ビートのディシプリン SIDE1

第一話「拝命と復讐」 ⑤

「もともとそんなに深刻な症状でもなかったんですよ。学習入院と言いまして、糖尿病患者は治療のために生活習慣から変えなきゃなりませんから、それを教えるためのものなんです。いわば合宿みたいなもので」

「しかし、向こうの病院でも入院していたんだろう? 学習のためだけに、他の病院にまで移ってくるか?」

「学習と言っても検査もありますから……そういうものが残っていたんでしょう、おそらく」

「ふむ……」


 ビートは少し考えた。おそらくこの医者の言うことには噓も無理もないのだろう。だが何かが引っかかる。死んでいたはずなのに、死んでいないというところが──。


「その患者はどんなヤツだ。今どうしている?」

「どこかの企業の、たしか中間管理職だったようですが。資料が残っていますから、当たればすぐにわかります」

「頼む」


 言って、それからふいに思いついて、


「……その患者は、向こうの病院で精神科の診察を受けていたか?」


 と訊いてみた。


「は? どういうことです?」

「そういうことはあったのか?」

「え、えーと……そういえば確か〝要カウンセリング〟とカルテには書かれてあったような気がします。大した症状でもないのに変だな、と思いましたが、まあ患者がくよくよするのはいつものことなので──それがどうかしたんですか?」

「いや……」


 ビートはかすかに首を振って答えない。しかしなんとなく感触を摑んだ気がした。

 変死体で発見された女医というのは、精神科の医師だったのだ。


(……とはいえ)


 果たしてこういうことが、本来の任務にどう関わってくるのかはまだ見当もつかないが。


「なあ、あんたは〝カーメン〟という言葉のことを知っているか? 聞いたことがないか」

「……なんですか、それ?」

「知らなきゃいい」


    3.


 篠北というのが、その問題の患者の名前だった。

 篠北周夫。年齢は四十二歳。結婚はしていたが離婚。子供は妻の方が引き取ったので入院当時から既に一人暮らしだった。

 企業というのはもしかすると、一時期に統和機構が主としてカモフラージュ用に使っていた企業MCEのことかとも思ったがそんなことはなく、いわゆる一般的な総合商社だった。

 手掛かりのなさにややれていたビートは、ここは思い切って行くことにした。

 直接、篠北本人に電話を入れたのである。


『私だ』


 電話にはすぐに、本人が出た。そうに決まっている。それは専用の携帯電話への回線だからだ。関連取引先の会社を探ってナンバーを調べるのは造作もなかった。


「あ、どーも。篠北周夫さんですね?」

『そうだ。そちらは?』

「一時期、県立総合病院に入院されていた篠北さんに間違いありませんよね?」

『君は誰だ。声に聞き覚えがないが』

「いや、あなたは俺のことは知りません。名前は世良って言います」

『何の用だね。どうしてこの番号を知っている?』


 ビートはこの問いに答えずに、逆に訊いた。


「あなた、なんで生きているんですか?」

『……どういう意味かね』

「だってあなた、本来なら死んでいるはずじゃないですか。それだけの病気にかかっていたはずです。カルテの記載ミスなんてのは噓でしょう?」


 ずばりと核心を突いてみた。

 篠北周夫は入院時、それが原因かどうかわからないが一時期降格処分にあっている。だが復帰後にまた成績を伸ばして、さらに出世を遂げている。

 そして、調べてわかったのだが入院は決して学習入院ではないようだった。詳しい資料がもはや存在しないのでなんとも言えないが、少なくとも半年以上もつぶされた病院に入っていたらしいことがわかった。重度の症状でもない限り、そんなに入ってはいない。

 なにかがあったのだ。その入院しているときに〝なにか〟が。


『…………』


 しばらく、返答が戻ってこなかった。しかしその間にビートは、自分の疑念は正しいことを確認した。言葉は返ってこないが、かすかに聞こえる息遣いの鼓動から、相手が痛いところを突かれた状態になっていることがわかったのである。

