「やっと今の忙しさでも回せるようになってきたんです。俺がキッチンもフォローするので、立華さんには今のままやらせてあげてほしいんです。その方がお客様だって喜んでくれるはずですよね?」
「うーん……それはそうかもしれないが……大丈夫なのか夏樹? 負担が大きくなるぞ?」
お客様のことを出されると店長も強く出られないのか、歯切れが悪くなる。お客様の笑顔が増えているのは紛れもない事実なんだ。
「大丈夫です。三嶋さんも、もう少しだけ協力してくれませんか?」
俺が頭を下げようとすると、三嶋さんが溜息をつきながら手で制してくる。
「高校生がガッツ出してるのに、大学生の俺が弱音吐くわけにもいかねえし。それに女子高生が沢山来るのは目の保養になるからな。あとちょっとだけ頑張ってやるよ」
「ありがとうございます!」
結局俺は頭を下げてしまった。それを見て、店長が面白そうに笑う。
「やはり一織を採用して正解だった。まさか夏樹がそんなに燃えるなんてな」
「俺は元々サイベリアの為に頑張る男ですよ」
お金を頂いている以上、一生懸命やるのは当たり前だ。誰だって同じ気持ちだと思う。
「サイベリアの為、ねえ。どう思う三嶋ぁ?」
「いやあ、若いっていいっすね。あ、俺そろそろキッチン戻りますわ」
「私もちょっとレジ見てくるかな。じゃあ二人ともお疲れ様。気を付けて帰れよ?」
二人はニヤニヤしながらキッチンに消えていく。途端に静かになったバックヤードに、俺と立華さんが残された。速やかに退勤処理を済ませる。
「ごめんね、口を挟んじゃって」
更衣室に引っ込みながら、立華さんに謝る。
「どうして謝るんだい?」
隣の更衣室から声が返ってくる。声色から感情は読めなかった。
「立華さんの気持ちを訊かずに勝手に決めちゃったからさ。もしかしたら迷惑だったかなって」
立華さんが楽しそうに接客していた、なんてのはあくまでも俺の想像でしかない。内心はこの忙しさに辟易していたかもしれないし、周りの負担になっている現状を心苦しく思っていたかもしれないんだ。
俺としては立華さんの気持ちが今すぐ聞きたいくらいだった。でも、立華さんはそこで会話を打ち切った。衣擦れの音だけがバックヤードに響いて、俺は徐々に不安になる。やっぱり迷惑だったのかな。
隣の更衣室のカーテンが開く音がした。立華さんは着替えるのが速い。女子の制服って着るのが簡単なんだろうか。
……このまま帰られると、次に顔を合わせる時にちょっと気まずい。
「夏樹、帰りは電車かい?」
カーテン越しに、声がした。
「そうだけど……どうして?」
俺達は仕事が終わるとサイベリアで解散するので、俺は立華さんが電車通学なのかすら知らなかった。というか顔と名前と性別以外は何も知らない。俺達の関係はまだ「同じバイト先の人」止まりだ。
「それなら────良かったら駅まで一緒に帰らないかい?」
駅へと続く大通り沿いの広い歩道を俺達は歩いていた。この時間にもなると車通りもまばらで、等間隔に並ぶ街灯と信号だけがぼんやりと駅までの道を照らしている。駅前まで行けばまだ少し活気もあるけど、この辺りはもう静かだ。
「今日は星がよく見えるね。おおぐま座もおとめ座もはっきりと見える」
俺の隣をあの『雀桜の王子様』が歩いている。立華さんの隣にいるだけで、俺まで立派な人間になったような気がするから不思議だ。
「おおぐま座とおとめ座? ごめん、分からないかも」
立華さんと出会って一週間が経った。
俺は教育係として基本的に立華さんとずっと一緒にいた。でも、びっくりするくらい立華さんのことを何も知らない。この一週間はずっと忙しくて、私語をする時間なんてほとんどなかったからだ。
だから、うん。正直に言えば、結構話題に困っている。
「あそこに北斗七星があるだろう? あれがおおぐま座の尻尾なんだ。尻尾の先をずっと辿っていくと、一際輝く星がある。あれが春の大三角の一つ、アルクトゥールス。うしかい座だね。そして三角形を作っているもう一つの明るい星が、おとめ座のスピカだよ」
ちなみに三角形の残りの一つはしし座のデネボラ。ボクの星座だね────立華さんはそう続けた。立華さんの指先をなんとなく辿っていくと、それっぽい星が見つかる。
しし座って確か夏の生まれだったっけ。立華さんのことをついに一つ知れた。
「立華さん、星が好きなの?」
「プラネタリウムで流れていた説明を暗記しているだけさ。子供の頃に連れていってもらったことがあってね」
「そうなんだ。でも、いい趣味だと思うよ」
「そうかな?」
「うん。綺麗だし」
星を眺めていると、隣に立華さんがいることもつい忘れてしまいそうだった。緊張がほぐれていく。
「さっきの話だが」
立華さんが急に話題を変えたので、俺は星空から目を切って立華さんに視線をやった。立華さんは真っすぐ前を見据えていて、その先では歩行者用の青信号が今まさに赤信号に変わろうとしている。
俺達は信号に捕まって足を止めた。
「ありがとう、夏樹。ボクを庇ってくれたんだろう?」
立華さんが真っすぐ俺を見る。視界の端でそれが分かった。少し悩んだ末に目を合わせてみると、やはり冗談みたいに整った顔が暗がりの中で俺を見つめていた。赤信号が反射して、顔が少し赤い。
「庇った、ってほどでもないよ。忙しいのは俺の働きが足りてないってことでもあるし、最近は徐々に上手くやれてきてる自覚もあったんだ。だからあの場で言ったことの半分くらいは本音だよ」
忙しさに追われるとなんとなく負けた気になるというか。そういう感情が俺の中にあった。俺がもっと要領よく回せていたら慌ただしくならずにすんだのに……みたいな。
「もう半分は?」
立華さんは表情を変えずに、首を僅かに傾げる。俺が雀桜の女の子だったら今の仕草だけで恋に落ちてるな。蒼鷹の男の子で良かった。