螺旋のエンペロイダー Spin1.

turn 1."The Eraser" 第一旋回『消しゴム』 ④

 今日の印象レポートの提出は二日後に、と講師が告げてから、通常の講義が始まった。今日のは学校のそれとは比較にならない高等数学だ。敵と自分の間合いの距離の数値化や相対速度を割り出す数式の作り方など──微分積分とかは彼らのような者たちにとっては、単なる実用技術の一環なのだった。ここで勉強を習うと、学校の授業など〝前に進むためにはまず右脚を出して、次に左脚〟と歩き方を教わっているような単調かつ低レベルなものになってしまう。

 しかも時間はそれほど長くない。どんなになんかいな講義でも、三十分以上することはない。途中であっても〝続きは明日〟で打ち切られてしまう。そういうカリキュラムが三つほど消化されると、一日の予定は終了する。

 夕方から始まっても、夜の八時にはほぼ終わっているのが常だ。この程度の長さであれば、誰もこのNPスクールを単なる学習塾と思い、疑いを持たれることはまずない。

 すべての講義が終わった後、御堂璃央が少しぼーっとしていると、箕山晶子が、


「や、どーも。ちょっといい?」


 と声を掛けてきた。


「なにか用?」

「いや、用ってほどでもないけどさ……少し話をしてもいいかな」

「別にいいけど」

「ありがと。でさあ……正直なトコ、どう思った?」

「あなたたちのデミタクティクスのこと?」

「うん。優秀なあなたからしたら、とんだマヌケに見えたかな」

「いや、私はそーゆーんじゃないから。具体的な戦いにはむしろ、全然ついていけない方だから」

「でも観察眼はあるでしょ。私さあ、本気で勝ったと思ったのよ。でも駄目だった。その原因ってなんだか、あなたにならわかるんじゃないかしら」

「まあ、ひとつ言えることは、日高くんはあんまり勝つ気がなかったわね。能力があのルールに向いていなかったから、積極的に手を出すぞ、という前向きアピールが目的で、勝敗は二の次だったでしょうね──それって、あなたも半分はそうだったでしょ」

「あは、見抜かれちゃってた? だってねえ。あんなに狭い範囲のことだから、私の〈クエーサースフィア〉のいいところが全然使えないんだもん」

「だから状況を支配しましたよ、って印象を与えることに徹したんでしょ」

「でも、最後は取れると思ったんだけどなー……じゃあ梢は、ずっと本気だったの?」

「勝つことしか考えていなかったわ。彼女の能力は、ああいう範囲の狭い争いに向いているんでしょうね」

「照準設定があんなにうまいと思わなかったわ。私の腕が動いているのに、その服の内側って──やられたなあ。でも、結局は負けたけど」


 ふう、と吐息をついて、


「ねえ、才牙くんってなんなのかな。彼は本気だったの? だってあれって、もし梢がもうちょっと長く消しゴムを持ったままだったら、それで終わりでしょ。彼はラッキーで勝ちを拾ったのか、それともすべて計算だったのかな?」

「────」


 璃央は少しだけ沈黙した。晶子に見つめられて、彼女は仕方なく、


「才牙くんって、どんな顔してたっけ」


 と投げやりに言うと、晶子は大笑いした。


「あはは、ひっどーい! 確かに印象うっすいけどさあ。メガネくんとしか言いようがないけどさあ──」

「ああ、眼鏡掛けてるんだ」

「ひゃはははは、そりゃいくらなんでも言い過ぎでしょお──」


 晶子は笑い転げているが、璃央の方は無表情である。


(別に、冗談言ってるわけじゃないからね、私にとっては──)


 御堂璃央の能力〈ホワイター・シェイド〉は人間の真剣さがツノのような幻像ヴイジヨンとして視える。当然、才牙虚宇介のものも視える。だが──それは他の人とはまったく異なっている。

 彼のツノは、彼の両眼の部分を黒線でがりがりと乱暴に塗りつぶしたように視えるのだ。それはまるで事件写真で無関係の人物を正体不明にするときのようだった。だから璃央には、彼がどんな顔をしているのかわからないのである。

 目隠し──それがどういう意味なのか、璃央にはわからない。彼女の能力についてある人は〝その人が世界とどのように関わろうとしているのかをあらわしているのでは〟と教えてもらったが、それで言うと、才牙虚宇介は──


(彼が周囲から眼を背けているのか、それとも──世界は、彼の意図をどうやっても見抜けない、ということなのか……?)