 やがて声が聞こえてきた。


『……君は何だね。何が目的だ?』

「ちと調べものをしているんですよ。あなたなら〝カーメン〟のことを知っているんじゃありませんか?」


 単刀直入に訊いてみると、今度は予想外の反応が返ってきた。


『……ふふふ』


 笑い声がした。それは、本気で相手を馬鹿にしている、そういう笑いだった。


「何がおかしい?」

『はっきりしていることがひとつある。君はどうやら〝カーメン〟のことを根本から誤解しているらしい。忠告する。そのことについて考えるのをやめたまえ。君には過ぎたことだ』


 ハッタリではない気配しか、その声には感じられない。


「そうも言ってられないんだよ。こちとら生命がかかっているんでね」

『死ぬことよりも恐ろしいことも、この世には存在するんだよ、世良君』

「あんたはそいつをくぐり抜けた、ということか? だったら是非とも、そのことをご教示願いたいもんだ」

『……それほど言うのならば、君に〝カーメン〟の何たるかを教えてやろう。明日、午後三時に私の会社を訪ねてくるといい──多忙な身だが、特別に時間をいてあげよう』

「それはどうも、ありがとさん」


 電話は向こうから一方的に切られた。


「──ちっ」


 ビートは舌打ちした。どうもこうから行きすぎたらしい。まさかこうも大当たりだとは思っていなかった。しかし──


(毒を喰らわば皿まで、だ──)


 誘いとしか思えないが、向こうはこの任務の目的そのものを知っているらしいのだ。行かないわけにはゆかなかった。


    *


 会社に出向いたビートは、〝能力〟で罪のない受付嬢たちをからかって遊んだ後で、いよいよ問題の、指示された本社ビル七階のロビーに向かった。


(──よし)


 上昇していくエレベーターの中で気合いを入れ直す。今使ってみたが、能力の方も絶好調だ。どんなかすかな鼓動も見逃さない自信がある。来るなら来い、という感じだった。

 七階というのは、なんだか他の階に比べて妙にがらんとした所だった。広いロビーの間に柱が立っているだけで、他のものがほとんどない。待ち合わせや会合に使うにはあまりにも閑散としすぎるイメージの場所だ。


(全社集会かなにかにしか使い道がないんじゃないのか……?)


 学校の講堂を連想したので、そんなことを考えた。

 そのとき、新たなエレベーターがこの七階に停止して、ちん、と音を立てた。篠北周夫の到着だ。

 ビートは振り向いた。


「よお、篠北さん──」


 言いかけた、その顔が強張こわばる。


「やあ、世良稔君──」


 篠北は穏やかな声で言った。

 だがその手に握られているのは、大口径の拳銃だった。


 銃口はぴたりと、ビートの方を向いていた。


「…………」


 ビートは動かない。相手の狙いは正確で、そして殺気にためらいはない。動けば撃たれる。それは確実だった。

 ゆっくりと両手を上げた。


「世良君、いけないね君は──ぼう私立高校に在籍していながら、君は一度も学校に行ったことがないじゃないか。なぜか名簿に名前は載っているが、教師は出席を取らず、まったく授業も試験も受けないのに除籍にもならない──実にけしからん話ではないかね?」


 篠北はエレベーターから出てきて、こっちの方に歩きながら薄い笑いを浮かべて言った。どうやら向こうもこっちのことを、わずかに名乗っただけなのに調べ上げてしまったようだ。


「──その銃。反動がデカいんじゃないですか。片手で持ってて、撃てますかね? だつきゆうしても知りませんよ。不法所持だし、もしかして粗悪品だったりして。試し撃ちしましたか?」


 時間を稼ぐために、余計なことを言ってみる。


「じゃあ、今ここで試してみるかな?」


 篠北はせせら笑っている。得意満面、そんな感じだ。

 普通の街の、普通のビルの、そのど真ん中なのに──銃を突きつける奴がいて、目の届く範囲には誰もいない。がらん、とした空間は、周辺から隔絶していた。


「〝カーメン〟に近づくものには〝死〟あるのみだ。世良君」


 ビートは、ふう、とため息をひとつ付いた。