一切の迷いなく他人を助けに向かえる人間性。妨害にも動じない身体性。そして言葉の節々から感じ取れる、人生そのものにおける余裕。
そのどれもが、今のオレにはないもので。存在の格としてどちらが「上」でどちらが「下」かは、これ以上たしかめるまでもない。
オレは尻についた土を払って立ち上がると、校舎の中へと逃げ去っていく。
「相馬くん。せっかくこうして関わりを持てたんだ。もし走ることに興味があるんだったら、僕らと一緒に気持ちいい汗を流さないかい?」
「…………気持ちいい汗なんてこの世にあるかよ、ばーか」
そんな捨て台詞も、隣でおかしそうに笑っている鳩羽の声でかき消された。
†
圧倒的な敗北感だった。
けれど、これでわかった。
たしかに鳩羽の言うとおりだった。
幸太郎の言動からは、裏表を感じない。
幸太郎も由衣と同じく、仮面を被らず〝ありのまま〟で生きている人間だ。
そしてその〝ありのままの藤峰幸太郎〟が周囲に受け入れられている。
本来の性質──生まれもっての人格からして、オレとあいつはちがっている。
「これでわかっただろ、鷲谷。幸太郎はすごいやつなんだ」
「……ああ、そうだな」
「それに引き替え、おまえはダメダメだな。鷲谷」
愉快でがさつな笑い声をあげながら、鳩羽がバシンバシンとオレの背中を叩く。
「…………おまえ、幸太郎のまえだと、なんかキャラちがったよな」
「そうか?」
おそらく今のほうが素なのだとは思うけど。
幸太郎のまえだとこいつはなんというか、もうちょっと殊勝な感じになっていた。
「おまえも仮面を被るのか?」
「仮面?」
「本心を隠して振る舞えるのかってこと」
「そういうわけじゃないけど……ただ、幸太郎のまえだとすこし……緊張する」
そういって、鳩羽はまた両手の指をこねくり合わせてもじもじとし始めた。
意外にも健気というか……なるほど。ちょっとはかわいいところもあるらしい。
「幸太郎をやるのは大変そうだな」
「とってもいい男だっただろ?」
「まあ、な」
「だから幸太郎はあんな腹黒ピエロ女じゃなくて、わたしを選ぶべきなんだ」
「……あのな、いいか鳩羽。さっきも言ったけど、由衣はそんなふうにだれかを悪く言ったりしないからな」
「はん! どうだか!」
「わたしがどうかした?」
背後で鈴を鳴らしたような声がする。
おどろいて振り返ると、オレたちのすぐ後ろに由衣が立っていた。
「やっほ」
「でたな、腹黒女!」
「あ、えっと……たしか、彩音さんだ。やっほ」
汚いものでも見るような目つきで指を差す鳩羽にも、由衣は朗らかに微笑みかけていた。
「なーにが! なーにがッ!」
鳩羽がその場で地団太を踏む。
そして顔の前で手を広げて、歌舞伎役者よろしく宣言した。
「わたしはおまえがきらいだ! 百瀬由衣!」
「…………あー、うん。そっか。残念だな」
由衣が悲しそうに視線を落とす。
そのどこか儚げな表情に、オレの胸が人知れず高鳴る。
「だけどわたしは彩音さんのこと、好きだよ」
「うげぇー!」
首を絞められた鳥みたいな声をあげて鳩羽が後ずさりする。
気持ち悪そうに顔を青くして、今にも吐きそうな様子で口元を押さえている。
表情しかり。行動しかり。本当に、心と身体が直結しているやつだと思った。
「大丈夫? 彩音さん」
「おまえに心配されるほど、わたしは終わってない!」
自分と由衣の間にビッと手を突き出して鳩羽は言う。
「そうやっていきなり馴れ馴れしく下の名前で呼んでくるところがまずムリだ!」
「うーん……でも、そうしたほうがすぐに仲良くなれる気がするし」
「仲良くなることが正しいと思ってるその思想が次にムリだ!」
「ははっ……きらわれちゃってるなー。わたし、なにかしたかな?」
「幸太郎を籠絡した!」
「幸太郎?」
由衣が不思議そうに首を傾げて、それからオレのほうを見た。
数秒の沈黙を経て。由衣は「あー」と納得したように手を叩く。
「相馬くんと彩音さんって、仲良かったんだね」
「あ、いや、べつにそんなことは……」
「ねえ。二人は明日、なにか予定とかあるの?」
「明日……特にないけど?」
オレがそう答えると、鳩羽がむっとこっちをにらんでくる。
幸太郎と由衣に成り代わるため、オレたちはこれからいろいろと努力していかなくちゃいけない。
けれど、具体的にどこでなにをしようというプランがまだないのは本当だ。
べつに由衣に予定をきかれたから咄嗟にヒマを入れたわけじゃない。
「じゃあ、さ。一緒にプールいかない?」
「プール!?」
「プール!?」
オレと鳩羽の声が重なる。
プールなんて巨大な水槽の中で寿司詰めにされながら寿司のように流されておびただしい量の汗と塩が混ざった水に浸されながらたのしそうに笑っていることを強いられる、地獄みたいな場所だ。
あんなところに望んでいくやつの気が知れない。
「…………ダメ、かな?」
上目づかいになった由衣が小首を傾げる。
彼女の長い黒髪が首筋をなぞり、喉から胸の谷間に沿って流れていた。
夏の暑さが外させた制服のボタンの向こうにキレイな肌が透けている。
オレはごくりと唾を吞んだ。
「プールなんてだれが……!」
「ああ。いくよ」
由衣に嚙みつこうとする鳩羽の口を手で塞いでオレは頷いた。
そして回した腕の中で「信じられない」という顔を向けてくる鳩羽の耳元で囁く。
「…………オレだっていきたくない。あんなところにいくやつの気が知れないと思ってる。でも、だからこそ、いくべきなんじゃないのか? 自分を変えるために」
鳩羽は「ぐぬぬ……」と唸りながら頷いた。
顔には腹を切る武士のような覚悟が滲んでいた。
「よかった。幸太郎もくるから、四人で遊ぼうよ」
幸太郎の名前をきいて、岩みたいになっていた鳩羽の顔がとろんと緩む。
まったくこいつは、わかりやすい。
「……どうしたの、相馬くん? ずっと鼻の下が伸びてるよ?」
「はっ!」
どうやらオレも素直な気持ちが顔に出てしまっていたらしい。
「いや、べつにどうってことはない!」
「そっか。じゃあ、幸太郎の部活が終わってから。午後二時に、レオマのプールで」
そう言い残して由衣はグラウンドのほうに走っていく。
彼女の手にはずっとスポーツドリンクが抱えられていた。
「それは?」