    *


 ……NPスクールからの帰り道、才牙虚宇介が歩道をとぼとぼと歩いていると、どこからか子供の泣き声が聞こえてきた。それに母親らしき女性の、いいかげんにしなさい、という声が重なる。


「…………」


 虚宇介はちら、とそっちに眼を向けたが、すぐに背を向けて、近くのコンビニエンス・ストアに入った。迷うことなく冷凍コーナーに行って、一本のアイスを手にした。

 するとそこで、横から声が掛けられる。


「なあに『ゴリゴリさん』? この寒いのにそんなの食べるの?」


 振り向くと、そこには志邑咲桜がいた。


「え、あー……いや」


 もごもご言っていると、咲桜が側に寄ってきて、


「おいしいの? そう言えば、私それ食べたことないわ」

「えーと……うん、おいしい……よ」

「ふーん。でも私はやっぱりチョコとかの方がいいかな」


 また離れていき、菓子コーナーの方に行ってしまう。虚宇介はアイスをレジに持っていって、精算をすまして外に出る。

 するとまた背後から、


「すぐに食べるわけじゃないのね。それともおみやげなのかな?」


 と咲桜がついてきた。


「あ、うーんと……」


 彼が返事に迷っていると、また通りの向こうから子供の泣き声と母親の金切り声が聞こえてきた。


「うぎゃーっ、びゃびゃおーっ」

「ああもーうるさいっ、捨ててくわよっ」

「びゃーん、びゃびゃーん、おおうっ」


 その声をぼんやり聞いていた虚宇介の耳元に咲桜が耳を寄せてきて、


「ああいうのってなんか、しんどいよね」


 と言ってきた。


「う、うん……そうだね」

「でもあの母親ってさ、実際のところ叱ってる子供と大してレベルが違わないのよね」

「え?」

「そうでしょ──この世のほんとうの現実を知らないで、自分の身近なことだけで世界をわかってる気でいる、ってところは、まるっきり子供と一緒でしょう?」


 咲桜は、虚宇介の眼をじっと見つめてくる。


    5.


「ねえ才牙くん。あなたは自分が何もかもわかっている、と思ってる?」

「いや、もちろん……そんなことはないけど」

「でもさ、私たちって、少なくとも他のふつうの人間たちよりは色々と知っているわよね。統和機構のこととか」

「うーん……どうなんだろう」

「わかっているから、楽しい?」

「えーと」

「私は正直、あんまり楽しくないなあ」


 咲桜は、ううーん、と背筋を伸ばして、それから虚宇介の顔を覗き込んできて、


「ねえ、少し歩かない?」


 と誘ってきた。虚宇介は煮え切らない感じで、


「うん……」


 とうなずいた。二人は並んで、夜の通りを歩き始める。

 少年が肩から下げているバッグからは折り畳み式の傘のがはみ出している。少女はそれを見て、


「今日は天気がいいから。傘は要らなかったんじゃないの?」

「いや、あると色々と、その、困らないし」

「用心深いんだ。慎重に考えてて」

「そういうことでも、ないんだけど……」

「才牙くんは、将来何になりたいとか、決めてるの?」

「うーん、どうなんだろう……」

「私は決まっていないわ。どうしたらいいんだろう、って考えてる」

「なるようにしか、ならない……かな」

「統和機構が用意してくれる未来に従う、って?」

「用意、っていうほど親切なら、いいけどね」

「ああ、才牙くんもそう思ってた? そうなのよね。統和機構って今、私たちに言っているほど親切じゃないよね、絶対。子供の能力者を育成して戦力にする、って──どこまで本気かわからないわよね。それなのにデミタクテイクスとか真面目にやってる日高くんたちとか、少し間が抜けてるわ。才牙くんの相手にもならなかったし」

「あれは──」

「実際のとこ、あいつらが馬鹿に見えていたんじゃないの? 才牙くんとはレベルが違いすぎて」

「彼らの方が上すぎて、僕はぼうかんしてただけだよ」

「ほんとに?」

「上の方で競い合ってるなあ、って思ってたよ。それを下から見ていたんだ」