最悪、一瞬でもいい。再会して、彼女が健康で、悲しい目に遭ってないことさえ確認できたら、胸の想いを秘めたまま身を引く。
だから頼むよ、神様。
どうか、どうか〝あの子〟に会わせてくれ……。
携帯に電話がかかってきたのは、そんなときだった。
気づけば窓から夏の朝日が射し込んでいた。俺は何度か寝落ちしながらも勉強と仕事を夜通し続け、「……朝っぱらから仕事しろってかクソ上司め」と愚痴りながらボスから朝一で届いたメールを読んでいた。『おいガキ。市議会議員の浮気調査報告書をさっさと提出しろ──』なんて高圧的な文面にうんざりしていた、まさにそのとき携帯が鳴った。
煩わしくて一度無視した。
けれど着信はしつこく鳴り続けた。ボスはすぐ返信しないと機嫌が悪くなるのにと舌打ちしながら結局携帯を手にした。
着信相手は大須商店街で古着屋『スカイドラゴン』を営んでいる店主、神崎だ。
俺は癖で壁の地図群に目を向け、そのうちの一枚、大須の拡大地図に書き込まれたメモに着目する──神崎隆文。二八歳。未婚。楽観的性格。趣味はスカジャン蒐集。店が終わると栄・名駅周辺の飲み屋に出没。
以前、ヴィンテージのスカジャン調査を引き受けたことがある情報提供者のひとりだ。
また調査依頼だろうかと、特に気構えもなく電話に出た。
「よお、計助! この前は探していたスカジャン見つけてくれて助かったよ! 職人技が光るド派手な龍の刺繡は最高だ! で、その礼ってわけじゃないが、いいこと教えてやるよ。いいかよく聞け。なんと見かけたんだ! お前が捜している人物! 栗色の髪、鈴のかんざし、一〇代後半の少女だろ。しっかり見たぜ! そいつは──っと、わりぃ、客に呼ばれちまった。今日は大須夏祭りで朝から晩まで店は大忙しなんだ。一二時頃に昼休憩取るからそんとき店に来いよ。詳しく話してやる。また後で! あ、そうそう。見かけたその女だけどよ……胸、かなりデカかったぜ。ありゃFカップとみた。隅に置けないなこの巨乳好きっ、フッフー!」
ブツリ、とそこで古着屋は電話を切った。一方的に早口で喋り立て、こちらの反応をうかがう間もなく。
「…………え」
電話の内容があまりに唐突で、衝撃的で、俺は通話が終了した後も携帯を片耳にくっつけたままぽかんと口を開けていた。
「……栗色の髪……鈴のかんざし……一〇代後半の少女だろ……しっかり見たぜ……」
にわかに信じられなくて古着屋の言葉を復唱してしまう。
「……見た? え、見たって言った? 間違いなくそう言ってたよな? マジか。おいマジか。じゃあそれってつまり──」
〝あの子〟の目撃情報。
瞬間、眠気と疲労がぶっ飛んだ。
「きた……きたきたきたきたきたきた〝あの子〟の目撃情報!!」
うおおおおおおッとガッツポーズで歓喜を爆発させて、だがすぐに脳の冷静な部分が一度待ったをかけた。これまでも目撃情報があったが結局すべてガセだっただろう、と。
しかし、しかしだ。三つの特徴が完全に一致している人物を見たという連絡は今回がはじめて。しかも〝あの子〟が水琴鈴のかんざしを購入した大須から入った情報。信憑性はかなり高い……!
期待が膨らむ。心臓がはち切れそうになる。昼まで待てと言われたが生殺しの時間が耐えられなくて古着屋に電話をかけ直す。だがやはり忙しいのか繫がらず待ち遠しくなる。
ああっ、知りたい、早く知りたい!
目撃情報次第だが上手くいけば今日中に〝あの子〟に会える可能性だって……!
「落ち着け落ち着けっ。とにかくいまやるべきことは出かける準備。まずメール返して、その後に着替え……そうだ、好きな人に会えるかもしれないんだからビシッと服装決めていかないと……って、好きな人って! いや、なに浮ついてんだ俺。大切な人、そうだ、好き云々よりも前に優しさをくれた恩人だろ。とにかく、先に風呂で身体を洗って……って、うちのボロアパート風呂なしじゃねえか! やばっ、汗臭い? 愛した人に会うのにこのままじゃ……いや愛!? 愛した人って! さっきよりこじらせた浮つき方してないか俺! ああもうちゃんとしろちゃんと! 本人の前でぽろっと好きだの愛してるだの口にしちまったら一体どうすんイッテえええぇぇぇッッ!」
ドタバタと慌ただしく室内を往復していると、ガンッ、と足の小指をミニテーブルの角にぶつけてしまう。
「くぅぅぅ……っ! 痛ってて……」
しばらくその場でうずくまって悶絶して、だが我ながら間抜けに思えて笑いが込み上げてきた。
「……ぷっ、ぷはは! なにやってんだよ俺。はしゃいで小指ぶつけるなんて馬鹿丸出しだろ。どこがハイスペック男子だよ。素の俺はマジでダッセェわ。あはは、はははは!」
笑った。
口を開けながら大笑いして、なぜか涙も流れた。
あれ、と戸惑った。不意に胸の奥底から熱い感情がせり上がって涙が溢れ出した。目尻を拭っても抑えられず、ああそうか、と涙の理由に気づいた。
──ちゃんと報われるんだ。汗搔いてがんばった分は。
諦めず名古屋を捜し回ったからこそ得られた有力情報。無意味じゃなかった。無駄でもなかった。靴を何足も履き潰した汗塗れの八年間は決して……。
「いや、まだだ。まだ浮かれるのは早いよな。〝あの子〟に会うまでは」
俺はごしごしと目元を拭って、今度こそ出かける準備を進めた。
服装は考えた結果いつもの仕事着にした。黒系統で合わせたスラックスとシャツにネクタイをきっちり締める。そして髪も整え、メールも返し、最後に遺影の中で微笑む母さんに手を合わせた。
そして時刻は一二時前。待ちに待ったとばかりに自宅を飛び出して大須に向かった。
いま住んでいるアパートは安普請だが、立地という観点でみれば、名古屋駅、錦、そして大須と名古屋主要スポットの中間点ほどに位置していて、各所へのアクセスは徒歩圏内で利便性は抜群だった。
ギラギラ燃える太陽の下を歩くこと十数分、日本に三本しかない一〇〇メートル道路を越えて、いよいよここから先が「大須商店街」と呼ばれるエリアになる。
名古屋の大商店街、大須。赤門通や万松寺通など様々な数百メートルストリートが縦横に走り格子状の街を形成していて、各通りに軒を連ねる商店は千軒以上で多種多様。スカジャンがメインの古着屋やオタクが集うコスプレカフェ、大正時代創業の老舗鰻屋から本場の包子まで、統一感なく、国際色豊かで、それ故に猥雑な魅力がぎゅっと詰まった街。だから人によって大須の捉え方も様々だ。古着の街、オタクの街、食べ歩きの街……大須を端的に説明するのは難しいが、俺が一言で表現するならこうだ。ずっと学園祭をやっているような街。
そして今日、八月七日は一年でもっとも盛り上がる夏祭り初日。