雀桜OBの店長には俺が淡々としている理由が分からないらしい。カーテンの向こうから困惑したような声が聞こえてくる。
確かに例年なら同じバイト先の雀桜生など「カップル確率100%」だったんだろうが、今は違う。蒼鷹と雀桜は国交断絶、大きな隔たりが生じてしまっていた。
「昔はそうだったのかもしれないですけど、今の蒼鷹と雀桜の間には何もありませんよ。立華……なんとかっていう雀桜生が向こうで『王子様』って言われてて、女子人気は全部そっちにいっちゃってるんですよ」
言ってて少し情けなくなる。それはつまり、一人の女子生徒に全蒼鷹生男子が負けているということだからだ。
漫画のような俺の話を店長は茶化さなかった。
そしてその代わりに────変なことを訊いてきた。
「それって『立華一織』って名前だったりするか?」
「え、店長知ってるんですか?」
店長の口からまさかの名前が飛び出した。『雀桜の王子様』、立華一織の名はこんな所にまで轟いていたのか。
「ああ。だって────さっき面接した子、その『立華一織』だから」
「はっ!?」
衝撃的な言葉に、俺は半裸なのも忘れて更衣室のカーテンを弾き開ける。
「良かったな、夏樹?」
履歴書から顔を上げた店長が、俺を見てにやっと口の端を吊り上げた。
◆
それから数日が経ち、ついに立華一織の初出勤の日がやってきた。
「私はこれから他の店舗を回ってくるから、新人のことは夏樹、頼んだよ?」
「…………はい」
店長は明らかにこの状況を楽しんでいて、本来なら社員がやるべきオリエンテーションを俺に押し付ける始末。そんなわけで俺はさっきからバックヤード内をうろうろとしていた。流石に気持ちが落ち着かない。
「…………いやいや、仕事は仕事だろ」
ふわふわしている心を一喝する。
別に新人が男だろうが女だろうが、それが雀桜の王子様だろうが関係ない。確かに「実在したのか」という驚きはあるけど、噂だってどこまでが本当か分からない。案外、普通の女の子が来るかもしれないぞ。それなのに教育係の俺が浮足立っていたらきっと立華さんは困惑するだろう。それは店長からの信頼を裏切ることになってしまうんじゃないか。
「……そもそも、一人の生徒が雀桜生全員から惚れられているなんてあるわけがない。イケメンアイドルだったとしても信じられないのに、女の子だなんて」
いくらその辺りが多様になってきた時代とはいえ、流石にフィクションが過ぎる。今どき少女漫画ですらそんな設定ないんじゃないか。読んだことないから分からないけど。
時計の針が進むのがやけに遅く感じる。朝礼まではあと十五分。来るとしたら、多分そろそろだ。
もう一度姿見の前に立ち、コロコロで制服を綺麗にしていく。何度もやっているのでもうホコリ一つ付いていない。
「整理」「整頓」「清掃」「清潔」「しつけ」の5Sは飲食店で働く上では何よりも大切だ。俺がそこを欠かしていては、それを見た立華さんは「あ、こんなものでいいんだ」と思ってしまうだろう。俺のせいで立華さんの評価が下がるのは頂けない。
俺がコロコロをフックに戻すと同時────重たい金属の扉が、音を立てて開いた。
振り返る。
目が合う。
「今日からここで世話になる立華一織という者だが────店長さんはいるだろうか?」
────とんでもないイケメン美少女が、そこにいた。
◆
あまり女性をジロジロと見るのは失礼だと分かっているんだが、つい見てしまう。それくらいは許してほしい。立華一織は蒼鷹生にとってどんなアイドルよりも気になる存在だ。
「これで合っているかい?」
「大丈夫。その後は手のひらと指の間ね」
「了解した」
手洗いをする立華さんをチェックしながら、ちらちらと全身を確認する。
少年のようにも見える黒髪のショートヘアの下には切れ長の大きな瞳が燦燦と輝き、その視線は壁に貼り付けてある「手洗いのすすめ」へと真っすぐに注がれている。すらっとした綺麗な鼻筋の先には薄ピンク色の唇が控えめに存在を主張していて、それらが完璧なバランスで配置されていた。とにかく顔が小さくて俺はつい確かめるように自分の頰を触ってしまう。
身長はかなり高い方だ。俺と目線がほぼ変わらないから、恐らく170センチくらい。雀桜の制服のスカートから健康的な長い脚が真っすぐ伸びていて、つい目が止まる。
そういやサイベリアの制服のサイズはいくつだろうか。あとで聞かないといけないな。
「手首は五回ずつでいいよ」
「おっと。やりすぎてしまったか……これでどうだろうか?」
立華さんがピカピカになった手を俺に見せてくる。白い指が彫刻みたいに綺麗だった。冗談みたいに整った顔で見つめられ、不意打ちをくらった胸が高鳴る。イケメンにときめく女の子の気持ちが分かった気がした。
「完璧。じゃあ────うん、どうしようか」
段取りを何も考えていなかった俺は、早速困り果てた。なにせオリエンテーションなどやったことがない。考える時間もなかった。
「店長さんはいないのかい?」
立華さんの声は少しかすれたようなハスキーボイスで、不思議と聞いているとホッとする。世間で大バズりしている女性シンガーソングライターに少し似ている気がした。つまりイケボだ。
「困ったことにね。一応俺が立華さんの教育を任されているんだけど」
「そうなのかい? えっと……山吹夏樹、でいいのかな?」
立華さんがぐいっと顔を近づけて俺の名札を見る。すると香水をつけているみたいに、ペパーミントのような爽やかな匂いが鼻腔をくすぐった。
「うん、よろしくね立華さん」
「こちらこそよろしく、夏樹」
いきなり下の名前で呼ばれ面食らってしまう。立華さんは俺に微笑みを一つ残して、奥の荷物置きに歩いていく。
「荷物はここで構わないかな?」
「うん。適当に空いてるスペースに置いちゃって大丈夫」