当惑する鵯華に、橘は大人の余裕たっぷりの笑みを見せた。
「心配せずとも安泰だよ。なんせ僕の父親はこの学校の理事長で、僕は遅くに生まれたひとりっ子だ。溺愛されているからね」
「うわあ」
鵯華がゴミを見る目を向けたので、綾目が一応フォローした。
「その、なんだ、橘先生は多趣味でさまざまな道具を貸してくれるから、活動の上では頼りになることも多いんだ」
「そうだろう綾目くん、言ってやってくれ。煩わしいときも多いが、空木くんが部長になってからの文芸部活動は、僕にとっても仕事のなかじゃ楽しいほうなんだよ」
綾目がうなずいた。
「それに学校側も無茶な部活動をけっこう見逃してくれるしな。……鵯華、気持ちはよくわかる。親の威を借る三十代はみっともない。俺も橘先生のような大人になるくらいなら腹を切るし、理事長はこんな息子を抱えておいて、よくもまあ笑顔で校内を歩けるものだなとは思うんだが……」
「……綾目くん?」
橘が解せない様子で首を傾げた。
空木は鵯華へと続ける。
「要するに、昨日の今日でそこに座ってるのは早すぎるってこと。ふつうに考えれば、そうだな、始業式の翌々日かその次の日には入部届け書いてたろ?」
「う」
とどめを刺す。
「俺、腹芸みたいなやり口は好きじゃないんだけどなぁ」
鵯華は気まずそうに、それでいて迷うようにうつむいた。
風がふわりと吹き込んでくる。春の匂いがする。ゲロの臭いもだが。窓の外にアゲハチョウが飛んでいるのが一瞬見えた。鵯華が、ささやく。
「わたしが、………………だからよ」
小声すぎて、ほとんど聞き取れなかった。
「うん?」
空木が首をひねり、鵯華はついに覚悟を決めて顔をあげた。
目は潤んでいる。頰は真っ赤だし、唇は震えていて緊張の極みだ。にもかかわらず、そのまなざしは空木の心を焼き貫いて、消えない灼熱を刻んだ。空木は明確にどきりとさせられた。──なんだ? と戸惑うほどだった。
去年の夏からずっと抱える胸の痛みが、べつのなにかに強く上書きされていくかのようだった。鵯華が再び、今度は部室の外にまで響きそうな声で言った。
「わたしが、空木のファンだからよ!!」
懸命さと強さ、まっすぐな情熱が──。
その経歴などよりもよほど、鵯華がいったいどういう人間なのかを空木に実感させた。はじめて会うような人間どころではない。空木は自分の小説に対して、ここまで言ってくる人間が祖母のほかに存在しているなど考えたことすらなかった。
予感はやはり正しかった。
「空木が書く小説の、ファンなの……! 最初に読んだときからクリティカルヒットで、すごく好きだった! けど、エンタメとしては欠けすぎてて、わたし以外が読んでもたいていは楽しめないのがわかるから、もったいないんだよ。自己満足より大切なものはある! わたしなら空木の小説をもっとエンタメとして磨ける自信がある……あぁもう、くそ! こんな直接言わせんな! わかったでしょ、わたしは真面目に──」
空木は鵯華をさえぎった。
「鵯華のその必死な感じを、原稿用紙何枚かでびっしりと詳細に描写したくなるな」
「──は、……はあっ!? 喧嘩売ってんの!?」
「ちがう。……ちがう、ちがう、ちがう! はは、うれしいんだよ、……俺はさ、このごろずっとスランプぎみだったんだ──どっかで、前よりもずいぶんと世界が錆びついた気がしてた。だから、鵯華が言ってくれたことはありがたいよ。鵯華の入部で、……いつ以来かな、こんなに面白く感じるのは!」
鵯華は時間が止まった顔をした。
空木が本気で言っているのが充分に伝わったからだろう。鵯華はそうっと目をそらし、むずがゆそうに頰をかいた。しかし堪えられないうれしさがにじみ出ている。ようやくスタート地点に立った、そんな表情になっているのが、空木にはまた楽しかった。
その無防備な明け透けさが。
「……空木、わかるよ。だれの反応もない創作を続けるのは孤独で、つまらないものだもの。わたしの言わんとすることを理解してくれて安心した。……でも、ふふ、ぐずぐずしてるヒマはないからね! プロの世界で、わたしと空木のすべてを燃やし尽くすには、人生まるごと使っても足りないんだから──!」
空木は笑顔で首を傾げた。
「いやそういうのは完全無欠に興味ないんだけど」
「じゃあ、なんなのよ!?」
鵯華の悲鳴がまたしても響き渡ったのだった。
学校の正門から駐車場を通ってテニスコートのあたりまで、敷地を縁取るように並んだソメイヨシノはほぼ散っていて、時折、風が花びらを舞いあげる。
窓から差し込むうららかな陽射しのなか、本日はこれで解散というタイミングで、空木はふと閃いた。
「そうだ。鵯華の歓迎会として、このあとみんなでラーメンでも──」
「「「嫌だ」」」
断った部員たちの表情も実にドキュメンタリー的で、まさに空木が今回のラーメン店めぐり企画で描き出したいものであった。
3.
空木と鵯華にとっては、ゴールデンウィーク最終日が運命の日となる。
……その十三日前。放課後。
ふたりきりの部室で、鵯華が口を開く。
「そういえば空木さ、クラスの友達から聞いたんだけど」
空木は4Bの鉛筆を動かしながら相づちを打った。
「なに?」
「わたしが空木に好きだと告白して振られた、という噂が流れてるんだって。知ってた? 初耳? ね、この話を聞いてどう思った?」
「鵯華にも友達いるんだなぁ、と思ったよ」
「友達くらいいるわ! 絶対、空木よりはいっぱいいるわ! そうじゃなくて、こんな美少女を振ったと勘ちがいされて鼻高々かってこと! 空木がいま彼女いないのはわかってるけど、好きな人はいる? その人にも一目置かれるんじゃないの?」
「っつーか、恋愛的な意味じゃ単に事実じゃないからさぁ。鼻高々もクソもないだろ。鵯華がよく言ってくる、意味のわからない……ええっと、なんだっけ、プロ……作家? エンター……テインメント? みたいな話では、鵯華を振ってると言えるだろうけど」
「意味わかんないわけないでしょ! とつぜん一般名詞すら聞き覚えがないっぽい顔しないでくれる!? だいたい答えになってないよ。どうなの? 好きな子とか、……前に付き合ってた子とか、いないわけ?」
空木は、脚を組んで椅子に座る鵯華をじっくり観察する。