天井のまだらな雨漏り染み、朝日眩しい東向きの間取り、壁一面に張り巡らされた名古屋各地区の地図群──特徴といえばそれぐらいの殺風景な自室だった。
「疲っっかれた……もう限界だ歩けねえ……」
三和土に靴を脱ぎ散らかしたまま部屋に入って、途端、バッテリーが切れたようにぱたりと倒れ込んでしまう。
「今日も全滅……〝あの子〟の有力情報は摑めなかったな……」
一応、「三つの特徴すべて一致してはいないがそれっぽい人物は見た」などの声は数件耳にした。だが詳細を聞けば確度が低く、アタリだと確信を持てるものではなかった。
ごろりと大の字に寝転がってため息を吐く。家の中ではもう他人の目を気にしなくていいと、首を締めつけていたネクタイを解いて放り投げた。
──人前では二〇代で通しているが、本当はまだ一八歳だ。調査員の仕事をしながら通信高校に通う高校三年生。それが俺の正体だ。
調査事務所のボスの命令だった。一〇代のガキだと舐められる、大人びたシャツにネクタイ締めて二〇代と見せかけろ、クソ暑い夏場でもだ、と。
さらに言えば年齢だけでなく、表情、態度、口調ですらも意図的に変えている。ハイスペックな「志道計助」を演出するために。
しかし実際は……。
「なにがダーツバーだ。なにが女関係に不自由してないだ。本当は酒も女遊びもろくに知らないくせに。調査事務所のホープ? まさか。事務所内じゃまだまだこき使われてる新米だ。てか高層マンション買ったってなんだよその噂。実際は風呂なしボロアパートだぞ。はぁ、どこがハイスペック男子だよ。けどいまさら素の自分を他人に晒して幻滅させるわけにもいかないしな……」
爽やかな微笑みで相手が親しみやすさを感じて関係を結んでくれるなら仮面を被り続ける。
こいつは役立つ人間だと興味を持ってくれるなら過剰な評判でもむしろ訂正せず利用する。
その結果として多くの人と繫がり、〝あの子〟捜しに力を貸してもらえるなら、「志道計助」を演り続ける。偽ることは得意だ。
人前で過度に演じている噓つき? 裏表あるろくでもない仮面男?
ああ自分でもわかっているさ、そんなこと。
でも、八年前に決めたんだ。〝あの子〟を見つけるためにどんな手も使おうと。
「八年……あれからもう八年か……」
まぶたを閉じればいまでも思い出せる。八年前の雨の日の記憶を。
当時小学生だった俺は母さんの葬儀から飛び出して、土砂降りにもかかわらず傘も差さずに借家の前で立ち尽くしていた。
その借家は自分の家だった。いや、正確にはこないだまで住んでいた自分の家だった。
すでに志道という姓が入った表札は抜き取られていた。『入居者募集』の広告が差し込まれた玄関扉は鍵がかけられ、室内で雨宿りすることすら許されなかった。
空き家となったかつての俺の家は、あの悪夢が現実だったことを象徴していた。
『六・一三の悪夢』──後に日付から取ってそう呼ばれるようになったそれは、名古屋で発生した最悪の事件。母さんを失うこととなった悲劇の元凶。
あまりの喪失感に俺の心は鈍麻して涙すら流れず、ただ棒立ちとなってざあああああっと圧し潰すような雨に打たれていた。
そのときだった。
「──君、どうしたの?」
雨が、急にやんだ。
いや、雨がやんだわけではなかった。
見上げれば、俺の頭上に傘が差してあった。
「傘、半分コしよ。雨、冷たいでしょ」
一本の傘を二人で分け合う形で、雨に濡れないように俺を入れてくれた。
──それが〝あの子〟との出会いだった。
〝あの子〟は優しかった。「わっ、たいへん! 服びしょびしょ! このままだと風邪引いちゃう。わたしの秘密基地に体拭くタオルあるからついてきてっ」と手を繫いでくれた。
無気力な俺は流されるままだったが、そこで一度、顔を上げて〝あの子〟を見た。
雨に煙る景色の中で栗色の髪が鮮やかに靡き、しゃらん、と琴を鳴らしたような鈴音のかんざしを挿していて、顔つきは同い年ぐらいで笑顔が眩しく、でもあまりの眩しさにぐじぐじした自分の心が焼かれそうになってすぐうつむき、結局それから先は目も合わせられなかった。
秘密基地は、裏山の森にあった。
木々や下草が鬱蒼と生い茂る緑の中に不法投棄された軽自動車がそれだった。ヘッドライトはひび割れ、車体は赤茶けた錆が浮かび外観はボロボロだったが、車内はピカピカに清掃が行き届いており、後部座席には人気漫画やタブレット端末などの娯楽、ほかにも水、お菓子、タオル、衣類、LEDランタンなどちょっとした生活ができるアイテムまで揃っていた。
すげえ、って思った。まるで子どものための小さな隠れ家みたいだった。
車内で〝あの子〟は俺を元気付けようとしてくれた。ランタンの温かな光を灯し、コンソメパンチをパーティー開けして、そしてタブレット端末をタップした。
「これ、わたしのお気に入り動画なんだ。一緒に観よっ。とっても笑えるんだよ!」
〝あの子〟が再生したのは『ペンぷー』の動画だった。ペンギンをモデルにした地元マスコットキャラ。ペンギンマーチという歌に合わせて踊る動画が子ども心を摑んで話題となり、ゆるキャラブームの波にも乗って名古屋で人気を誇っていた。
俺も好きだった。ペンぷーの動画は更新日に何度もリピート再生するほどハマっていた。動画を観ている間はキラキラしたファンタジー世界に連れていってもらえる心地がした。夢中で目を輝かせ、画面にのめり込み、そのうち画面で観ているだけじゃ物足りなくて、そうだ、だから実物のペンぷーに会いに行こうとして、あの日、六月一三日、母さんと一緒にイベントに出かけて、そこで、そこで……。
ぽろっ、と頰を一滴の涙が伝った。
あれ、と自分でも驚いた。
顔を手で覆った。でも指の隙間から涙がこぼれて止まらなかった。気づけば心情までも口から漏れていた。
六・一三の悪夢で優しかった母さんが死んだんだ。
母さんが死んだ事実を受け入れたくなくて葬儀の途中で逃げ出したんだ。
引き取ってもらうことになった親戚に俺は疎まれてて、そんな親戚の家でこれから迷惑をかけて生きていかなくちゃいけないんだ。
なんで画面の向こうはキラキラしてて楽しそうなのに、こっちは悲しいことばかりなの。ねえなんで。だれだって悲しいことは嫌で生きているんじゃないの。くそ、くそぉ、なんでこんなに……。
すると突然、春に抱かれたような暖かさを感じた。
「望んでるんだね、悲しみのない世界を」
春ではなく、〝あの子〟に抱き寄せられていた。
「わかった──救うから。ここからは全部懸けて救うから」
彼女にぎゅっと一段と強く頭を抱かれた。だから彼女がその台詞をどんな表情で言ったのかは見えなかったが、その言葉の端々に宿る感情は優しく、献身的で、正義感に満ちて……。
ゆりかごに包まれるようなその腕の中。もうこの世界で得られないはずの優しさが全部そこにあったような気がした。