鵯華が向けてくる、煮えたぎるまなざしを、空木なりに味わいたいと思ったからこそいまこの状況だ。空木はスケッチブックに描いたものの一部を消しゴムで消し、再び鉛筆を持ち直した。答える。
「いないよ。俺はこれまでも特に、だれとも付き合って──」
「へえええぇえ、ふぅぅぅううん。そうなんだぁ」
「……なんだよ。にやにやしすぎじゃねぇ?」
「いーえ、べっつにー? なんでもないですよー? たださぁ、あー、わっかるぅ、と思っただけー。空木ってばデリカシーないもんねぇ? それでよくあんな綺麗な文章書けるなあという感じだもんねぇ? わかるわかる、あっははー、恋愛経験ないわけぇ? うわーたしかにモテなそうー」
さすがに反論したくなった。
「自慢じゃないけど、告白されたことは何回かあるぞ。っつーか動くなよ。ほら。あとすこしで完成するから」
「へっえぇぇぇ? そりゃ空木ったら中身はちょっとアレでも容姿は良いですからねぇ? 自慢じゃないなら見栄ですかねぇー? 告白されて断った? ストイックな芸術少年気取りですかぁー? 女の子に対しても、わたしが空木に連日聞かせては無碍に扱われてる創作論みたいに、興味ないんですかぁー?」
……女子に、興味。
ないわけは、ない。けれどこれまではもっと興味のある、やってみたいことが多すぎて、そんなことにまで手が回らなかったのだ。ただ、……いまは。
いま、空木が最も興味のあることは──。
「──鵯華、……のほうこそどうなんだよ。さぞかしモテてきただろ。少なくとも、マウント取れそうになってはしゃぐ程度には恋愛経験が──」
がらり、と部室の引き戸が開けられた。
たまたまどこかでいっしょになったのか、クラスの用事があると言っていた綾目と、漫研に寄ると言っていた藤袴が並んでいた。並ぶと綾目の体格の良さが際立つ。
藤袴は空木に目を向け、短い声を漏らした。
「うげ」
鵯華が尋ねる。
「なに、藤袴」
他人の呼び方は、うつりがちなものだ。鵯華はこの部でいちばん年下だが、空木がそう呼ぶし、本人たちも気にしないから、藤袴のことも綾目のことも、すっかり呼び捨てで定着したらしかった。
綾目も口を開いた。
「気にするな、鵯華。あとですぐにわかる。……空木、おまえがデッサンをしているということは、今度は美術を題材にして書いてみたくなったのか?」
「ってか、橘先生はどこよ? パチスロ?」
藤袴が教室を見回す。鵯華がうめいた。
「マジでそんな人なのね、ここの顧問……」
空木は鉛筆画を最終調整する手を止めず、綾目と藤袴の質問に返答した。
「橘先生は、勤務時間内にはパチスロ行かないよ。失職のリスクのあるサボりとリスクのないサボりを、きちんと見分けられる男だ。単に、学年主任から、逃げられないタイミングで仕事を頼まれたみたい。で、俺は美術ネタを思いついたわけじゃない。なにかの参考にしようと思って描いてない」
鵯華のほうが反応した。
「え、そうなの? わたしもそうなんだろうなと思ってたのに。じゃあ空木、どうして急に、わたしの絵を描きたいと言い出したの?」
「そうしたいと思ったから。ただ鵯華を描いてみたくなっただけだよ」
鵯華はどきりとしたようだった。
綾目が、お、というふうに目を丸くする。それも、さながら、しばらくつぼみをつけなかった植物の花が咲いているのにふと気づいたような、肯定的なものだ。
「空木、それって」
信じがたい、といった否定的な声音でこぼしたのは藤袴で、当の鵯華も期待と不安が混ざった、どきどきした感じの声を発した。
「わ、わた、……わたしを、いったいその、どんな理由で……」
「だって鵯華の表情は、なんていうかな、あざやかなグラデーションで、あれみたいじゃん。……油で汚染されて虹色になってる河川! ──よし」
「たとえが悪すぎんでしょ! ──できたの?」
「うん。完成。もういいよ」
「……あぁ、肩凝ったなー。さあ、出来はどうかなー」
鵯華は椅子から腰を浮かし、一度伸びをする。それから、急いでいませんよーっ、という風情で歩いてきた。
しかしその表情は気もそぞろだった。空木はすこし笑い、目の前まできた鵯華に鉛筆画を見せる。
「ほれ。どう?」
「これが、わたし──…………、…………くっそ下手じゃねーか! これをよくあんな玄人面して描いたよね!?」
鵯華が思わずといった様子で、スケッチブックをすぱーん! と叩いた。空木にも出来の悪さの自覚はある。デッサンは狂っているし、顔の描き方は悪く言えば幼稚園児、良く言っても小学校低学年だろう。
けれどもある程度の満足感はあった。
「あはは、鵯華のそういう反応も楽しみの一部だったんだ」
綾目と藤袴がそれぞれ、しみじみと語った。
「俺が先ほど言った通り、すぐにわかったろう」
「空木はけっこうなんでもできるほうだけど、絵心は壊滅的なんだよねぇ……。頭のなかで補正かかりすぎて見たままを描けないのかな?」
「空木の脳内補正かかると、わたしの顔、こんなちんくしゃなの……?」
鵯華は不服さが顔に漏れ出すぎて、逆に、空木が描いた鉛筆画に似てきていた。空木は鵯華のそんな横顔を見ながら考える。
満足感──ある程度の。
ついこのあいだまでは、それさえも得がたくなっていたのだ。鵯華がこの超・文芸部に入部してからの一週間ほどで、空木の日々はずいぶんマシになった。
なのに、楽しさだけではなく引っかかりが芽生えていた。
……これだけでは、足りていない。
むろん、プロ作家デビューを目指すための小説を書く、などというのは論外だ。そんなのはクソだ。断じて、ない。だが考えはまとまっていなくても、ある程度の、よりも先があるはずだ、という渇望じみた感覚があるのはたしかだった。
ありていに言えば、空木が鵯華という少女に抱いている感情を、自ら充分には堪能できていない。
あるいは、目の前に未知の世界への扉があるにもかかわらず、それを押し開けられていないような──。
ゴールデンウィーク最終日からさかのぼること、十一日。
「入部してから改めて、空木の小説を読み返してみたの。で、はい」
鵯華が、自分で表と文をプリントアウトしたと思しきコピー用紙を複数枚、手渡してくる。空木はそのとき、自宅から持ってきたタブレッドPCで、先日の限界突破ラーメン店めぐりの原稿を推敲していた。