転生程度で胸の穴は埋まらない

第一章 異世界転生 ④

 でも神様はそんなコノエにまた笑いかける。


『では、祝福を。あなたの行く先が、多くの笑顔であふれていますように』


 その言葉と共に、周囲を光が満たす。

 コノエは体の中に何か温かいものが宿ったのを感じて──。



 ──そして、さらに三十日後。

 コノエは訓練場の片隅で死にかけていた。


3


「──が、あぁぁああ、あぁぁ」


 コノエは血を吐く。胃の中身を吐く。悲鳴が漏れる。痛みに脳髄が支配されている。

 グラグラと脳が揺れて、今うずくまっている訓練場の床が不安定なシーソーに変わった気がした。


「立ちなさい。魔物は私のように待ってはくれないよ?」


 教官の声が頭上から降ってくる。

 コノエを誘ったのと同じ教官。しかし声にあの日の優しさはない。


「……ぐ、……っ!」


 苦しくて、でもなにかが風を切るような音がして、とっさにコノエは横に転がる。さっきまでいた場所に訓練用のやりが刺さる。コノエは、自らが吐いたに塗れながら立ち上がって。


「……ぅ、がぁ!」


 鉛のような手足を必死に動かして走り始める。

 そうしなければもっとひどい目に遭うことを知っているからだ。

 そして、走りながら思う。

 まあ、そうなるよね、と。

 最初から分かっていた。そんなに都合よくいくわけがない。

 そんな人生をコノエは送っていない。世の中は厳しいものだ。そもそも、訓練が厳しいとか大変とか教官が言っていたのをあえて無視したのはコノエだった。

 少し考えれば分かることだ。金がもうかる。名誉が手に入る。ただそれだけだと言うのなら、なぜわざわざ勧誘なんてしているのか。普通なら勝手に人が寄ってくるはずで、そうなっていない時点で、とんでもない地雷要素があるに決まっていた。


「──はぁ、はぁっ」


 だから今、コノエは調子に乗ったものの末路と言わんばかりに苦しんでいる。必死に手と足を動かしている。過酷すぎる訓練に死にかけながら、に塗れて走っている。


「走るのなら魔力を回しなさい。全力で体を強化しなさい──出来ないのなら、死になさい。大丈夫、死んだ後すぐならせいも出来るから」

「……っ」


 異常な鍛錬。日本ではありえないスパルタ式。



 では、それに苦しんでいるコノエはだまされたのかというと、だまされていない。

 あのとき教官が言っていたことは全てが真実だ。金も手に入る。実績も手に入る。女だって思いのままで、ヤバい薬だって使用は簡単だ。

 アデプト──生命魔法を極めた者。

 その称号を得れば手に入らないモノはあまりないらしい。大体全てがかなうらしい。

 それはかというと──。


「──アデプトとは、人類の守護者。力なき民の、最後のとりで。敗北は許されない。なによりも強くなければならない」


 知らない間にとんでもないものを目指していたとコノエが驚いたのは、訓練の初日だった。

 そしてその日以来、コノエはを吐きながら走っている。痛み続ける全身に覚えたばかりの魔力を無理やり通して走っている。少しでも力を抜けば拳が降ってきて、を吐かされている。

 訓練が終われば体力を生命魔法で回復されて魔法を学び、食事と僅かな休憩以外のほぼ全てを生命魔法のためにささげていた。

 ──いわく、凡人が生命魔法を極めるには魔力だけでは足りないらしい。

 人外の才の持ち主なら、普通の鍛錬でも極められる。しかし、凡人が極めるためにはきようじんな生命力が必要で、生命力を鍛えるためには強くならなければならない、と教官は言った。

 とう不屈の心と、鋼を超える肉体、そして圧倒的な武が必要なのだと。

 本来なら取得できない極限の魔法を凡人が身に付けるための訓練。それが、この地獄だった。


「腕が落ちたら足で戦いなさい。足を失えばってみつきなさい。死んでも戦いなさい。なる民の盾となりなさい。それが、アデプトだ」


 ──無茶を言うなと言いたかった。そんなことが出来るはずがない。

 身体からだは痛くない場所がなくて、心は折れかけている。凡人のコノエはこんな過酷な訓練に耐えられるようには出来ていない。本当は今すぐ逃げ出して辞めると言いたかった。

 ……でも。


「……!!」


 それでもコノエが必死に走るのは、目標があったからだ。

 奴隷ハーレム。れ薬。どれほど外道であっても、間違っていても。今度こそはと。


「コノエ、君は何のためにここに来たの? 君はなぜ、アデプトを目指したの?」


 そうだ。努力すれば、きっと手に入る。一人じゃなくなる。頑張れば、その先にはきっと。

 ──日本では違った。努力してもダメだった。

 必要なのはコミュニケーション能力で、それがどうしても手に入らないコノエには権利がなかった。一人で生きることしか出来なかった。だからいつだって一人で、最後も一人でのたうち回って死んだ。

 ──しかし、この世界なら努力すれば手に入る。

 コノエは努力は、勉強は苦手じゃなかった。

 ずっと勉強ばかりをしていたからだ。勉強しか、することがなかった。

 家庭は崩壊していた。友達は出来なかった。遊ぶだけのお金も、かといって非行に走るだけの度胸もなかった。暇な時間だけがあった。だからずっと机に向かっていた。人より優秀な頭ではなかったけれど、人並みには出来たからあとは努力で何とかした。

 金だけは出してもらえたからそこそこの大学にも行って……。

 ……でも、その結果が。


(──もう、一人で死ぬのは嫌だ)


 それが怖かった。隣にいてくれとは言わない。でも、少しでいいから、せめて悲しんでほしかった。そうしてくれさえすれば、コノエは。


『……僕なんて、生まれて来なければよかった』


 ──さいのとき。死のぎわに、あんなこと考えなくても良かったのに。


「……っ、はぁ、はぁ、っ、はぁ!」


 だから、今度こそはとコノエは走る。

 を飲み込んで、痛みを無視して、必死に前へ前へと足を動かして──。



 ──そして一年後。コノエは普通に心が折れた。


「……無理でしょこれ」


 アデプトは、凡人には荷が重かった。



 流石さすがに無理だったと思う。

 朝から晩まで終わらない訓練と学習。一つ越えたらすぐにもう一つ先のノルマを設定され、訓練に慣れたと思ったらもう一段階キツイ訓練を設定される。

 そんな毎日にとうとうコノエは心が折れてしまった。

 というか、よく一年も持ったと言えるだろう。以前コノエは小耳にはさんだことがある。過去同じ地球からの転生者が何十人もアデプトになるべく挑戦していて、その全員が十日たないうちに逃げ出していると。実はコノエはほぼ最初から最高記録を更新中だった。

 あまりにも苛烈な訓練は、人を選ぶ。『何も背負っていない人間に、アデプトの訓練は耐えられない』と言われていることをコノエは知っていた。


(──諦めよう)


 もう十分頑張った、と思う。

 そこそこ強くなったからここを出ても十分暮らしていけるはずだ、とも。

 最近、コノエは訓練で冒険者ギルドで中級に分類される魔物を倒していた。加えて、中級の治癒魔法も使えるようになった。

 それがどれくらいの価値を持つのかといえば……この国ではどのような分野でも下級に到達出来たら最低限食べていけるくらいには稼げると聞いていた。ぜいたくは出来ないけれど、一家でつつましやかな生活は出来ると。

 そういう社会の中で、コノエは二つの分野で中級に至っている。これは生活するだけなら十分すぎるくらいだった。