さっきまでの傍若無人っぷりがウソのように、鳩羽は緊張していた。彼女にとって運命の相手である幸太郎をまえにして。
「…………ったく」
オレはいつまでも羽化できないセミの真似をしている鳩羽を連れて「幸太郎の輪」の中に押し入っていく。
「おい、幸太郎」
日焼けした褐色の肌と赤いソフトモヒカン。輪郭のハッキリとした顔立ちも相まって輪の中でもとりわけ目立つ彼は、オレに気づくと、つぶらな目をパチクリさせる。
「ん? キミは、えっと……」
「鷲谷相馬だ」
取り巻きの連中がオレを見て、怯えた様子で後ずさりしていく。
そういう反応にはもう慣れていた。
けれど幸太郎はオレを見てもまるで動じることなくスクリと立ち上がると、オレの手をとって笑いかけてくる。
「やあ、相馬くん。アミーゴ」
相対してみると、幸太郎の体格のよさにおどろく。
向かい合って立つだけでオレの額に影がかかる。
ぎゅっと握られている手には、痛いくらいの力が込められていた。
「……ん? そこにいるのは彩音さんかな?」
「わ……!? わっ!?」
オレの背中にしがみついて顔を押しつぶしていた鳩羽が、おどろいたようにパッとオレの服から手を放してドシンと尻餅をつく。
オレをきらって離れていた「幸太郎の輪」は、彼女に気づくとさらに大きく距離をとった。
一様に浮かんでいる苦笑いは、隠しきれない恐怖と嫌悪を窺わせる。
やはり、というべきか。
どうやら鳩羽も周りとうまくはやれていないらしい。
まあ、フラれたショックで暴れ回るようなヤツなのだから当然かもしれないけど。
怖がられて、避けられて、背中を丸めて俯く鳩羽は、美術室で話していたときよりさらに小さく見えた。
「……こ、こうたろぉー!」
鳩羽は意を決したように顔を上げると、ラクガキみたいなクマのある目で思い人のことを見つめてその名を呼ぶ。
けれど、そのあとが続かない。
「…………あの……その……えっと……」
まごついてうまく言葉を紡げないでいる鳩羽に呆れて、オレが助け舟を出そうとしたとき。
オレのまえを横切るように伸びてきた褐色の腕が、彼女の手をひょいと摑んで立ち上がらせる。
そして幸太郎は、オレに向けたのと同じさわやかな笑みを浮かべて言うのだった。
「やあ、彩音さん。アミーゴ」
日差しを受けて覗いている白い歯がきらりと光り、生温い夏の風に赤いソフトモヒカンが揺れる。
「あ、あぁ……えっと……あみー、ごー」
つながれた手に視線を落とし、鳩羽は恐る恐るといった様子でその手を握り返す。
オレがやったらすぐに「キモい」とか言われて振り払われそうなものだけど、顔を赤くした鳩羽の顔に拒絶の意志はなかった。
とろんと口の端を垂らしていて、むしろうれしそうだった。
「……だれにでもやさしい、か」
「僕がかい?」
「そういう評判だぜ?」
「まあ、やさしくしない理由がないからね。きびしくするかやさしくするかの二択なら、やさしくしたほうがだれにとってもプラスだとは思わないかい?」
「なるほどな」
たしかに。嫌われ者のオレや鳩羽に対してもいやな顔ひとつせずあたりまえに接してくるあたり、やさしいのは本当らしい。
あとは『困っている人を見ると必ず助ける』と『どんな勝負にも負けない』だったか。
「…………幸太郎、ちょっと勝負しないか?」
「勝負?」
「種目は百メートル走。どうだ?」
「いいね、やろう!」
なにを疑うこともなく幸太郎はにゅっと親指を立てて頷くと、「幸太郎の輪」を引き連れてグラウンドへと走っていく。
「いきなり勝負だなんて、なに考えてるんだ? 鷲谷」
幸太郎に手を放されてがっかり顔の鳩羽が、オレにきいてくる。
「おまえの言ってたことが本当かたしかめるだけだよ。ここでオレが勝てたら、おまえの語ってたあいつの人物像はまちがいだったってことになる」
「陸上の経験でもあるのか?」
「いいや、まったく」
「なら勝てるわけない」
「まあ見てろって」
オレは幸太郎が待っているトラックに向かい、レーンの横に並び立つ。
「スタートのタイミングは相馬くんに任せるよ」
「それじゃあ、よーい」
ドン、と言わずにオレは走り出す。準備運動をしていた幸太郎を置き去りにして。
オレのやり方に「幸太郎の輪」がブーイングを飛ばしていたが、無視した。
そうしてコースの半分ほどを過ぎたとき。
ブン、と後ろから突風が吹いてきて、颯爽と幸太郎がオレを追い抜いていく。
まるで背中にジェットエンジンでもつけているみたいな加速力だった。
そのままグングンと幸太郎はゴールに向かって走っていく。
「ぎゃあああ!?」
オレの悲鳴に足を止めた幸太郎が振り返る。
オレは転んで擦り剝いた膝の傷を見せつける。
幸太郎は躊躇なくゴールを背にすると、心配そうな顔でこっちにもどってくる。
そしてオレに向かって手を差し伸べてきた。
「大丈夫かい? そうまく──」
「────おらよっ!」
その手をグイと摑んで、オレは幸太郎のことを引きたおそうとする。
ところが、動かない。
「…………あれ? あれ?」
何度力んでも同じだった。
圧倒的体幹によって支えられた幸太郎の身体は、前屈みになった姿勢のままびくともしない。
「────よっと」
「うわっ!?」
金魚でも掬うような手軽さで逆に引き上げられてしまったオレの身体は、幸太郎が広げた腕の中にすっぽりと納まる。
僕を抱えたままクルリと踵を返した幸太郎は、えっほえっほと走り出し、そのまま息ひとつ乱すことなくゴールラインを踏み越えた。
「アミーゴ!」
勝ち負けよりもオレの身を案じて引き返すことを選んだ幸太郎の善性に「幸太郎の輪」が惜しみない称賛の拍手を送る。
それに応えるように、幸太郎は青空に向かって拳を掲げた。
「ぐへえ……」
「おっと。すまない、相馬くん。大丈夫かい?」
支えを失って足下に転がり落ちたオレに、幸太郎は申し訳なさそうにもう一度手を差し伸べてくる。
その態度に、卑怯な勝ち方をしようとしたオレへの不満や憤りの念は感じない。
潑溂と笑いかけてくる幸太郎を見ていると、自分のふがいなさを思い知らされるようだった。
「…………オレの負けだ」
「いや。一緒にゴールしたんだから引き分けだよ」
「ちがう」
順位どうこうじゃない。