「もしかして、時間稼ぎのつもりか?」
荒士の顔に動揺が過る。
それでも彼が返答の言葉に詰まることはなかった。
「……時間稼ぎに何の意味がある? 警察や自衛隊の武器じゃ、アンタたちにかすり傷一つ付けられないんだろう?」
荒士の言い訳を聞いて、邪神の使徒・グリュプスは「フッ……」と鼻先で笑った。
「そうだ。時間稼ぎなど役に立たない。それが分かっているなら、さっさと来い」
「……条件がある」
「条件を付けられる立場ではないと理解できないのか?」
「聞いてくれ!」
それまでにない荒士の真剣な形相に、グリュプスの態度が軟化する。
「……言ってみろ」
「用があるのは俺だけなんだろう?」
荒士が背中にかばっている陽湖へ肩越しに目を向ける。
それにつられたのだろう。グリュプスの視線も陽湖へと誘導された。
「だったら彼女は家に帰してやってくれ」
「ちょっと! 荒士君、何を言ってるの!?」
目を見開いた陽湖が、荒士の背中に摑み掛かる。
それに構わず、グリュプスは荒士の要求に頷いた。
「元々、そのつもりだ。お前が大人しくついてくれば、彼女には手を出さない」
「アンタの言葉を信じないわけじゃないが、こいつを先に帰らせてやってくれないか。そうすれば俺は、安心してアンタに同行できる」
「良いだ……」
「格好付けてんじゃないわよ!」
良いだろう、と言い掛けたグリュプスの返事を遮って陽湖が叫ぶ。
「荒士君、それ、自己犠牲のつもり? そんなの、ダサいだけだからね!」
「陽湖!」
荒士は振り返らず──『グリュプス』から目を逸らさずに、陽湖の名を強い口調で呼んだ。
「な、何よ!」
「冷静になってくれ。今の俺たちでは、どう足搔いたってアイツには手も足も出ない。神々の戦士が偶然駆け付けてくれでもしない限り、どんな抵抗も無意味だ。アイツはどうやら、俺に何かをさせたいらしい。その為の取引材料として、お前を一緒にさらうことだってできるんだ」
荒士の今までで一番真剣な口調に、陽湖がたじろいだ素振りで俯いた。
そこへすかさず、グリュプスが口を挿む。
「そのとおりだ、お嬢さん。心配しなくても、君の彼氏には何の危害も加えない。神が彼氏に会って話をしたいと望んでいるだけなのだ」
「彼氏じゃない……」
俯いたまま、陽湖がボソリと低い声で呟く。
「ムッ? 何か言ったか?」
そのセリフが聞き取れず、グリュプスは反射的に問い返した。
「彼氏じゃなくて、友達よ!」
陽湖が勢いよく顔を上げる。甲高い声で叫んだ彼女の顔は、赤みを帯びていた。
「そ、そうか」
その勢いに圧倒されたのか、グリュプスはわずかに仰け反った。
「それに適当なことを言わないで! 連れて行ったらもう帰さないんでしょ! 荒士君が帰りたいと言っても! 危害は加えない? 拉致監禁は立派な危害よ!」
しかし更に詰め寄られて、グリュプスは逆に、冷静な態度を取り戻した。
「……そうだな。不誠実なセリフだった。真実を知れば、魔神の手先にさせられると分かっていて『帰りたい』などと言うはずはないんだが、今の段階で約束できることではないな」
猛禽の顔に似たフェイスガードからのぞく両眼が冷たい光を放って陽湖の心を射貫く。
「…………」
眼光に気圧されて、陽湖は言葉を失う。
「お嬢さん、お友達は連れて行かせてもらう。その代わり、君には手出ししないと誓おう」
「それで良い」
硬直した陽湖に代わって、荒士がその言葉に頷いた。
「荒士君!?」
慌てて陽湖が、荒士の背中に縋り付く。
荒士は肩越しに振り返って、陽湖に微笑み掛けた。
「陽湖、行くんだ」
「ダメよ、諦めちゃ! もう帰ってこられなくなるのよ!」
「だが、どうしようもない」
「そんなの分からない! 粘っていれば偶然、従神戦士が駆け付けてくれるかもしれないじゃない!」
「諦めたまえ。そんなご都合主義的展開は、現実には起こらない」
必死に反論する陽湖に、グリュプスが言い聞かせるように話し掛ける。
しかしその直後。
「そうでもない」
大音声のくせに淡々とした口調に聞こえる声と共に、上空からグリュプス目掛けて光の矢が襲い掛かった。
「クッ!?」
グリュプスは大きく後方に跳躍して、その一撃を避けた。
光の矢が舗装されていない道の真ん中に突き刺さる。
その横に、銀色の甲冑を纏い背中に二対四枚の光る翅を広げた若い女性が舞い降りてきた。彼女の甲冑はグリュプスの物とは違い、肩当て、ガントレット、胸当て、アーマースカート、装甲ブーツが別々のパーツになっている。鎧の下、装甲がカバーしていない部位から、黒地に銀のラインが走るエナメル光沢のボディスーツを着込んでいるのが見えていた。
彼女の両足が地面に付くと同時に、光の翅が消える。
「このような展開は確かに希少な例外だが」
そう付け加えて、女性戦士は荒士と陽湖の方へ振り返る。彼女の兜に、フェイスガードは付いていない。代わりに半透明のシールドが鼻から上を完全に覆っていたが、家族やそれに準ずる者が人相を見分けられなくなる物ではなかった。
彼女の登場に、荒士も陽湖も驚いていなかった。
「お姉ちゃん、やっと来たの」
軽く咎めるように陽湖が言い、
「名月さんですか?」
少し自信無げな口調で荒士が訊ねた。
「そうだ。荒士とは久し振りだな。陽湖とも……半年ぶりくらいか」
陽湖の姉、平野名月は四年前、アカデミーに入学し、今月正式に神々の戦士として取り立てられた。荒士が彼女に会うのは、名月のアカデミー入学直前以来だ。
「名月さんが来てくれるとは思いませんでした」
「ほぅ。助けが来るのを予想していたような口ぶりだな?」
意外というより面白がっている表情で名月は問い返した。
「敵の戦士の出現に気付かない程、神々の支配は甘いものじゃないでしょう?」
それに答える荒士の顔は平然としたものだ。さっきまで浮かべていた必死さや諦観の表情は、彼の顔に跡形も無い。
「ハハハ、それもそうだ。陽湖は、私が来ると予想していたようだな」
「今晩のお食事会にお姉ちゃんも出席する予定だったんだから、来て当然でしょ」
名月は二人と会話しながら、両手にしっかり弓と矢を構え、その矢はグリュプスに狙いを定めている。
「……俺は一杯食わされたということか」
グリュプスの声には、隠し切れない口惜しさが滲んでいた。