「思ったよりも広いね。これがバックヤードというやつか。店の裏側がこうなっているなんて想像もしなかったよ」
立華さんはきょろきょろと周囲に視線を彷徨わせて呟く。初出勤なのにどうしてこんなに堂々としていられるんだろう。自分の初出勤の時とはえらい違いだ。あの時は何もかもが初めてで、責任感に押し潰されそうになっていた気がする。職場でリラックスできるようになったのは一か月以上先のことだった。
「…………あの噂、絶対本当だ」
俺は確信する。
これは、勝てない。
勝てるわけがない。
『雀桜の王子様』、立華一織は────どうしてこんな所にいるのか分からないレベルのイケメンだった。ボーイッシュ系女優としてテレビに出ているか、ファッション雑誌の表紙を飾っているか、そうでもなければどこかの国の王子様にでもなっていないとおかしいようなオーラを纏っていた。
冗談ではなく、本気でそう思った。
「夏樹、制服を頂きたいんだが」
荷物を置いた立華さんが戻ってくる。歩き方まで凜として様になっていた。
「あ、ああ────そうだった。サイズって分かる? 多分SかMだと思うけど」
「そうだね……夏樹が着ているのは?」
「これは確かMだったかな」
答えると、立華さんが目の前までやってきて、俺の身体に添わせるように両手を伸ばす。腕は流石に俺の方が長い。なんの自慢にもなりはしないけど。
「Mでこれなら、私はSだろうね。ピッタリしている方がかっこよさそうだ」
「あ、でも男性用と女性用でデザインが違うからどうだろう」
多分店長の趣味なんだろうけど、うちの制服は男女ともにかなり凝っている。キッチンとホールでまず違うし、ホール用は男性はスーツに蝶ネクタイ、女性は丈の短いメイド服だ。
俺が女性用の制服を棚から出そうとすると、立華さんが驚きの提案をする。
「いや、夏樹が着ているのと同じデザインがいい。それを貰えないだろうか?」
「…………ちょっとそれは俺じゃ決められない気がするなあ」
はっきり言って、サイベリアは店長のワンマン企業だ。店長がいいと言えば基本的にどんなことでも通るという、驚きのシステムを採用している。だから本来なら店長に相談するところだけど……店長はこう言った。
────夏樹、あとは任せたよ。
なら、ここは俺が判断しなければならない。それなら答えは一つだった。それに、多分店長も同じことを言うような気がしたんだ。
「いいや、立華さんは男性用で」
「いいのかい? 今しがた決められないと言っていた気がするが」
「立華さんのことは店長から任されてるんだ。だから、いいよ」
男性用の制服を手渡すと、立華さんが真っすぐ俺の目を見て笑った。
「ありがとう、夏樹。どうやらボクはいい先輩に巡り合えたようだね」
その笑顔を見て悟った。────完全にお手上げだ。『雀桜の王子様』に勝てる男なんているわけがない。俺達、彼女を作るのは諦めた方が良さそうだぞ。
明日登校したら、そう颯太に打ち明けようと思う
◆
何事もやらせてみるのが一番、というのがこの一年サイベリアで働いた俺の持論だった。そんなわけで俺達はいきなりホールにやってきている。
「おお、これがホールか。流石に少し緊張するね」
本当に?
と、つい訊いてしまいそうになるくらい立華さんは落ち着いていた。物珍しそうに店内やお客様に視線をやっていて、緊張している様子は全くない。俺が初めてホールに出た時なんてちょっと足が震えたのに。
「じゃあ一通り案内するね。ついてきてくれるかな」
「了解した。済まないがよろしく頼む」
立華さんを連れてホールを一周する。レジやカウンター、テーブル番号などを教えるだけだからそこまで時間は掛からないと思ったんだが────残念ながら俺の見立ては甘かった。
…………いや、こんなの誰が予想できるんだよ。
立華さんが足を止めた。視線の先には十五番テーブル。そこに座っているのはスーツ姿の若い女性が二人、恐らくは仕事終わりのOLだろう。こちらを見て顔を赤くしている。立華さんを見ているのは明らかだった。
今の立華さんはサイベリアの男性用制服であるスーツ姿。一見すると、いや、じっくりと観察した上でもただの超絶イケメンにしか見えない。服装の先入観もあるといえど、まさか女の子だなんて思いもしないだろう。
「あの子達、可愛いね」
立華さんは小さくそう呟くと、二人に向かって軽く手を振った。自分より遥かに年上の社会人を捕まえて「あの子達」ときたか。勿論お客様に向かってそんな態度はタブーである…………が。
その瞬間────OL二人組はハジけた。
「…………わお」
二人の間でなんらかの感情が爆発したのが分かった。口元を押さえたりテーブルに突っ伏してみたりと激しく身体を震わせている。それがどういう感情なのかは想像に難くない。こうやって蒼鷹生は冬の時代を過ごすことになったのか。
「ふむ、ウェイトレスはボクの天職かもしれないな」
「いやいや、違うから。今のは接客じゃないからね」
「そうなのかい?」
きょとんとした表情で首を傾げる立華さんは、どこまでふざけているのか判断が難しい。顔が整っているとなんでも本気で言っているように聞こえる。
「お客様に手を振ることはホールの仕事に入ってないから。それはホストとかそういう夜の職業だと思う」
「ホストか、それもいいね」
やはり本気なのか分からないことを口にする立華さん。きっとホストになったらめちゃくちゃ人気が出るんだろうな。
「じゃあ、ホールの仕事を教えてくれるかな?」
「勿論。その為にホールに来たからね。じゃあ早速接客の練習をしてみようか」
気を取り直し、ホールの入り口へと移動する。いくら暇な時間とはいえ他のスタッフさんに一人でホールを任せてしまっているので、ふざけている暇はない。
「まずは案内から。俺がお手本を見せるから、立華さんはお客様として入ってきてくれる?」
「了解した」
立華さんが店のドアから出ていき、そして戻ってくる。カランカランと来店を告げるベルが鳴る。