鷲丞が「アッシュ」と呼び捨てにしているのは、この邪神自身から「そうしてくれ」と命じられているからだ。しかし鷲丞にはこの辺りが限界だった。「儀礼は不要」と言われても、対等の口調で話すことなど鷲丞にはできない。幾ら意識が命じても、心が「生命体」あるいは「存在」としての格の差から目を逸らせないのだった。
アッシュもそれを理解しているのか、鷲丞にフラットな態度を強要はしなかった。
「もうすぐアカデミーの入学式だろう?」
「はい」
邪神の問い掛けに、鷲丞は硬い表情で頷いた。
この神暦の時代において「アカデミー」という単語は特別な意味を得ている。神々の武具・神鎧に適合した地球人を神々の戦士へと鍛え上げる訓練機関として七つのアカデミーが開設され、国家から独立した神々の統治機構によって運営されている。
ちょうど一週間後の九月一日は世界各地のアカデミーに共通の、神々の戦士となり得る新たな候補者を迎える日だった。
「懐かしいかい?」
「いえ」
鷲丞が硬い顔をしているのは、彼もアカデミーに在籍していたからだ。
「ならば、後悔している?」
「いいえ、我が神よ。貴方には感謝こそあれ、貴方の兵士となったことに後悔はありません。真実を知らずあのまま魔神の操り人形になっていたかと思うと、ぞっとします」
神々とそれに従う者は、敵対する精神生命体を悪魔ではなく邪神と呼ぶ。邪神群は邪神たちの総称だ。
それに対して邪神とそれに従う者の方では、神々を魔神と呼んでいた。なお、邪神は自分たちを善神と称し、配下にもそう呼ばせている。
「間に合って良かったよ、鷲丞。正式に魔神の使徒──彼らが言うところの従神戦士となった後では、私たちの力を以てしても洗脳の解除は無理だからね」
邪神アッシュが口にした『従神戦士』というのは、神鎧をはじめとする神々の武具に適合し神々の軍団に加わった地球人のことだ。これと対をなす邪神の戦士のことは、神々の陣営からは『背神兵』、邪神群側からは単に『使徒』と呼ばれている。
なお地球人の間では従神戦士(Warrior Of Gods:WOG)という正式な名称以外に、神暦の世でも未だ優勢な英語で『セイクリッド・ウォリアー』──「聖戦士」ではなく「捧げられた戦士」の意味──と呼ばれることも多い。
「残念です。我々にもう少し力があれば、もっと多くのアカデミー生を魔神の手から救い出せるのですが……」
悔しそうにそう言って、鷲丞はハッとした表情で「申し訳ございません!」とアッシュに頭を下げた。
「我々というのは自分たち使徒のことで──」
「分かっているよ」
鷲丞の謝罪──あるいは言い訳──をアッシュが遮る。
「君に私たちを非難する心が無いのは理解している。それに、私たち善神の力が不足しているのも厳然たる事実だ。この星は既に魔神の支配下にある。魔神のテリトリー内では、私たちの力は制限されてしまう」
アッシュは憂い顔でため息を吐いた。
「この星の人々にはすまなかったと思っている。私たちが先にこの『ジアース世界』を見付けていれば、魔神の侵略から守ってあげられたのだが」
「アッシュ、あなた方が責任を感じる必要はありません。アッシュは我々に真実を教え、魔神の支配と戦う力を与えてくださいました。それだけで十分です」
鷲丞の力強い宣言に、アッシュは憂いを消し、笑みを浮かべた。
「頼りにしているよ、鷲丞。ジアース世界人の君たちなら、星を覆う魔神のテリトリーに力を殺がれることはないからね。ただ魔神の支配を覆す為には、もっと仲間を増やすことが必要だ」
「心得ております」
アッシュの言葉に鷲丞がその意図を察した顔で頷く。
「今年のアカデミー新入生にスカウトすべき者がいるのですね?」
「富士アカデミーの新入生、新島荒士。この星の男性で初の、F型適合者だ」
鷲丞が浮かべた驚愕の表情に、アッシュはニヤリと人間臭く笑った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
神暦十七年(西暦二〇一七年)八月三十日の夕暮れ時。二日後にアカデミー入学を控えた少年、新島荒士は川沿いの道を全力疾走に近いペースで駆けていた。朝夕のランニングはアカデミー入学が決まる前から、彼の日課だった。
百七十センチ台前半の身体は良く引き締まっているが、遠目には細身に──線が細く見える。だが走る姿は力強く、少年にありがちな弱々しさは全く無い。真夏にも拘わらずしっかり着込んでいる長袖、長ズボンのトレーニングウェアに隠れているが、二の腕にも太ももにもしっかりと筋肉が付いているに違いなかった。
川にかかる小さな橋の手前に、小柄な人影が腰の後ろで手を組んでたたずんでいた。夕日に赤く染まったシルエットは、荒士が近づくにつれてディテールが明らかになっていく。
涼しげなミニスカート姿の少女が「ガ・ン・バ・レ」という形に口を動かす。
既にそれを見分けられる距離まで近づいていた荒士は、ラストスパートとばかりピッチを上げて少女の前を駆け抜けた。
クールダウンしながら少女の許へ戻ってきた荒士は、ゆっくりとした走りを歩きに切り替えて少女に話し掛けた。
「陽湖、横浜に帰ったんじゃなかったのか?」
少女の名前は平野陽湖。荒士とは所謂「幼馴染み」の間柄だが、彼女はこの町の住人ではない。陽湖の祖父がこの地で剣道と護身術の道場を開いていて、荒士は小学生になる前からそこの弟子という関係だった。
長期休暇で祖父の家に泊まりに来た孫娘と毎日道場に通っていた熱心な少年門下生。少子化が進んだ山間の町で同い年の子供二人が仲良くなるのは、自然な成り行きだった。
「その予定だったんだけど、パパに急なお仕事が入ったみたいで。入学式までお祖父ちゃんの家でお世話になることになったの」
「急な仕事?」
「独立派が会社に押し掛けて、パパを出せって騒いでいるらしくて」
独立派というのは神々の統治に反対する組織で、日本だけのものではない。外国の組織の中にはテロリスト集団と化して地下に潜っているものもある。各国の独立派は別組織という建前になっているが、テロリストを含めて、裏でつながっているというのが一般的な認識だった。
陽湖の父親の会社が独立派の標的になったのは、今回が初めてではない。それどころか「またか」という感想がすぐに浮かぶ頻度だった。
陽湖の父、平野隆通は実業家で『株式会社HIRAGA』という商社を経営している。平野隆通は現代の政商だ。彼が社長を務めるHIRAGAは神々の地球統治組織である代行局に多くの商品を納入している。独立派から目の敵にされるのも、それが理由だった。
「独立派か。バカな連中だ」