30ページでループする。そして君を死の運命から救う。

序章 ⑤

 気づけば声を上げて涙を流した。失った感情を取り戻したようにぼろぼろと涙を流すことができた。そしてそのまま泣き疲れて眠ってしまった。

 ──ああ。春がきたみたいだ……。この暖かな優しさにずっと包まれていたいような……。

 どれくらい眠ったか。目覚めたときにはすでに雨がやみ、そして──

〝あの子〟はこつぜんと姿を消していた。

 空席となった運転席には書き置きだけが残されていた。


『さようなら。ごめんなさい』


 ──え? さようなら?

 その文字は震えた手で書いたように揺らぎ、その揺らぎを抑えようと筆圧は強く、一部の文字はすいてきが落ちたみたいにぼやけ、ざんのような後悔が文字と文字の間からにじんでいた。

 ──さようならってどういうことだ? もう会えない? というかごめんなさいって、なんで謝るんだ? 俺が眠っている間になにがあった? 彼女はどこに行った? 救うからなんて言ってたけど、じゃあ救いに行ったのか? でもだれを? なにを?

 驚き、戸惑い、混乱し、あらゆる感情が胸の中でぶつかっては散らばって、けれどやがてそれらは溶けて混ざり合い、最終的にひとつのシンプルなおもいへと形を成していった。


 ──会いたい。もう一度会いたい。〝あの子〟に。


 その日、俺は優しさをくれた〝あの子〟を捜すことを決めた。

 最初はすぐに見つかるだろうと考えていた。〝あの子〟が秘密基地に通える距離に住居があると考えて、秘密基地を中心に近場の学校から順に調査していった。

 だが、これが見つからない。一ヶ月経っても、半年経っても、一年経っても──

 こうなると大勢の力を借りる必要があった。学校の友人たちに捜索の手伝いや情報提供を頼み、ほかにもSNSなどネットの活用はもちろん駅前でビラ配りも試みた。

 けれど、ろくな情報は手に入らない。中学に進学しても、高校に進学しても──

 このままではダメだと捜索範囲を広げた。ちょうどそのとき、あるきっかけで調査事務所に入ったこともあり、仕事をねて名古屋の人々とつながり定期的に聞き込みする調査方法、つまりいまメインのさがし方をはじめた。

 相手とつながるためにさわやかな笑顔やノリのいい語り口などの工夫はもちろん、親交を深めるためその人の人物情報だってこまめに記録した。

 ──商店街連盟会長、なかがわうめ。五二歳。悩みは町内掃除のボランティア不足。手伝って役立つことをアピールすればつながれそうだな。

 ──路上生活者のトシさん。年齢不詳。一帯の路上生活者を仕切るじゆうちん。気難しい人みたいだが、好みの酒を持っていけば俺みたいな若造でも相談に乗ってくれるそうだ。

 名前。性格。所属。年齢。誕生日。悩み。願望。しゆこう。家族構成。恋愛事情。出没場所。宗教──そういった人物情報を対象の活動拠点となる名古屋の地図上に書き込んだ。〝あの子〟を見つけるためなら労は惜しまず、書いて、書いて、ひたすら書いた。

 気づけば壁一面がメモの地図で埋め尽くされた。

 梅子さんやトシさん、ほかにも幅広いネットワークを持つ人なら、立場、経歴、たとえ裏社会にいようが関係なく接触した。大事なのは〝あの子〟につながる情報、そして見つけたという結果。白い猫でも黒い猫でもねずみを捕れればそれでいい。

 実際、有力情報はあった。

 街の人に紹介してもらったおおのかんざし屋。おくまった立地で目立たず、またホームページすら存在しない、いわゆる知る人ぞ知る店だ。職人兼店主が製作した鈴のかんざしが売り棚の一角にずらりと並び、風が吹くとすいきんすずが一斉に鳴り響く。りん、と一般的な鈴音ではなく、しゃらん、とことくような独特の鈴音。

 店を訪れた俺はその鈴音を聞いて鳥肌が立った。

 ──同じだ。〝あの子〟に出会ったときに聞こえた鈴音と。ああ間違いない、この美しい鈴音だ! 〝あの子〟はきっとここでかんざしを買ったんだ!

