立華さんもこの一日でかなりレベルアップを果たし、普通のお客様にはマニュアル通りの接客を、雀桜生には王子様モードで接客するという器用な技を完璧にマスターしていた。昨日は否定してしまったけど、立華さんには接客の──というか人前に出る才能があるんだろうな。
「流石に疲れたな……」
バックヤードに戻って退勤の打刻をすると、どっと疲れが噴き出してくる。雀桜生も売上に貢献しようと軽食やデザートなどを沢山頼んでくれたので、キッチンからも嬉しい悲鳴があがっていた。
「……うわ、今日の客単価千五百円超えてる。沢山頼んでくれたなあ」
「それは凄いのかい?」
パソコンで夜九時時点のデータを見ていると、後ろから立華さんがディスプレイを覗き込んでくる。すぐ横に顔があって少しびっくりした。
「うん、これは凄いよ。客単価っていうのはお客様が一人当たりいくら使ってくれたかってデータなんだけど、いつもは千円くらいだから。雀桜のみんなにありがとうって伝えておいてくれると嬉しい」
「売上に貢献してくれたみたいだね。分かった、伝えておくよ」
立華さんは満足そうに退勤のボタンを押す。その表情には疲れというものがあまり感じられない。今日はめちゃくちゃ忙しかったのに、この時間でも背筋がピンと伸びている。
「凄いね、立華さん。全然疲れてるように見えない」
「そうかい?」
立華さんは意外そうに目を丸くする。しかし、すぐにいつものかっこいい表情に戻った。
「当然だけど疲れているよ。凄くね。でも夏樹の目からそう見えないというのなら、それはボクに染み付いた癖が理由だろうね」
「癖?」
立華さんが雀桜の制服を持って更衣室に入る。そうだ、立華さんは女の子だった。分かっていても頭がエラーを吐きそうになる。
カーテンが閉まる。静かなバックヤードに衣擦れ音が響き、程なくしてセーラー服に身を包んだ立華さんが現れた。どっちが似合っているかと言われれば、これは完全に個人的な意見になるけど、サイベリアのスーツ姿の方が見ていてしっくりくる。勿論口に出したりはしないけど。
立華さんは俺の前に立つと、目を少し細めてキメ顔を作った。
「常に誰かに見られていると意識しているんだ。だから、夏樹の前でも表情を崩さないのさ」
また明日────そう言い残して、立華さんは颯爽とバックヤードから出ていった。
「…………イケメンすぎだろ」
ドアの向こうに消えていく立華さんの背中を見送りながら、俺は無意識に呟いていた。
◆
あの日の売上はサイベリアの平日最高記録を達成したらしい。高い客単価で九時までずっとウェイティングが出ていたらさもありなんという話ではあるんだが、店長の反応は淡泊だった。
────何故なら、その記録はたった一日で破られたからだ。
立華さん目当てに連日訪れる雀桜生により、サイベリアは過去最高の潤いを見せていた。結果的にこの一週間でサイベリア紫鳳中央店は最高売上を三度更新し、全店歴代トップの記録を三十万円も上回る大記録を打ち立てた。
…………そして、上がっていく売上に比例するようにスタッフの疲労もピークに達していた。
「店長、流石にそろそろ限界っす。この人数じゃ回らないっすよ」
そう言って疲れた様子で項垂れるのは大学生の三嶋さんだ。いつもは金色の長髪をばっちりセットしてくるかっこいい三嶋さんも、ここ二日ほどはセットをサボっている。目の下には隈が目立ち、声にも覇気がない。
「……そういう意見はみんなから貰っているよ」
店長は珍しく難しい顔をして、売上が表示されたディスプレイを見つめている。今は高校生のお客様が帰った夜の九時半。俺と立華さんが退勤する時間でもあった。
「夜のスタッフの頑張りは私も理解している。速やかに人員を増やすことを約束しよう。だが、今日明日から今の状況が改善できるわけではない」
店長はそう言うと、俺の隣にいる立華さんに視線を向けた。店長も今日はずっとキッチンに立っていたので顔には疲労が浮かんでいる。
「…………?」
対照的に立華さんは涼しい表情だった。立華さんだって疲れているはずなのに、全くそうは見えない。それが立華さんの努力の賜物だということを俺は知っている。
「この混雑の理由──それは一織の王子様接客だ。売上が上がるのは非常にありがたいことだが、このままでは店がもたん。悪いが自重してもらうしかないな」
店長の言っていることはぐうの音も出ないほど的を射ていた。何も間違っていない。テーブルのほとんどを埋めている雀桜生や噂を聞きつけた女性客は、立華さんの王子様接客を期待してやってきた客だ。立華さんがマニュアル通りの接客をするだけで混雑はマシになるだろう。
「…………そうか。流石に皆に迷惑はかけられないね。分かった、これからは普通の接客を心掛けるよ」
店長の行動は正しい。店長には店を、そして従業員を守る義務がある。このままではクレームに繫がるようなミスが起きかねないし、最悪の場合、誰かが倒れる可能性だってある。そんなのは嫌だ。
だけど……俺は納得できなかった。
隣にいる立華さんの顔が見れない。立華さんはいつものように涼しい顔をしているのかもしれない。でも、俺にはどうしてもそうは思えなかった。
何故って────この数日の立華さんは凄く楽しそうだったから。
「…………待ってください、店長」
気が付けば、口を挟んでいた。
「ん? どうしたんだ夏樹」
「立華さんの接客は今のままで大丈夫です」
「いや、そうは言ってもだな」
店長の低い声。ここは勢いで押すしかない。ワガママかもしれないけど、それ以外何も思いつかなかった。