は言いました……おまえは彼女の力には決してなれない、って──私がいることは、凪にとって悪いことなのかも知れません──だったら」


 綺の声はかすかに震えていたが、しかしそれは緊張のせいで、そこには迷いはなかった。


「正樹はどうするんだ」


 健太郎がそう言うと、綺は首を横に振った。


「凪の害になることなら、正樹にとっても同じです。私は、いない方がいい──」


 そう言って、また黙ってしまう。

 健太郎も無言で、そんな彼女を見つめていたが、やがて舌打ち混じりに言った。


「……まあ、凪のところにまず、話をしなくてよかったな。そんなことを言ってみろ、あいつは本気で怒るぜ」

「──羽原さんは」


 綺は顔を上げて、健太郎のことを見つめ返した。


「凪のやっていることを利用して、何かをしているんですか? 得することはあるんですか?」

「は?」

「何もしていないわけじゃ──ないんでしょう?」

「……否定はしないけど、それがどうした?」

「凪と一緒にいることも、ある意味お互い様なんでしょう? でも、私は……私はもらってばかりで、凪に何も返せていないんです」


 綺は思い詰めたような眼になっていた。


「…………」


 健太郎は、やや遠くから話しかけるような口調で、


「なあ綺ちゃん、ジャンヌ・ダルクって知ってるか」


 と、とうとつに言った。綺は、え、と虚をつかれて、きょとんとした顔になった。


「え、ええ……知ってますけど。聖女とかいって……」

「そうだ。使命感に駆られて、民衆を率いて、侵略者と戦った少女だ。だが彼女は、敵に捕まったときに、時の権力者に危険視されて、仲間に見殺しにされたあげく魔女扱いされて処刑されてしまった」

「…………」