〝あの子〟とおおの接点をかいた俺は、〝あの子〟が再びかんざしを買いにおおに現れるかもしれないと期待し、各地区を捜しつつおおとその周辺エリアに重点を置いた。

 しかしそれ以降、有力情報は一切入ってこなかった。


「はぁー、八年も捜してんのに見つかんねえな……。調査方法を根本から見直すべきか? でも大掛かりな手を打つには金が必要だし、俺みたいな貧乏学生に金なんて……あ」


 がばっと上体が跳ね起きた。大事なことを思い出して。


「金! そうだ家賃の支払い! やべ、大家さんに給料日まで待ってもらうの忘れてた。馬鹿馬鹿、アパート追い出されちまうぞ。急いで頭下げに行って……げ、せんたくものまってんじゃん。ついでにコインランドリーに寄って……と、そういや模試の申し込み締切もうすぐじゃね? うわ、ド忘れしてた。仕事と人捜しでつい後回しに……ああもう貧乏暇なしってか!」


〝あの子〟が見つからなくても生活は続く。生きる罰金みたいな毎月の支払いと、かご一杯に溜まったせんたくものと、たんまり積み重なった受験用テキストと。

 俺は疲れた身体からだむちって後回しにしていた日常を消化しはじめた。

 同じアパートの一号室に住んでいる大家さんの部屋に出向き、小言を言われつつもあと少ししたら払いますんでとひらあやまりして。

 洗濯かごを抱えてとぼとぼと夜道を歩き、だれもいないコインランドリーでひとり洗濯機のごぅんごぅんと回る音を聞いて。

 自宅に戻ってすぐに受験勉強に取り掛かるが、仕事のメールが次々と舞い込んで目が回る忙しさで。

 今日もいつものように徹夜で、眠気と疲労でずぶずぶと沼に沈むように思考がにぶくなってきて、段々とまぶたが重く……うつら、うつらと……。

 俺、俺は…………。


 ──不可能だろ、とぼしい手がかりで人口二〇〇万の中からたったひとりを見つけ出すなんて。


 ああ、知ってるよ。

 俺だってわかってんだよ。そんなことずっと前から。

 ろうこんぱいで夜を過ごす度に惑う。八年必死になっても〝あの子〟に会える気配が一向になくて、どれほど汗を流したところでもう再会は無理なんじゃないかって。

 近々諦めなきゃいけない瞬間が訪れるのではないかと怯えてる。成果が得られないまま一年また一年と年だけ取って、仕事や勉強などわずらわしいことばかりが増えて、〝あの子〟を見つけるという本来大事にしたいものが指の隙間からぽろぽろとこぼれ落ちそうで。

 ──なんでそこまでがんばって捜す? むかし一度会っただけの相手だろ?

 名簿屋の疑問はもっともだ。むかし俺も俺自身に同じように問うたことがある。

 それは惑う以上に気がかりだからだ。なぜ〝あの子〟がこつぜんと姿を消したのか。

 それは諦めに怯える以上に恩を返したいからだ。彼女は優しさをくれた。だからもし彼女がなにか困り事やトラブルに悩んでいたら、今度は俺が助けになると言ってあげたい。

 そして、そんなれいな思いだけではない。

 最初は自分でも気づかなかった。でも、足が棒になるまで捜して、暑い日も寒い日もめげずに捜して、季節が何度巡っても心折れずに捜して、そうまでして自分を突き動かす感情の正体はなんなのか捜しながら徐々に気づいていった。ああそうか。そうなんだって。

 好きなんだ、彼女が。

 初恋だった。そしてそのおもいは八年経ったいまだって変わらず……。

 いや、恋をじようじゆさせたいから彼女に執着しているわけじゃないんだ。本当に。