鵯華もふくめてみんなでゲロの処理をして、鵯華と藤袴の制服はとりあえずウェットティッシュでできるかぎり拭いたあとで、鵯華はすべてなかったことにしてもう一度仕切り直したのだった。
だがすべてはなかったことにはできない。
臭いは、すぐには消えない……。
「ほ、……ほんっとごべぇぇん!」
鵯華は藤袴の涙声にはっとして、即座に切り替えた。
「いぃえ藤袴! ごめん、さっきも言ったけどこれはあなたのせいじゃなかった! 制服はクリーニングに出すから大丈夫。わたし、ここに入学してからも空木のこと聞き込みしたんだから、よくわかってる。この部はそういう部で、どうせ空木がよくわかんない企画を強行した結果でしょ?」
空木は口許をほころばせた。
「まあ、それはその通りだなぁ。部員ふたりのクリーニング代くらいは責任持つよ。ちゃんと顧問に払わせるからさ」
「はは、パチスロで五万円失ったばかりの僕の財布に、そんな余力があるかな?」
橘がさわやかな口調で言い、鵯華本人もふくめてほかの全員、え、と目をしばたたかせた。けれど橘の言動に引っかかったわけではない。少なくとも綾目と藤袴は橘という教師の人間性にいまさら驚かない。
綾目が鵯華の制服をまた拭いてやりながら、ぽつりとこぼした。
「部員……ふたり?」
鵯華がその疑念を引き継いだ。
「そうだよ。待って。空木、いまそう言った。橘先生からなにか聞いた……んじゃないよね? 藤袴だけじゃなくて、わたしのことも指した?」
「え。だって鵯華、部室のなかで待ってたじゃん」
AIA学園では、部室の鍵は顧問が管理している。そもそも、土曜日に、部室にくるかどうかもわからない部員たちをぽつねんと待つのも馬鹿みたいだ。つまり、事前にあれこれ調整していなければ、部室で待つという選択肢は生まれない。
「うちに入部届け出した上で、橘先生から、今日は昼すぎに部室に寄る予定があると聞いてたんだろ。で、余裕をもって早めにきて、たぶん、お弁当食べたりそっちに置いてるタブレットでなんか作業したりしつつ、まだかなー、空木たち早くこないかなー、とそわそわして待ってた」
鵯華の顔が見る間に不機嫌そうになっていくのが、また、実にわかりやすかった。表情がころころ変わる。
渦巻く感情の色あざやかさが、透けて見えるようだった。
空木は笑ったまま続けた。
「だから、いま嫌そうな顔してるのは、ほんとは自分の口で入部を告げて俺たちを驚かせたかったからだ。俺のこと調べたと言ってたんだし、机に座ってるのもあれだよな、常識はずれの奴だと思われたほうが興味を引けると考えて──」
「──ぶ、分析しなくていいから!」
鵯華は顔を赤くして、机からぴょんと飛びおりた。……藤袴は泣き腫らした目で、意外そうに鵯華を見ていた。綾目のほうはまたちがう意味で驚いた顔で、空木を眺めている。
空木は適当な椅子に腰をおろして、問いかける。
「なんで?」
「へっ? な、なんでって、……恥ずかしいでしょ!」
「じゃ、なくて。……鵯華のことはたしかに聞いてる。プロとして本を出してて、次回作も嘱望されてる感じなんだろ? すっげぇな、とは素直に思うよ」
綾目がぼそりと言ってきた。
「空木、……ずいぶん楽しそうだな」
「そりゃそうだろ、面白いじゃん鵯華。ふつう、プロ作家がわざわざ新しく高校の文芸部に入ってきて、リソースを無駄にするか? 流れを考えると、俺のことをその、なんだっけ、口うるさく重箱の隅をつつくために入部したわけだよな?」
「人を、あんな人面獣心の罵詈雑言見当はずれ社畜マシーンといっしょにしないで! 適切なディレクションと言って!」
「担当編集となんかあったんか」
「ともあれ、文芸部の規則にあるんでしょ? 空木が部を魔改造しちゃう前からの規則のひとつ。創作物に関しては部員同士で意見をちゃんと交わすこと。このへんはいろいろ確認して、顧問の言質取ってる。ですよね、橘先生?」
「まあそうだね」
「ね? ほかの部員の意見を必ずしも取り入れる必要はない、ただし意見されたら吟味はすること、って。だったら、空木がいかに技術論には興味ないと突っぱねても、わたしの話を聞く必要性ができるでしょ?」
鵯華は入部理由を言外に認めた。
最後に、ぶつぶつと付け加える。
「っつーか、興味ないという発言がそもそも意味不明なんだけど……。物書きだったら、たくさんの人に評価されたいと思うもんでしょ……」
しかし実は、空木が訊きたいことの答えにはなっていなかった。
もう一度尋ねたときにはもう、鵯華の反応を楽しみにしている自分がいた。
「入部理由はわかってる……からこそ、なんで? って訊いたんだけど」
「はえっ?」
「なんでそこまでして、俺に絡んでくるのかな? 鵯華は最初に、俺の小説をつまんないと言ったけど、そりゃそうだろうなと思うよ。藤袴とかも俺の小説読むのを嫌がること多いしさ。なのに、なんで鵯華自身の才能の無駄遣いみたいに俺にこだわってるわけ?」
鵯華はわかりやすく動揺した。
が、すぐそれを抑え込んだ様子で、はっ、と強気に笑う。
「……わたしのプライドの問題よ! わたしは、空木がネット上に公開してる小説を偶然から目にしてた。で、この学校を受けることが決まって調べて、文芸部にあの小説の作者がいると知った。それで、気まぐれで声をかけてやったのに、断りやがった。それは鵯華先生の沽券に関わるから──」
「いやいや噓だろそれ」
「──…………えっ?」
鵯華がより激しく、ぎくり、とした。
空木の声は自然と弾んでしまう。
「だってさ、鵯華が俺に話しかけてきたのは昨日の昼休みだよ? しかも半分はすぎてたし、俺に断られて鵯華はうろたえてた。鵯華のごはんはほとんど残ってた。あのあとで、昼休みのあいだに入部届け取りに行って橘先生に渡せるかな? 鵯華の担任に預けたにしても、橘先生の手に渡るのはどのタイミングかな?」
空木はほとんど確信していた。
「橘先生に確認したってことは、多少なりとも時間を取ってもらったってことだろ? 橘先生が生徒の気持ちを汲んでそんなにスピーディに動くはずがないよ。仮に、昨日の放課後に鵯華の入部届けを確認したとしたら、その放課後のうちに対応なんかしない。なんなら、あれこれ面倒くさいなあ、明日いっそのこと空木くんインフルエンザになって部活休みにならないかなあ、とぼんやり考えるはずだ」
「顧問がそんな発想の部、大丈夫?」